第23話 通帳の残高
【奏多視点】
8月。
伊佐美先生が泣いてスッキリした顔で帰っていったあの日から、俺のささやかな平穏はさらに崩壊の一途をたどることになってしまった。
俺の真っ当なストレスケア(ただの優しいカウンセリング)にすっかり感動してしまった先生が、自分の大人の友人たちを次々と教団に紹介し始めたのだ。
「ブラック医院で疲弊した女医」や「出世を争う女性官僚」など、社会的な地位はありながらも心に深い闇と孤独を抱えた女性たちが、毎日のように連れ立って桃源会館を訪れるようになった。
ある日の午後、伊佐美先生の紹介でやってきた孤独な女性経営者が、長机の向かいに座るなり、思い詰めたような顔でビジネスの悩みを吐露し始めた。
「伍東先生……社員が全く私についてこないのです。私はこんなにも会社のために尽くし、完璧なビジョンを提示しているというのに、誰も理解してくれない」
一流ブランドのスーツに身を包んだ大人の女性が、十八歳の高校生である俺に頭を下げている。ひどく居心地が悪かったが、俺は彼女の言葉を否定せず、ただ真摯に耳を傾けた。
そして、アメリカでの経験に基づく「多様性理論」を用いて、慎重に言葉を選んでアドバイスをした。
「社長のやり方が正しいとしても、社員にはそれぞれの人生や考え方があります。大切なのは、相手のバックボーンを尊重し、一方的に価値観を押し付けないことなんじゃないですか?」
俺としては、至極真っ当なアドバイス(相槌)を打ったつもりだった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、女性経営者の目の色がスッと変わった。張り詰めていた彼女の表情が崩れ、わなわなと肩を震わせ始めたかと思うと、突然大粒の涙をこぼしたのだ。
「そうか……!そういうことだったのですね!」
「えっ?」
「私が押し付けていたのは、現世の価値観という檻!個を解放し、太陽(教祖)を中心に霊気を交わらせる『八百万交和』の教えを、経営ビジョンに組み込めばいいのですね!」
俺は絶句した。
なんでそうなるんだ。大人の女性までもが、俺の常識的なアドバイスを、沙蘭や妙子の横槍で聞かされた旧教義と結びつけて勝手に大号泣し、大納得してしまったのだ。
「ちょっと待ってください!『八百万交和』って、信者同士が霊気を高め合うっていうか、そういうヤバい教義であって、決して会社に持ち込むものじゃ……!」
「ああ、心が洗われました!ありがとうございます、導師様!」
俺の制止も虚しく、経営者は憑き物が落ちたようなスッキリとした笑顔で帰っていった。
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そして数日後、取り返しのつかない恐ろしい事態が起きた。
自室で何気なく法人名義の預金通帳を開いた俺は、新しく印字された数字を見て、フリーズしてしまった。
「い、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……じゅうまん……ひゃくまん!?」
女性経営者から「先生のおかげで業績がV字回復しました!」というメッセージと共に、法人口座に100万円単位のお布施(コンサル料)がポンと振り込まれていたのだ。
それだけではない。伊佐美先生が紹介してくれた女医や他の女性たちからも、信者からの寄付や相談料(お布施)として、次々と大金が振り込まれている。思いのほか莫大な収入が発生してしまっていた。
俺は通帳を持つ手をガクガクと震わせた。
こんな大金、高校生が扱っていい額じゃない。親父が節税目的という適当な理由で買った宗教法人だ。前教祖が詐欺事件で逮捕されたという過去もある。
もしこの急激な莫大な収入が、税務署や警察の目に留まったらどうなる?「今すぐ辞任すれば責任はすべてあなた個人に降りかかる」と言った悪徳税理士の冷たい言葉が脳裏をよぎる。脱税?詐欺?高校生には抱えきれない恐怖に、俺は一人で頭を抱え、ただ震えることしかできなかった。
+++
月曜日の学校。
俺は目の下に真っ黒なクマを作りながら、自分の席に突っ伏していた。週末の対応と、通帳の残高を見た恐怖で、ろくに眠れなかったのだ。
「おい伍東、お前またゾンビみたいな顔になってんぞ」
人懐っこい声と共に背中をバンバンと叩いてきたのは、クラスメイトの半田哲だった。
彼は教団の裏事情など一切知らない、俺にとって唯一の常識的理解者だ。ひたすら普通のキャンパスライフを謳歌しようとしている彼だけが、俺を現世に繋ぎ止めてくれる命綱だった。
「……半田か」
俺は顔を上げ、すがるような思いで口を開いた。カルトの教義だの、宗教法人の代表だのとは言えないが、この抱えきれない重圧を誰かに聞いてほしかった。
「最近、大人の女の人がいっぱい家に来て、どんどんお金を置いていくんだよ……」
俺が心底疲れ切った深刻な声で相談すると、半田は目を見開いた後、バンッと机を叩いて興奮気味に身を乗り出してきた。
「はははっ!お前、それパパ活じゃなくてママ活じゃん!超ラッキーじゃん!」
「……は?」
「年上の綺麗な女の人が家に押しかけてきて、お金までくれるんだろ?男の夢じゃんか!その太客たち絶対逃すなよ!」
半田は、底抜けにポジティブな勘違いアドバイスを全力でぶつけてきた。
彼からすれば、俺の状況は羨ましい限りのハーレムルートに聞こえるのだろう。だが、相手は教義を曲解して暴走する大人の女性たちと、税務署の影がチラつく莫大なお金だ。
「そういう問題じゃないんだよ……」
俺は深く、重いため息をついた。呆れつつも、これ以上彼に真実を説明することはできなかった。
半田は「太客を逃すな」と笑うが、現実はそんな甘いものではない。
大人の女性たちを無下に追い返すことができれば、どんなに楽だろう。だが、彼女たちは皆、切実に心の救いを求めて教団を訪れるのだ。目の前で涙を流し、苦しみを吐露する迷える大人たちを見捨てることは、俺の良心が咎めた。
真っ当に話を聞いて寄り添えば寄り添うほど、彼女たちは俺の言葉を都合よく旧教義に曲解し、救われたと勘違いして大金(お布施)を置いていく。そして、そのお金が増えれば増えるほど、俺の抱えるリスクは雪だるま式に膨れ上がっていくのだ。
逃げ場のない、お布施が増え続ける負のスパイラル。
俺の「おとなしく高校を卒業したい」というささやかな願いは、莫大なお金と狂信的な信者たちの熱波に飲み込まれ、完全に遠のいていくのだった。




