第18話 暴走
俺は必死に声を張り上げた。
「違う!天王寺さん、今のこの人の言葉は忘れてくれ!俺が言いたかったのは、君が君自身の意思で自由に生きていいってことで……!」
だが、俺の必死の弁明は、完全に手遅れだった。
長机の向かいに座る天王寺会長は、顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろした。その瞳からは、先ほどまでの重圧に苦しむ疲労感は完全に消え去っている。代わりに宿っていたのは、沙蘭と同じ――いや、完璧主義で責任感が強いがゆえの、極端で危険な思い込みの光だった。
「私が……完璧である必要はない……」
彼女は恍惚とした表情で、焦点の定まらない目を虚空に向けた。
「そうか、一人で抱え込む必要なんてなかったのですね。私たちはただ、桃源導師様という絶対的な中心に身を委ねればいい」
「いや、委ねなくていい!自分の足で立ってくれ!」
「皆で身を捧げて輪を完成させなければ、桃源郷の扉は開かないのですね!」
「どうしてそうなるんだよ!!」
俺の魂からのツッコミも虚しく、天王寺会長は再び大粒の涙を流して号泣し始めた。しかし今度の涙は、安堵や解放の涙ではない。歪んだ真理に到達してしまったという、危険極まりない宗教的カタルシスの涙だった。
「なんてこと……。私が一人で完璧な生徒会長を演じていたのは、あまりにも傲慢でした。導師様という太陽の前に、私たちはただの無力で多様な個性の一つに過ぎない。この身を捧げ、霊気を極限まで高め合うことでしか、真の調和は生まれないのですね!」
「天王寺さん、落ち着いて!頼むから俺の真っ当な多様性理論を、そんなヤバい方向に解釈しないでくれ!」
俺が席を立って彼女をなだめようとした瞬間、天王寺会長は弾かれたように立ち上がった。
彼女は一糸乱れぬ黒髪を振り乱し、ズイッと俺の目の前まで顔を近づけてきた。石鹸と、かすかな汗の匂いが鼻先を掠める。
「導師様……。私、やっと理解しました。この学園の閉塞感も、親からのプレッシャーも、すべては現世の肉体という偽りの檻だったのですね」
「檻じゃなくて、ただの思春期の悩みだってば!」
「いいえ!今こそ、私は自分らしさを解放します!」
天王寺会長はそう叫ぶと、なんと自分の制服の胸元にあるリボンに手をかけ、勢いよくシュルリと解いてしまった。
「ちょっ、ストップ!何を解き放とうとしてるの!?」
「偽りのない『至誠』の証明ですわ!沙蘭さんだけに独占させるわけにはいきません!」
彼女の完璧主義で極端な性格が、最悪の形で発揮されていた。やるからには頂点を目指さなければ気が済まないのだろう。彼女は完全に誤解したまま、俺に凄まじい勢いで迫り始めた。
「さあ、導師様!私のこの重圧から解放された霊気をお受け取りください!沙蘭さんよりも先に、私が最高の至誠を……!」
「近っ!近いから!そして霊気ってなんだよ!」
俺が慌てて後ろにのけぞると、背中がドンッと壁にぶつかった。逃げ場がない。
「素晴らしい覚悟です、天王寺さん」
そんな俺の絶体絶命のピンチに、沙蘭が涼やかな声で拍手を送る。彼女は嫉妬するどころか、教祖を囲んで身を捧げ合う旧教義『八百万交和』の同志が増えた喜びで目をキラキラと輝かせていた。
「ですが、新参者のあなたにいきなり一番手は譲りません。お茶汲みから始めて、しっかりと至誠を証明していただきますわ」
「ええ、望むところです、先輩信者様。桃源郷の扉を開くためなら、私はどんなことでも完璧にこなしてみせますわ!」
学校ではカーストの頂点にいるはずの生徒会長が、沙蘭に対して完璧な所作でへりくだっている。カーストの完全な逆転が起きていた。
「ああ、なんて素晴らしい調和(交和)でしょう……」
母の妙子が、頬に両手を当ててうっとりとため息を漏らす。
その言葉を合図にしたかのように、部屋の隅で様子を窺っていた他の女子生徒たちも、次々と立ち上がり始めた。
「私、生徒会長がそこまで言うなら……」
「うん、私も!みんなで輪を完成させなきゃ!」
「導師様、私も至誠を捧げます!」
「待て、待て待て待て!お前らまで流されるな!輪とか完成させなくていいから!」
俺の悲鳴は、熱狂の渦に完全に飲み込まれていた。
居場所のない女子たちが続々と押し寄せた結果、俺の意図した「真っ当なカウンセリング」は、彼女たちの心の闇と過激な旧教義によって、最悪の化学反応を起こしてしまったのだ。
「さあ、導師様。私たちと共に、霊気を交わらせましょう!」
「沙蘭さん、私も負けませんからね!」
迫り来る熱烈な信者の群れと、先頭で俺のシャツのボタンに手を伸ばそうとする完璧主義の生徒会長。
「だから、違うって言ってるだろぉぉぉっ!!」
俺は壁を背にしたまま、完全に頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
海外で培った多様性理論も、常識人としての説得も、この狂気に満ちた空間では何の意味も持たなかった。彼女たちの暴走と過激な旧教義を抑え込むために制定した“新しい教義”は、見事に大自爆という結果に終わったのだ。
おとなしく高校を卒業し、平穏な日常を過ごしたいという俺のささやかな願い。それは、熱気に包まれた『桃源交霊会』の集会所の中で、無情にも引き裂かれていくのだった。




