第3話 一人暮らし
「……つまり、俺に選択肢はないってことか」
俺は目の前に置かれた『代表役員 伍東奏多』と書かれた書類を睨みつけながら、絞り出すように言った。
白石さんは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、淡々と頷く。
「ええ。先ほども申し上げた通り、今すぐ代表を辞任すれば、税務署や警察が動く可能性があります。お父様からの仕送りも停止され、経歴に傷がつき、高校卒業はおろか、まともな進学も絶望的になるでしょう」
「脅迫じゃないか、そんなの。それにしても、なんで俺なんだよ。オヤジ自身が代表になればいいだろ!」
「仁社長は海外でのバカンス……ではなく、お仕事でお忙しいですから。日本の面倒な手続きや責任を背負う気は一切ありません」
「クソッ……あいつ、本当に親かよ」
「ご家族の事情に口を挟むつもりはありませんが、心中お察しします」
白石さんは若干の同情をくれた。
俺は深々とため息をついた。
幼い頃からオヤジの気まぐれには振り回され続けてきたが、まさか帰国初日に宗教法人の教祖にされる日が来るとは夢にも思わなかった。
だが、白石さんの言う通り、俺に拒否権はない。俺の目的は、おとなしく高校を卒業し、平穏な日常を手に入れることだ。ここで警察沙汰になって経歴に傷がつけば、元も子もない。
「……わかった。引き受けるよ。背に腹は代えられないからな」
自身の未来を守るため、俺は不本意ながらも新教祖就任を認めるしかなかった。
「賢明なご判断です、伍東代表」
白石さんは一切の感情を交えずに言った。
「やめてくれ、その呼び方。で、俺は一体何をすればいいんだ?教祖なんて、何をどうすればいいのか全く掴めないんだけど」
未知の領域に不安を抱く俺に対し、白石さんは少しだけ口角を上げたように見えた。
「ご安心を。こちらの教団は、現在はほぼ活動しておりませんので」
「活動していない?」
「ええ。前代表が色々とありまして、現在は休眠状態に近い状況です。ですから、あなたが特別な儀式を執り行ったり、布教活動をしたりする必要はありません」
その言葉を聞いて、俺は胸を撫で下ろした。
そういう事だったのか。てっきり、怪しげなローブを着て、胡散臭い説法でもさせられるのかと思っていた。
「もし、信者だって人が現れたらどうすればいい?」
「適当に雑談をしてお帰りいただければ大丈夫です。あなたにはアメリカで様々な方々とコミュニケーションをとられたスキルがおありでしょ?それと同じ感覚で結構です」
「雑談だけでいいのか。それなら、まあ……なんとかなるか」
「ええ。何かトラブルがあれば、こちらの番号にご連絡ください」
白石さんは名刺を一枚テーブルに置くと、手早く自分の荷物をまとめた。
「それでは、私はこれで失礼します。仁社長の気まぐれとはいえ、あなたの新しい生活が実りあるものになることをお祈りしております」
そう言い残し、白石さんはそそくさと洋館を後にした。
ギイィッ、バタン。
重厚な門が閉まる音が響き、広い屋敷に俺一人が残された。
シーンとした静寂が、急に耳に張り付くように感じられる。
数日前までいたアメリカでの日々が、まるで嘘のように思えた。
『カナタ!今日も最高の一日にしようぜ!』
『カナタ、この後のパーティー、絶対来てよね!』
言葉の壁や文化の違いはあったが、ジョンの馬鹿笑いや、エミリーの甲高い声が常に響く、騒がしくも活気に満ちた日々。
それに比べて、ここはどうだ。
聞こえてくるのは、遠くを走る車の走行音と、庭の木々が風で揺れる葉音くらいだ。
「……これもこれで、悪くないな」
俺は大きく伸びをしながら独りごちた。
求めていたのは、この静けさだ。オヤジの巻き起こす嵐から逃れ、誰にも干渉されない、俺だけの平穏な時間。
俺は自分のキャリーケースを開け、荷ほどきを始めた。
二階の生活スペースは、一人暮らしには持て余すほど広い。ベッド、机、本棚。必要最低限の家具は揃っているし、日当たりもいい。
「服はこっちのクローゼットで……本はここに並べるか」
作業を進めるうちに、先ほどまでの絶望感は薄れ、少しずつ前向きな気分になってきた。
ふと、窓の外に目をやると、一階から続く広い庭が見えた。
高い塀に囲まれてはいるが、スペースは十分すぎるほどある。
「あそこ、植物を育てるのにちょうどいいんじゃないか?」
俺の数少ない趣味は、植物の栽培だ。
アメリカにいた頃も、窓辺で小さなサボテンやハーブを育てていた。植物は文句も言わず、ただ静かに成長していく。その平穏さが俺の性に合っていたのだ。
「明日にでもホームセンターに行ってみよう。プランターをいくつか買って……何を植えようか。手入れが簡単なきゅうりか、ナスもいいな。少し時期は早いが、ここの温暖な土地ならいけるかもしれない」
庭の片隅に新しいプランターを並べ、土をいじり、水をやる自分の姿を想像する。
朝起きて、自分で育てたトマトをサラダにして食べる。そんなささやかで穏やかな生活。
「宗教法人の施設だってことさえ忘れれば、最高の物件じゃないか」
ふふっ、と自然に笑みがこぼれた。
来月の四月からは、新しい高校生活が始まる。
白石さんの手配のおかげで、転校手続きは全て終わっているし、制服もそのうち送られてくるらしい。
「日本の高校か。どんなところだろうな」
アメリカの自由な校風とは違うかもしれないが、俺は目立つつもりはない。
授業を真面目に受け、友達を少し作って、放課後はまっすぐこの家に帰って植物の世話をする。
誰も俺が宗教法人の教祖だなんて知りやしない。
「よし、まずはこの段ボールを全部片付けてしまおう」
高校生活への期待と、平穏な日々への想像が、俺の気分を大きく向上させていた。
宗教の代表役員にされたという事実も、活動していないのならただの名義貸しのようなものだ。
俺は鼻歌交じりに、荷ほどきの続きに取り掛かった。




