第8話「帰還したら英雄扱いなんですが、俺は寝たいだけです」②
翌日。村田良庵先生の医塾は、城下町の外れにあった。
門をくぐると薬草の匂いが鼻を突く。見たことない植物が整然と並んでる。建物の中から液体がぶくぶく沸騰する音。試験管(ガラス管か?)が棚に並んでる。前世の理科実験室を思い出す。ああ、この感じ、懐かしい。中学校の理科室でガスバーナーを意味なくつけたり消したりしてたあの頃。
「おお! 来たか来たか! 伊藤殿!」
奥から飛び出してきたのは五十がらみの痩せた男。白髪混じり。髪は無造作。着物に薬品のシミ。目だけが異様に若い。瞳孔が開いてる。好奇心で。
村田良庵。長州藩の藩医。蘭学の大家。そして明らかに、寝てない。目の下の隈が俺と同じかそれ以上だ。
「待っておったぞ。さあさあ奥へ。茶は後! まず聞きたい。英国の病院を見たか!」
「え、あ、はい。外からだけですが」
「中には入ったか」
「入ってません」
「そうか! では医学書は! 英語の医学書!」
「本屋で見かけましたが——」
「買ったか!?」
「買ってません」
「そうかあ……」
露骨にがっかりする先生。五十三歳の大人が、おもちゃを買ってもらえなかった子供みたいな顔をする。でも一瞬で切り替えた。
「ではこうしよう。お前さんが英国で見たものを何でも話してくれ。街の様子、人の暮らし、食べ物、水、特に水だ。水はどうだった。上水道は? 下水は?」
質問が矢継ぎ早。でも聞かれて思い出す。ロンドンには上水道があった。下水は開渠。テムズ川の近くは臭かった。
「川の近くは特に臭かったです」
「なるほど! 瘴気の問題は英国でも解決しておらんのか!」
先生が立ち上がって部屋の中を歩き回り始めた。
「よし、次。英国人の体格はどうだ。身長は」
「俺より頭一つ、いや二つ近く高いです」
「二つ! 食事だな。肉を食うからだ。肉は毎日か」
「毎食に近いです。牛肉、羊肉——」
「毎食ッ!」
先生の目が完全に研究者のそれになった。獲物を見つけた獣の目だ。
「毎食肉を食い、身長が高い。やはり食と体格の相関は。待て、記録せねば。それから伊藤殿、ちょっと上着を脱げ」
「はい?」
「腕の太さを測る」
「なんでですか」
「比較データじゃ。肉食人種と日本人の比較!」
嫌だ。でも逃げられない。先生に袖をまくられ、腕の周囲を測られる。さらに身長、体重(推定)、頭蓋のサイズまで測られそうになったところで断固拒否した。頭蓋はやめてください。前世でも図られたことないです。
「面白い。実に面白い。伊藤殿、このデータを」
「まさか論文にしますか」
「無論!」
「やめてください。俺の腕の太さが論文になるのやめてください」
「何を言う。資料は多いほど良い。ちなみに便通は——」
「聞かないでください」
約三刻の質問攻めが終わった時、俺の体力はゼロだった。村田先生は逆に元気になってる。俺の体力を吸い取ったのかこの人は。
帰り際、先生が和綴じの本を渡してきた。
「蘭学の入門書じゃ。読んでおけ」
「……また仕事が増えるんですが」
「学びに仕事も何もあるか。喜べ」
喜べない。でも受け取ってしまった。断れない。これが俺の業だ。
医塾を出て城下を歩く。今日こそお梅さんの茶屋に行く。そう決意した瞬間。
「伊藤殿!」
呼び止められた。今度は勘定方の松村。四十代。眉間に深い皺。帳簿を抱えてる。この皺、前世の経理部長と同じだ。予算が合わない時の顔だ。
「お時間よろしいか。藩の財政についてご相談が……」
「……茶屋でいいですか。俺、今日まだ茶を飲んでないんです」
近くの茶屋(お梅さんとこじゃない別の店)で帳簿を広げる松村。字が細かい。数字がびっしり。これは見ちゃいけないやつだ。前世の経理資料を見てしまった時の、あの「知らなくていいことを知った」感覚。
「正直に申します。藩の財政は火の車です。講和で賠償を軽くしていただいたのは助かりましたが、砲台の再建費、軍備の補充、京都での工作資金——」
知ってる。三日間その書類を処理したから。
「それで、英国の財政制度を知りたいと」
「はい。英国はあれだけの軍事力を維持しながら国が回っておる。カラクリがあるはずです」
カラクリ。あるにはある。国債。中央銀行。徴税制度。関税。前世の一般教養レベルだが、幕末の藩士に説明するとなると……
「国債という仕組みがあって、要するに、将来の税収を担保に金を借りるんです」
「金を借りる……」
「ただし借りすぎると破綻します。借金ですから」
松村の目が、突然輝いた。
