第29話 夕日の屋上
校舎の外に出ると、そこは色とりどりの屋台が立ち並び、活気に満ちた別世界だった。
焼きそばのソースの焦げる匂い、綿菓子の甘い香り、そして楽しげに笑い合う生徒たちの声。
沙蘭は珍しいものを見るような目で、キョロキョロと周囲を見回している。毒親である妙子に育てられた彼女は、教団の厳格な規則と質素な食事に縛られ、休日は桃源会館お祈りをするのが当たり前だった。こうした「普通の娯楽」や「ジャンクな食べ物」に触れる機会が、今まで一度もなかったのだ。
「何か食べたいもの、あるか?」
俺が尋ねると、沙蘭は少し戸惑いながらも、一つの屋台を指さした。
「えっと……あれは、何ですか?赤い、丸い……」
「ああ、りんご飴だよ。食べたことない?」
「はい……」
俺は財布を取り出し、真っ赤でツヤツヤしたりんご飴を一つ買って、沙蘭に手渡した。
「ほら、食べてみなよ」
「ありがとうございます……」
沙蘭は両手で大切そうにりんご飴を受け取ると、少し緊張した面持ちで小さな口を開け、飴のコーティングをパリッと齧った。
シャリッ、という音とともにりんごの果汁と飴の甘さが口の中に広がったのだろう。その瞬間、彼女の大きな黒い瞳が限界まで見開かれた。
「……っ!」
「どうした?口に合わなかったか?」
「こんなに甘くて、キラキラした食べ物……私、初めてです」
沙蘭の声は微かに震えていた。見ると、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
母親の狂信的な教えの下で、どれほど窮屈で味気ない世界を生きてきたのだろう。このジャンクで、どこにでもある普通の屋台飯が、今の彼女にとっては宝石のように特別で輝かしいものなのだ。
「……すごく、美味しいです」
涙ぐみながら無邪気に笑う彼女を見て、俺の胸の奥がキュッと締め付けられた。
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りんご飴を食べ終えた後、俺たちは「普通の高校生」の学園祭をさらに満喫すべく、校舎内の様々なクラスの出し物を回った。
「あ、伍東くん!あれ、やってみたいです!」
沙蘭が目を輝かせて駆け寄ったのは、教室の一角に作られた手作りの射的コーナーだった。
「射的か。よし、やってみよう」
俺は受付でコルク銃と弾を受け取り、見様見真似で沙蘭に構え方を教える。
「こうやって、ストックを肩にしっかり当てて、片目をつぶって狙うんだ。銃口の先と、的を一直線に合わせる感じで」
「こう、ですか……?」
沙蘭は真剣な表情でコルク銃を構えた。学校では常に完璧な「高嶺の花」として振る舞い、教団では狂信的な「大司教」として俺に接してくる彼女が、今はただの純粋な十七歳の女の子として、的に一喜一憂している。
パンッ!
「ああっ、外れちゃいました……」
「惜しい!もう少し右だな。ほら、貸してみな」
俺は彼女の背後に立ち、コルク銃に軽く手を添えて角度を調整してやる。石鹸のようないい香りが鼻先を掠め、沙蘭の肩がビクッと跳ねたが、彼女はすぐに照れくさそうに笑って、再び的を狙った。
パンッ!
見事、的になっていた小さなクマのぬいぐるみが倒れる。
「やりました!伍東くん、当たりましたよ!」
「すごいじゃないか。才能あるかもな」
景品のチープなぬいぐるみを胸に抱き抱え、ぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ沙蘭。その屈託のない笑顔は、狂ったカルトの教義など一切感じさせない、本当にありふれた青春の一ページだった。
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気がつけば、空は茜色に染まり始めていた。
学園祭の終わりを告げる後片付けの放送が鳴り響く中、俺たちは喧騒から逃れるようにして、夕暮れの屋上へとやってきた。
屋上には心地よい秋の風が吹き抜け、フェンス越しに見下ろす校庭では、生徒たちが祭りの余韻を楽しんで片付けをしている。
「……楽しかったな」
俺が夕日を見つめながらぽつりとこぼすと、隣に並んでフェンスに寄りかかっていた沙蘭が、深く頷いた。
「はい。私……今日のこと、一生忘れません」
夕日に照らされた沙蘭の横顔は、ハッとするほど美しく、そしてどこか儚げだった。
「お母様に連れられて、ずっとあの教団の地下室が世界のすべてだと思っていました。導師様にすべてを捧げることだけが、私の生きる意味だと……でも」
沙蘭は俺の方へ向き直り、真っ直ぐに目を見つめてきた。
その瞳には、かつての狂信的な熱は無い。ただ、純度百パーセントの透き通るような好意だけが宿っている。
「狂信的な教義や、大げさな救済なんかじゃなくて。ただこうして『伍東くん』と一緒に過ごす、このありふれた時間が……私にとっての、本当の桃源郷なんです」
彼女の言葉に、俺の胸の奥で熱いものが激しく込み上げてくる。
俺に処女を捧げると狂信的に迫ってきていた彼女の根底にあったのは、こんなにも純粋で、普通の女の子としてのささやかな願いだったのだ。
親父の気まぐれで教祖にされ、おとなしく高校を卒業することだけを願っていた俺。だが、今は違う。
「……俺が、守るよ」
「え……?」
「沙蘭のその普通の日常を、俺がずっと守り抜いてみせる」
俺の決意を込めた言葉に、沙蘭の大きな瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「伍東、くん……っ」
彼女は感極まったように、俺の胸に飛び込んできた。俺は彼女の華奢な体を強く抱きしめ、その温もりを確かに感じ取る。
夕風が俺たちの髪を揺らした。
俺はゆっくりと沙蘭の肩を離し、潤んだ瞳と視線を交ませる。
沙蘭は目を閉じ、少し震えながら、静かに顎を上げた。
俺は彼女の頬にそっと手を添え、その柔らかい唇に、静かにキスを落とした。
それは、教団の儀式でも、至誠の証明でもない。
ただの一人の男と女としての、初めての確かな誓いの口づけだった。
下から聞こえる祭りの喧騒を遠くに聞きながら、唇の微かな熱に触れ合う。俺はこの純粋な少女をカルトの闇から完全に救い出すまで、絶対に逃げないことを心に固く誓った。




