白い前足を置く前に、僕はひとつだけ深呼吸をした
灯り石の前に立ったまま、
僕はひとつだけ大きく息を吸った。
近くで見るほど、
古さがよく分かる。
石柱のくすみ。
根元の赤茶けた錆。
灯り石の中に走る細いひび。
支えの術式板に残った、
薄いくもり。
昨日はただ、
ポコが反応したことに
驚いていた。
でも今日は違う。
ここが暗くなると困る人がいる。
夜道で足を取られるかもしれない。
だからこそ、軽い気持ちでは
触れさせたくなかった。
「……ポコ」
「ぷきゅ」
肩の上から返ってきた声は、
思っていたより落ち着いていた。
急かすようでもなく、
怖がるようでもない。
僕はその声を聞いて、
少しだけ肩の力を抜く。
「エッダさん」
「うん?」
「試してみます。
でも、うまくいくかどうかは
まだ分かりません」
「分かってるよ」
エッダさんは静かにうなずいた。
「少しでも何か分かれば十分だし、
危なそうならすぐ止めよう。
無理はしなくていい」
その言葉に背中を押されて、
僕は鞄を足元へ置いた。
帳面をもう一度だけ開く。
『村はずれの古い灯り石。
根元の金具に錆。
表面に細いひび。
術式板にくもりあり。
これから試す』
そこまで書いて、
すぐに帳面を閉じた。
これ以上は、
やってから書けばいい。
僕はポコをそっと両手で抱える。
手のひらに乗せると、
やっぱり小さい。
白くて、丸くて、
やわらかくて、
こんなに頼りなさそうなのに。
石も、薬草も、釘も、火石も、
ポコはちゃんと
見て、選って、整えてきた。
そのことを、
僕はもう知っている。
「無理そうなら、やめよう」
「ぷきゅ」
「少しでも危ないと思ったら、
すぐ戻ろう」
「ぷきゅ」
返事を聞いてから、
僕は小さくうなずいた。
それで十分だった。
灯り石の前にしゃがみこむ。
目線を下げると、
根元の錆がよく見えた。
ひびは石の上のほうへ細く伸びて、
中心近くまで入りこんでいる
ように見える。
ポコも、僕の手の中で
じっと灯り石を見ていた。
そのときだった。
白い体の奥に、
ごく細い青い線が
ひと筋だけ、ふっと浮かぶ。
やっぱり、反応してる。
今度は驚くだけじゃなく、
ちゃんと見ようと思えた。
僕は短く深呼吸をひとつだけして、
目を開く。
「……やってみよう、ポコ」
「ぷきゅ」
今度の返事は、
少しだけ低く、
真剣に聞こえた。
僕はポコを、
灯り石へ届く高さまで
そっと持ち上げる。
白い前足が、
古びた石の表面へ近づいていく。
あと少し。
その距離まで来た瞬間、
青い線が今度はさっきよりも
はっきりと、白い体の内側を走った。
ポコの丸いお腹の奥で、
小さな炉火みたいな光が
淡く揺れる。
「……っ」
思わず息をのむ。
でも、止めない。
僕はそのまま、
ポコの前足を
灯り石の表面へそっと近づけた。
やわらかな白い前足が、
ひびの入った石へ触れる。
その瞬間。
灯り石の中を、
細い青い光が
水の筋みたいに走った。
「えっ……」
エッダさんの小さな声が
後ろで聞こえる。
青い線は石の表面をなぞるだけじゃなく、
ひびの奥へしみこんでいくみたいに
ゆっくり伸びていった。
根元の金具にも、
かすかな青白さがにじむ。
昼なのに、消えていたはずの灯り石の奥で、
ごく弱い赤が、ふっと瞬いた。
消えかけた炭の芯に、
もう一度だけ息が通ったみたいな、
そんな小さな光だった。
「ポコ……」
「ぷきゅ……!」
ポコは前足をつけたまま、
いつもより低い声で鳴いた。
白い体の内側を走る青い線は、
さっきよりも増えている。
石の中を見ているのか。
錆を見ているのか。
それとも、灯りの通り道そのものを
探しているのか。
僕にはまだ分からない。
でも、何も起きていないわけじゃない。
たしかに今、
灯り石の中で
何かが動き始めていた。
赤い光が、もう一度だけ揺れる。
今度はさっきより、
ほんの少しだけ長く。
僕は思わず、
帳面のことも忘れて
その変化に見入っていた。
これが、僕たちの最初の一歩だ。
ただ試すんじゃない。
誰かの困りごとの前で、
ちゃんと役に立てるかもしれない一歩だ。
ポコの前足は、
まだ灯り石に触れたままだった。
そして石の奥では、
眠っていたみたいな小さな灯が、
ゆっくりと、
もう一度目を開こうとしていた。




