第21話 保健室での苦悩
【伊佐美凪子視点】
8月。
容赦ない夏の日差しがアスファルトを焼き焦がし、蝉の鳴き声が耳障りに響く季節。
夏期講習期間中の私立聖明学園高等学校は、本来なら静まり返っているはずだが、生徒たちの熱気と、見えない重圧とが入り混じった独特の空気に包まれていた。
「はぁ……」
私は誰もいない保健室で、大きく重いため息をついた。
養護教諭である私、伊佐美凪子の朝は、乱れたベッドのシーツを直すことから始まる。ふと洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、またため息が漏れた。
二十八歳という年齢以上に老け込んで見える原因は、目の下にべったりと張り付いた濃いクマと、光を失った死んだような目だ。白衣を羽織り、少し崩れたまとめ髪を直しながら、私は自分の疲労が限界に達していることを自覚していた。
学校という閉鎖空間でのブラック労働。それに加えて、この学園特有の「完璧であること」を強いる校風が、生徒たちの心を静かに、確実に蝕んでいる。
保健室には、親からのプレッシャーや人間関係に疲れ果てた生徒たちが毎日のようにやってくる。私は彼らの重い悩みを抱え込み、誰にも言えずに一人でストレスを溜め込み続けていた。
ふと、開け放たれた窓から、中庭を歩く生徒たちの声が聞こえてきた。
「ねえ、昨日の『交和』も素晴らしかったわね」
「うん!太陽である導師様を中心に、私たちが身を捧げて霊気を高め合うのよ!」
――え?
私はシーツを整える手を止め、窓辺に駆け寄った。
中庭を歩いていたのは、学校内カーストの頂点に君臨する生徒会長、天王寺雅さんと、数人の女子生徒たちだった。
以前の天王寺さんは、完璧主義で常に張り詰めた、悲壮感すら漂う顔をしていた。しかし今の彼女は、憑き物が落ちたように異様に晴れやかな顔をしている。
だが、その会話の内容はどう考えても異常だった。
「これで私たちも桃源郷に行けるのね」
「一人でも輪を乱しちゃダメだから、みんなで至誠を証明しましょう!」
身を捧げる?霊気を高め合う?桃源郷?
背筋に冷たい汗が伝った。最近、女子生徒たちの間で奇妙な口コミが広がっているのは知っていた。「心が救われる場所がある」「悩みをすべて受け止めてくれる人がいる」と。
ただの相談所か何かだと思っていたが、今の会話は明らかに違う。カルト宗教特有の、危険な洗脳の匂いがする。
(生徒たちが、いけない組織に狙われている……!)
噂の出どころは、隣町の柿崎町にある『桃源会館』という古い洋館だという。
養護教諭として、生徒たちの心身の安全を守るのは私の使命だ。これ以上、その怪しいカルト集団の毒牙にかかる生徒を増やすわけにはいかない。
私は白衣のポケットに両手を突っ込み、強く決意した。今日の放課後、必ずそのアジトに乗り込んで、生徒たちを解放してやると。
+++
放課後。私は警戒心を全開にして、栗ヶ丘市柿崎町の古い住宅街の奥に立つ、いびつな洋館の前にやってきた。
高い塀と鬱蒼とした木々に囲まれた、見るからに不気味な佇まい。門の横には『桃源交霊会』という木製の看板が掲げられている。
(ここが、生徒たちを洗脳しているカルトのアジト……)
私はゴクリと唾を飲み込み、意を決してインターホンのベルを鳴らした。
ピンポーン、という無機質な音が響き、やがて重厚な玄関の扉がゆっくりと開いた。
「はい。どちら様……って、伊佐美先生?」
扉の奥から顔を出した人物を見て、私は思わず声を失った。
そこに立っていたのは、見知らぬ怪しい教祖などではない。今年の春にアメリカから転校してきたばかりの、落ち着いた顔立ちの男子生徒――伍東奏多くんだったのだ。
「ご、伍東くん!?どうしてあなたがこんな所にいるの!?もしかしてあなたも……」
「どうしてって、ここは俺の家ですから。先生こそ、どうしてここに?」
彼は少し驚いた様子だったが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
私は混乱する頭を必死に働かせた。転校生がカルトのアジトに住んでいる?いや、まさか……。
「伍東くん、あなたがここの『導師様』と呼ばれている教祖なの?」
「教祖っていうか、親父の都合で代表役員にされちゃっただけで……。別に怪しいことは何もしてませんよ」
奏多君は「怪しい洗脳教団」という裏の顔を必死に隠そうとしているのか、目を逸らしながら言い訳を並べた。
「俺はただ、家に来た人たちの真っ当な相談相手をしているだけです。みんな、スッキリして帰っていきますし」
「真っ当な相談相手ですって?」
私はカチンときて、教師としての威厳を振り絞って彼を睨みつけた。
「伍東くん、素人のあなたが中途半端な知識でカウンセリングごっこをするなんて、非常に危険よ!大学で学ぶ教育心理学や発達心理学の理論に照らし合わせても、素人の介入は依存を生むだけで根本的な解決にはならないわ!」
「いや、俺は別に介入とかじゃなくて……」
「現に、天王寺さんたちは『霊気を交わらせる』なんていうおかしな言葉を使っていたわ!これ以上、生徒たちを危険な教義で洗脳するのはやめなさい!」
私はまくし立てた。生徒を守らなければという焦りと、自分自身の余裕のなさが、言葉を必要以上に尖らせていた。
しかし、私がどれだけ厳しい言葉を投げかけても、奏多君は反発するでもなく、怒るでもなく、ただ静かに私の目を見つめていた。
「……先生のご心配はもっともです。でも、この暑い中で立ち話もなんですし、ひとまず中へ入ってください」
「えっ……」
反論してくるだろうと予想していたが違った。彼は私を尊重するような、ひどく穏やかな声でそう言うと、玄関の奥へと招き入れてくれた。
張り詰めていた私の怒りは、彼の予想外の落ち着きを前に、空回りしてしまったような感覚に陥った。




