第16話 生徒会長
6月。
梅雨入り間近のじめじめとした湿気が、私立聖明学園の廊下に重く立ち込めていた放課後のことだ。
「おい、そこの君。ネクタイが少し緩んでいるわ。聖明学園の生徒としての自覚を持ちなさい」
凛とした、しかしどこか冷たさを伴う声が響き渡った。
声の主は、生徒会長の天王寺雅だ。
彼女は一糸乱れぬ黒髪のストレートヘアと、一切の隙を感じさせない完璧な制服の着こなしを体現している。この学校において、彼女は間違いなく学校内カーストの頂点に君臨する存在だった。
「す、すみません、生徒会長……」
「わかればいいのよ。規律を守ることが、あなた自身の価値を高め、ひいては学園の品位を保つことになるのだから。次は気をつけるように」
注意された生徒が逃げるように去っていくのを、俺は少し離れた場所から静かに眺めていた。
この聖明学園は創立50年を迎える進学校であり、「規律」と「文武両道」を重んじる厳格な校風が特徴だ。世間体は非常に良い学校だが、その裏では教師にも生徒にも「模範的であること」を強く求めるため、学校全体に目に見えない重圧が漂っている。アメリカの自由な校風に慣れていた俺からすれば、少し息苦しさを感じるほどの閉塞感だった。
完璧主義で責任感が強い天王寺会長は、まさにその校風を体現したような人物だ。しかし、俺には彼女の眼鏡の奥にある瞳が、知性とともに、どこか張り詰めたような疲労感を隠しているように見えてならなかった。
「……大変そうだな、生徒会長も」
俺は小さく呟いて、足早にその場を離れた。
俺の目標は、あくまでおとなしく高校を卒業し、平穏な日常を過ごすことである。学校の頂点に立つ完璧な彼女と、目立たず生きたい俺とでは、交わることのない別世界にいるはずだった。
少なくとも、この時まではそう信じて疑わなかった。
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「さあ、桃源導師様。本日のお茶をお持ちしましたわ」
「ありがとう、四ノ宮さん……って、ちょっと待ってくれ。また人が増えてないか?」
俺がため息交じりに尋ねると、教団では古株の四ノ宮沙蘭が、満足げな笑みを浮かべて深く頷いた。
「ええ。導師様の素晴らしいお教えが、現世のストレスという檻に囚われた迷える魂たちを導いている証拠ですわ。皆さん、救済を求めていらっしゃるのです」
放課後の桃源会館。
一階の集会所には、俺の予想を遥かに超える人数の女子生徒たちが集まっていた。
沙蘭が学校で穏やかな表情を見せ、居場所のない女子たちを勝手に引き寄せ始めた結果、教団は今や大盛況となりはじめているのだ。
彼女たちは皆、学校の重圧や人間関係に疲れ果てた顔をしており、すがるような目で俺を見つめてくる。
俺は彼女たちの暴走と、あの地下に封印した禁書『桃源聖交録』に記された過激な旧教義を、なんとしても抑え込む必要があった。
そこで俺が苦肉の策として打ち出したのが、「悩み相談」や「自己研鑽」を主軸とした“新しい教義”の制定である。
といっても、怪しい宗教的儀式など一切行わない。実態はただの健全なカウンセリングや学習支援に過ぎない。
「導師様、少しお話を聞いていただいてもいいですか?私、友達との関係が上手くいかなくて……」
「ああ、いいよ。座って。焦らなくていいから、ゆっくり話してごらん」
俺は幼い頃に母親を病気で亡くし、海外生活の中で理不尽な差別を受けた経験から身につけた『多様性理論』を用いた真っ当な相談窓口を設けたのだ。
「みんな違っていいんだ。無理に周りに合わせる必要はないよ」と、俺としてはごく普通の対応を繰り返していただけだった。
しかし、これが完全に裏目に出続けた。
「導師様のお言葉……これぞ真の救済……!」
「心が軽くなりました!導師様、一生ついていきます!」
俺の海外生活での経験や持ち前の真面目な対応が、居場所を求める彼女たちに妙にウケてしまい、口コミでさらに人が集まる事態を引き起こしてしまったのだ。
(なんでこうなるんだよ……俺はただ、真っ当なことを言ってるだけなのに!)
頭を抱えたくなる状況の中、玄関のインターホンが控えめに鳴った。
「私が開けてまいりますわ」
沙蘭が優雅な足取りで玄関に向かい、やがて一人の訪問者を一階の居間へと案内してきた。
その人物の顔を見た瞬間、俺は持っていたボールペンを危うく取り落としそうになった。
「えっ……天王寺、生徒会長?」
そこに立っていたのは、学校では完璧を絵に描いたような天王寺雅その人だった。
しかし、今の彼女には放課後の廊下で見せたような学校での威厳は微塵もなかった。肩をすぼめ、視線を泳がせ、どこか怯えたような表情で居間を見回している。




