第11話 立ち向かう決意
これ以上こんなおぞましい文字の羅列を見ていられるか。そう思い、勢いよく本を閉じようとしたその時だった。
最終段階『桃源郷の開顕』のページの片隅に、補足のように記された一文が目に飛び込んできた。
『時に、ナスやキュウリといった長細い野菜を道具として使用することもある』
「……は?」
俺は動きを止め、その一文を何度も読み返した。
ナスや、キュウリ……?
その単語を見た瞬間、俺の脳内に昨日のうららかな春の情景がフラッシュバックした。
ホームセンターで買ってきた真新しいプランター。心地よい土の匂い。額に汗して、俺が一つひとつ丁寧に庭へ植えた、愛おしい野菜の苗たち。
そして、今朝の妙子さんの嬉しそうな声が、耳元で鮮明に蘇った。
『ナスやキュウリといえば、神事で使う大切なものですもの。教団の活動が再開したのだと思って……』
「あ、あああぁぁぁっ!俺、自ら最悪のフラグを立ててたのか!」
俺は頭を抱え、情けない悲鳴を上げた。
なんという皮肉だろう。俺のささやかで平和な趣味が、あの狂信者たちにとっては「桃源導師様が儀式の準備(しかも性的な)を整えてくださった」という、最高のアピールになってしまっていたのだ!
「冗談じゃない!あんなもん、絶対に実を付ける前に引っこ抜いてやる……!」
パニックに陥りながらも、俺は手元の禁書を見てゾッと寒気を覚えた。
この『桃源聖交録』は、ただの不気味な本ではない。教団の異常性を証明する、決定的な証拠品だ。
もしも何かの拍子に外部の人間が建物に入り、この本が見つかってしまえばどうなるか。
カルト宗教として認定され、間違いなく一発でアウトだ。その時、代表役員として矢面に立たされるのは俺なのだ。
「こんなヤバい代物、絶対に見つかっちゃダメだ……!」
俺は震える手で禁書を元の風呂敷に包み直すと、階段を駆け上がり、二階の自室へと向かった。
そして、部屋の隅にある押入れの扉を勢いよく開け、冬物のコートや使わない毛布の奥深くに、その呪われた本を厳重に押し込んだ。
二度と日の目を見ないように、分厚い段ボールで蓋をして、完全に封印する。
「よし……これで、ひとまずは安心だ」
荒い息を吐き出しながら、俺は押入れの扉を閉めた。
+++
証拠隠滅を終えた俺は、糸が切れたようにベッドの上へ倒れ込んだ。
仰向けになり、真っ白な天井を見つめる。
心身ともに疲労困憊だ。数日前までいたアメリカでの日々が、はるか昔のことのように感じられる。
「カナタ、今週末のパーティー、絶対来いよな!イケてる女の子、紹介してやるからさ!」
「カナタったら真面目すぎ!もっと人生エンジョイしなきゃ!」
アメリカにいたころ、周りの高校生たちは、それこそ日本の高校生が休日にスポッチャで遊ぶかような、極めて気軽な感覚でセックスを楽しんでいた。
だが、生来の常識人気質である俺は、あの特有の軽いノリにどうしても馴染むことができなかった。
誘われても適当な理由をつけて断り、ひたすら勉学と、友人たちの真面目な悩み相談に乗ることに時間を費やしてきたのだ。
その結果として、十八歳になった俺は、未だに女性経験が全くない、正真正銘の童貞である。
「童貞の俺が……伝説のセックス教団の教祖……?」
自分の現状を改めて口に出してみると、そのあまりのギャップに強烈な絶望感が込み上げてきた。
女性の手を握ったことすらない男が、ロット買いされたコンドームの海で、狂信的な大人の女性たちに肉体を捧げられる?
