第20話 手料理の夕食
幼い頃に病気で亡くした、母親の記憶。
キッチンに立つ母の背中、まな板を叩くトントンというリズミカルな音。出汁の温かい匂い。
俺が失ってしまった「当たり前の家族の温かさ」を、沙蘭もまた、最初から知らずに育ってきたのだ。
毒親である妙子さんに連れられ、幼少期から狂った教義を刷り込まれてきた彼女。
「18歳の誕生日に処女を捧げる」という過激な教義の裏側に隠されていたもの。
それはただ、「好きな人と穏やかに笑い合える、当たり前の時間が欲しい」という、切実で純粋な願いだったのではないか。
俺の胸の奥で、単なる同情や、やっかいな信者に対する義務感とは全く違う感情が熱を帯びていく。
こんなにも純粋で、無防備に俺を慕ってくれる彼女を、カルトの狂気から守り抜いてやりたい。深い共感と共に、強い庇護欲が込み上げている。
「……導師様?」
俺が黙り込んでしまったせいか、沙蘭が小首を傾げてこちらを覗き込んできた。
「いや、なんでもない。そろそろ夕飯を作ろうか。買ってきた豚肉とキャベツで、生姜焼きでもどうかな」
「生姜焼き……! はい、ぜひお願いします!」
目を輝かせる沙蘭と共にキッチンに立ち、簡単な手料理を完成させる。
長机に向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。沙蘭は生姜焼きを一口食べると、ふわりと目を細め、やがてその大きな瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「……美味しい。こんなに温かくて、美味しいご飯……私、初めて食べました」
「大げさだな。ただの家庭料理だよ」
「いいえ。導師様が一緒に作ってくださったから……これが、本当の桃源郷の味なんですね」
また教義と結びつけようとする彼女の言葉に、いつもなら頭を抱えるところだ。だが今の俺は、ただただ彼女が愛おしく、この笑顔を守りたいと心から思っていた。
+++
翌日。月曜日の朝。
私立聖明学園の教室は、相変わらず「完璧であること」を求める見えない重圧に包まれている。
俺は自分の席に座り、窓の外を眺めながら、昨日の夜の出来事を反芻していた。
今朝起きたときから、どうも調子がおかしい。沙蘭のあの無防備な笑顔や、美味しそうにご飯を頬張る姿を思い出すたびに、胸の奥がソワソワと落ち着かなくなるのだ。
ガラッ、と教室の前扉が開いた。
透き通るような白い肌と、一糸乱れぬ長い黒髪。誰もが振り返る孤高の美少女、四ノ宮沙蘭が登校してきたのだ。
彼女はいつも通り、周囲の喧騒には目もくれず、完璧な優等生の冷たい仮面を被っている。……はずだった。
しかし、教室に入ってきた沙蘭は、一直線に俺の席へと向かって歩いてきたのだ。
周囲の男子生徒たちが「えっ、四ノ宮さんがなんで転校生のところに?」とざわめき始める。俺の隣の席の半田も、目を丸くしてポカンと口を開けていた。
沙蘭は俺の机の前でピタリと立ち止まると、少しだけ背中を丸め、上目遣いに俺を見た。
学校だから当然「導師様」とは呼べない。彼女は少しはにかんだような、それでいてどこか嬉しそうな声で、小さく口を開いた。
「おはよう、伍東くん。……昨日は、その、色々とありがとう。とっても楽しかった」
その瞬間、教室が水を打ったように静まり返った。
学園トップの高嶺の花である四ノ宮沙蘭が、男子生徒に自ら話しかけ、あまつさえ「昨日はありがとう」と頬を染めている。それは、この学校においては天変地異に等しい出来事だった。
だが、俺が驚いたのは周囲の反応ではなかった。
沙蘭が俺に向けた、その自然で、恥じらいを含んだ『普通の女の子』としての笑顔を見た瞬間――。
ドクンッ。
心臓が、これまで経験したことのないほど大きく跳ねたのだ。
耳の奥で、自分の鼓動がうるさいほどに鳴り響いている。顔がカッと熱くなるのが自分でも分かった。
「あ……あ、ああ。おはよう、四ノ宮さん。こっちこそ……手伝ってくれて助かったよ」
俺は声が裏返らないように必死に制御しながら、しどろもどろに返事をした。
「ふふっ。じゃあ、またね」
沙蘭は嬉しそうに微笑むと、自分の席へと座った。
彼女の背中を見守りながら、俺は胸元をギュッと掴んだ。
ヤバい。
俺は今、彼女を『ヤバい宗教のいち信者』として見ていなかった。ただの一人の、とてつもなく可愛らしい女の子として強烈に意識してしまっている。
「おいおい伍東ォ! お前、いつの間に四ノ宮さんとそんな仲になってんだよ!?」
半田がバンバンと俺の背中を叩きながら興奮気味に詰め寄ってくるが、俺の耳には全く入ってこなかった。
『おとなしく高校を卒業し、平穏な日常を過ごす』
それが俺のささやかな願いだったはずだ。教祖を演じているのも、過激な教義から彼女たちを逸らすためだった。
だが、昨日の穏やかな時間と、今朝の彼女の無防備な笑顔で、俺の中の何かが決定的に変わってしまった。
俺は、四ノ宮沙蘭に恋をしているのか?
自身の芽生え始めた感情への戸惑いと、彼女をなんとしても守り抜くという決意。二つの相反する熱が胸の中で渦を巻き、俺の高校生活は、平穏とはかけ離れた、しかし絶対に見過ごせない新たなフェーズへと突入していくのだった。