「借金! 良い言葉ですな、借金! 我々に足りなかったのはその発想だ!」
「いや、良い言葉じゃないですよ。普通に危ないですよ」
「しかし伊藤殿! 藩が将来の収入を見越して資金を調達すれば——」
「だから、返せなくなったら死にますからね」
「もちろんです! 無闇に借りるわけではない! しかしこの概念を藩の運用に——」
松村が猛然と筆を走らせ始めた。帳簿の余白に、新しい数字を書き込んでる。目が完全に「新境地を開いた人」の目だ。俺、この人に変なこと教えてないよな。これで長州が破産したら俺のせいか? いや、たぶん大丈夫。歴史上、長州は破産してない。たぶん。いや、あんまり自信ない。
「伊藤殿! またお話を聞かせてください!」
「……ええ、時間があれば」
また仕事が増えた。でも、松村の眉間の皺が少しだけ浅くなった気がした。それは、まあ、悪いことじゃない。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。今日こそ。今日こそ、お梅さんの茶屋にたどり着いた。
暖簾をくぐった瞬間、全身の力が抜けた。ここに入ると自動的に肩の力が抜けるようにできてる。パブロフの伊藤。暖簾を見た瞬間に副交感神経が優位になる。条件反射として完成してしまっている。
「あら、伊藤さん。今日は随分お疲れの顔ですね」
「今日の俺の一日を説明します。朝、顔面の墨跡で書類を台無しにし、中庭で十二人に英語を教え、藩医に腕を測られ頭蓋を測られそうになり、勘定方に借金の概念を教えました」
「……一日で?」
「一日で」
お梅さんが、呆れたように笑って茶を出してくれる。一口すする。うまい。今日飲んだどんな水よりもうまい。体に染みる。細胞が「これだこれだ」と言ってる。
「伊藤さん、いくらなんでも働きすぎですよ」
「俺もそう思います」
「断ればいいのに」
「断れないんです。昔から」
お梅さんが茶を注ぎ足しながら、何気ない調子で言った。
「まあ、断れないのも悪くないんじゃないですか。あんた、断らなかったから色んな人を助けてるんでしょ。英語教えてるのも、藩医の話を聞いてるのも」
「……結果的にそうなってるだけで」
「結果が大事なんですよ。動機はどうでもいいの」
動機はどうでもいい。そういう考え方もあるのか。
「でも……前に、それで身体を壊したことがあるんです。断れなくて、仕事を溜め込んで、全部一人で抱えて」
「前?」
「……若い頃に。ちょっと無理しすぎて」
お梅さんは追及しなかった。ただ、湯呑みをもう一つ出して、自分の分の茶も注いだ。
「じゃあ、せめてここに来た時くらい、何もしなくていいですよ。茶を飲んで、ぼんやりして、何も考えない。そういう場所だと思ってください。この店は」
何もしなくていい場所。
前世になかった。自宅に帰ってもメールが来る。休日でも電話が鳴る。「何もしなくていい」と言われたこと、一度もなかった。
「……じゃあ、何もしません。今だけ」
「どうぞどうぞ」
茶をすする。甘い菓子も出てきた。疲れた身体に糖分が染みる。窓の外が茜色。一日が終わる。長い一日だった。でも最後にここに来られてよかった。
「明日は久坂先輩に呼ばれてるんです」
「久坂様に?」
「何か話があるみたいで」
お梅さんが少しだけ表情を曇らせた。
「あの方は立派な方ですけど……真っ直ぐすぎるから。伊藤さん、気をつけてくださいね」
「真っ直ぐすぎる」
「思い込んだら止まらない方でしょ。城下の皆、尊敬してるけど、ちょっと怖がってもいるんです」
思い込んだら止まらない。それは俺が一番よく知ってる。久坂先輩の真っ直ぐさが、やがて京都への進軍を決断させる。その先にあるものを、俺だけが知ってる。
「……気をつけます」
茶を飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「はい。明日も来てくださいね。倒れる前に」
「善処します」
「善処じゃなくて来るんです」
「……はい」
暖簾をくぐる。夕風が心地いい。萩の空に星が出始めてる。
明日は久坂先輩。あの真っ直ぐな目と、俺の「保身」が、これからどう交わっていくのか……まだ答えは出てない。でも今日の疲れは、あの茶屋に置いてきた。
さて。久坂先輩の話、何だろうな。嫌な予感しかしない。でもまあ、行くしかない。
いつだってそうだ。行くしかないから行く。理由はそれだけで十分だ。
良ければ評価をポチッとお願いします!作者が泣いて喜びます!




