第19話 買い物
7月。
梅雨が明け、本格的な夏の日差しが『桃源会館』の広い庭に照りつけている。
ある日曜日の午後。俺は縁側に腰を下ろし、庭のプランターに静かに水をあげていた。
かつて妙子さんたちが神事に使うと騒いだナスやキュウリの苗はとうに引き抜き、今は無害なミントやバジルのハーブが青々と葉を茂らせている。
「導師様、冷たい麦茶をお持ちしました」
背後から涼やかな声がして振り返ると、四ノ宮沙蘭がお盆を手に立っていた。
「ありがとう、四ノ宮さん。ちょうど喉が渇いていたんだ」
彼女は縁側に腰を下ろし、俺にグラスを差し出す。氷がカランと涼しげな音を立てた。
「庭の手入れ、お疲れ様です。ハーブの香りがとても爽やかですね」
「ああ。こうして植物の世話をしていると、心が落ち着くんだ」
俺たちは、しばらく並んで庭を眺めながら、静かに麦茶を飲んだ。信者たちが押し寄せるドタバタした日常が嘘のように、今はただ、穏やかな時間だけが流れている。
ふと、縁側に置かれたままの空のプランターや、少し散らかった園芸用品が目についた。
「四ノ宮さん、もしよかったら、少し片付けを手伝ってくれないか?」
「はい、喜んで。導師様のお手伝いができるなんて、光栄ですわ」
二人で並んで、土の入った袋を運んだり、じょうろを片付けたりする。ささやかな家事や作業だが、こうして誰かと一緒にこなすのは悪くない。
一通りの片付けが終わると、俺は時計を見た。夕方に差し掛かろうとしている。
「そういえば、夕飯の食材が切れてたな。四ノ宮さん、少し手伝ってもらったお礼に、夕飯でも作ろうか?もし時間があるなら、スーパーへの買い出しに付き合ってくれないか」
「ス、スーパー、ですか?」
沙蘭は目を丸くして驚いた。
「ああ。近くの大型スーパーに行こうと思うんだ」
「はい……!ぜひ、お供させてください!」
なぜか少し頬を染め、沙蘭は嬉しそうに頷いた。
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栗ヶ丘市駅前の大型スーパーは、休日の夕方ということもあり、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。
自動ドアを抜けると、冷房の効いた涼しい空気と、惣菜売り場からの香ばしい匂いが漂ってくる。
「なんだか、人が多いな」
俺が入り口でショッピングカートを引き出しながら言うと、沙蘭は周囲を珍しそうにキョロキョロと見回していた。
「私、こういう場所に来たのは初めてかもしれません」
「初めて?スーパーに?」
「はい。お母様は、食事はいつも教団の決まりに沿った質素なものか、お祈りの合間に出来合いのものを買ってくるだけでしたから。こうして、誰かと一緒に夕飯の食材をじっくり選ぶなんて……」
沙蘭の視線の先には、カートを挟んで「今日の晩ごはんはハンバーグがいい!」「またぁ?昨日はカレーだったじゃない」と笑い合う親子連れの姿があった。彼女はその光景を、どこか眩しそうに見つめている。
彼女は毒親である四ノ宮妙子に連れられ、幼少期から教団に無理やり入信させられていた『生粋の宗教二世』だ。狂った教義ばかりを聞かされ、一般的な家庭の温かさや、普通の日常というものを知らないようだ。
「……そっか。じゃあ、今日は好きなものを買おう。何が食べたい?」
俺が尋ねると、沙蘭はハッとして、遠慮がちにカートの端にそっと手を添えた。
「導師様が作ってくださるなら、なんでも美味しいはずです。でも……こうして一緒にカートを押して歩くの、なんだか不思議な気持ちになりますね」
俺と沙蘭が一つのカートを挟んで並んで歩く。彼女の白く細い指先が、嬉しそうにカートの持ち手を握っていた。
精肉コーナーで特売の豚肉を眺め、野菜コーナーで新鮮なキャベツを選ぶ。その一つひとつの工程を、沙蘭はまるで宝探しでもしているかのように目を輝かせて楽しんでいた。
「普通の家族みたい、ですか?」
ポツリと呟いた沙蘭の横顔は、学校でのクールな高嶺の花でも、地下室で見せる狂信的な信者の顔でもなかった。ただの、純粋で年相応の女の子の顔だった。
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桃源会館に戻り、買ってきた食材を冷蔵庫にしまったり、キッチンの片付けをしたりと、再び二人でささやかな共同作業をこなす。
「ネギはこっちの野菜室でいいですか?」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
他愛のないやり取り。教義も、至誠も、桃源郷も関係ない、ただの生活の一部。
作業を終え、二人でリビングのソファに腰を下ろして一息つく。窓の外は、すでに夕闇が迫っていた。
「はあ……」
俺はソファの背もたれに深く体を預け、自然と口から言葉がこぼれた。
「こういう、何もない普通の日曜日を過ごすのが一番落ち着くよな」
俺がそう言うと、沙蘭は目を伏せ、小さく頷いた。
「……はい」
顔を上げた彼女の口元には、ふわりとした笑みが浮かんでいた。
学校の生徒たちを突き放すような冷たい笑顔じゃない。教団で俺に迫ってくるときの、熱に浮かされたような妖しい笑顔でもない。
警戒心を完全に解いた、年相応の無防備な笑顔だった。
「私……ずっと、こういう時間が欲しかったのかもしれません」
沙蘭は両手を膝の上で組み、静かに語り始めた。
「家では母親が全てでしたので、教団の教えは、私にとって絶対でした。でも、本当は少し怖かった。……だから、こうしてただ一緒に作業をして、笑い合って、普通の時間を過ごせる今が、とても愛おしいんです」
彼女はまっすぐに俺の目を見た。その瞳には、嘘偽りのない純粋な光が宿っていた。
「教祖様とのこの静かな時間が、私にとっても一番の救い……ここが私の『桃源郷』なのかもしれません」
彼女の言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。
過激な『十八歳の誕生日に処女を捧げる』という誓い。その裏にあるのは、狂信的な信仰心だけじゃなかったんだ。
ただ、「好きな人と穏やかな時間を過ごしたい」という、普通の女の子なら誰もが持つ無意識の願い。
親父の気まぐれで海外を転々とするうちに、俺自身がいつの間にか失ってしまっていた『当たり前の家族の温かさ』。それを、この目の前にいる少女もまた、知らないまま育ってきたのだ。
同じように欠落を抱えながら、それでも俺を慕い、こんなにも穏やかに微笑んでくれる。
(……守ってやりたい)
それは、単なる同級生への恋愛感情でも、教祖としての責任感でもなかった。
もっと根本的な、深い共感と庇護欲。
狂ったカルトの教義なんかじゃない。彼女が心から望むこの『当たり前の時間』を、俺が守り抜いてやらなければならないと、強く惹かれ、そして決意したのだった。