どんな悪い冗談だよ。
『私、親の期待が重くて潰れそうだった時、カナタの言葉にどれだけ救われたか……』
『君が君らしく生きていいって、当たり前のことを言っただけだ。多様性ってやつさ』
出発ロビーでの友人との会話が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
俺は海外生活という過酷な環境の中で、他人の多様な背景を論理的に理解し、尊重する『多様性理論』を身につけた。
それを用いて、親のプレッシャーや人間関係に悩む友人たちに、極めて真っ当なカウンセリングを行ってきた自負がある。俺の真面目な対応は、確かに人を救っていたはずなのだ。
だが、この異常な空間ではどうだ。
もし俺が、あの妙子さんたちに向かって「自分らしく生きよう」「古い教義に縛られなくていい」などと真っ当なカウンセリングを行ったら、どうなる?
『ああ、導師様は私たちの欲求を解放せよと仰っているのね!』などと、勝手に旧教義のシステムに都合よく解釈され、暴走を加速させるだけではないのか。
「嘘だろ……。俺の真面目な努力は、セックス教団のためにあったんじゃない!」
健全に人の悩みを解決していた自分のスキルが、この狂ったカルト教団においては全く通用しない、いや、むしろ逆効果になるかもしれない。
その事実に気づいた俺は、枕に深く顔を埋め、情けない声を上げて嘆き悲しむことしかできなかった。
+++
「……全部、全部あのクソオヤジのせいだ」
しばらく枕を濡らしていた俺だったが、絶望の波が引いていくと、今度はどす黒い怒りが腹の底から湧き上がってきた。
諸悪の根源。一年中アロハシャツを着ている、あの無責任な父親への強烈な恨みだ。
「『節税になるから』だと?ふざけるなよ……!」
そんな極めて不純かつ適当な理由で、過去に怪しい儀式を行っていた宗教法人を買収した。
そればかりか、息子である俺を無断で代表役員に登記し、すべての責任を押し付けて自分は南国へバカンスに逃げたのだ。
「許さない。あいつだけは絶対に許さない……!」
ギリッと奥歯を噛み締め、俺はベッドから身を起こした。
今すぐ辞表を書き、この呪われた館から逃げ出してやりたい。
だが、俺の頭には、先ほど電話で話した白石莉乃の冷徹な声がこびりついて離れなかった。
『辞任すれば、現在の代表であるあなたに捜査の手が及びます。警察が動けば、高校卒業はおろか、人生が終わりますよ』
それが現実だ。
教祖の座から逃げ出せば、即座に警察沙汰になる。前教祖の詐欺事件や、カルト宗教の責任を問われ、俺の経歴には取り返しのつかない傷がつく。
おまけにオヤジからは、「教祖を拒否したら即日仕送り停止&勘当だ」と脅されている。金も家もなく、警察に追われる高校生に、まともな未来などあるはずがない。
「……ダメだ。逃げるわけにはいかない」
俺は強く両拳を握りしめた。
俺の願いは、ただ一つ。
おとなしく高校を卒業し、平穏な日常を過ごすこと。
そのためには、この宗教施設の「名義上の教祖」として、なんとしても卒業までの期間を生き延びなければならない。
「絶対に、高校は平和に卒業してやる……!」
俺は自室の窓枠を強く叩き、窓の外に広がる住宅街の景色を睨みつけた。
狂信的な信者たちの過激なアプローチ。ガサ入れを狙う税務署や警察の影。
敵は多い。だが、俺はまだ負けたわけではない。
「やってやるよ。どんなに理不尽な状況でも、なんとかしてあいつらをやり過ごしてやる」
持ち前の常識と、必死の説得で、あの女たちの暴走を真っ当な理屈で抑え込んでみせる。
それが、俺の平穏な未来を守る唯一の手段なのだから。
伝説のセックス教団の教祖という、最悪の十字架を背負わされた十八歳の春。
平穏な生活などとうに諦めた俺の本当の戦いは、ここから始まるのだと、強く決意を固めるのだった。




