第9話「久坂先輩に呼び出されました。胃痛の特効薬はまだ見つかりません」
快晴。九月も半ばで、萩の空は秋らしく澄んでる。風が気持ちいい。こういう日は散歩でもしたい。団子でも食って、昼寝でもしたい。
でも現実は久坂玄瑞に呼び出された。
久坂玄瑞。松下村塾の双璧。長州攘夷派の精神的支柱。吉田松陰の義弟にして愛弟子。弁舌と人望で若手をまとめるカリスマ。そして元治元年七月、禁門の変で自刃する男。今から十ヶ月後だ。
それを知ってるのは俺だけ。知ってて、今から会いに行く。胃が痛い。でも行く。行くしかないから行く。いつもそうだ。
門を出て三十歩。大通りに出た瞬間
「あっ、伊藤殿!」
ほら来た。出た。昨日の英語教室の参加者、山田。目がキラキラしてる。
「伊藤殿! 一つだけ! 一つだけ質問を!」
「一つだけ」は信用できない。前世の経験上、「一つだけ」は最低三つの前触れだ。
「……手短に。久坂先輩に呼ばれてるんです」
「おお、久坂先輩に! では手短に! 『グッド・モーニング』は『良い朝』と伺いましたが、では『良い斬り合い』は『グッド・カット』で通じますか!」
「通じません。ていうか昨日も同じ質問を別の人から受けました。なんで長州藩士は斬り合いの英訳にそんなにこだわるんですか」
「では何と!」
「英語にそういう概念がないんです。斬り合いそのものを前提としないでください。交渉の場で斬り合いの話を持ち出さないでください」
「なるほど! 斬る前に話せと!」
「そうです。だから久坂先輩のところに行かせてください」
「それは失礼! どうぞどうぞ!」
深々と頭を下げて道を開けられた。久坂の名前、便利だな。今後も使おう。虎の威を借る足軽。伊藤俊輔の処世術その一。
◇ ◇
「おお、伊藤!」
今度は年配の藩士。軍務方の誰か。
「英国の軍艦について聞きたい。あの鉄の船、速さはどれほどか」
「あの、今から久坂先輩のところに——」
「すぐ済む。速さだけ」
「……風がなくても藩の早船より速いです。蒸気機関で動くので」
「蒸気? 湯気か?」
「はい。石炭を焚いて湯を沸かして、その蒸気で——」
「湯で船が動く?」
「動きます」
「……湯で?」
「湯で」
彼の顔が「こいつは何を言ってるんだ」になった。わかる。俺だって初めて聞けば同じ顔をする。
「四ヶ月乗ってたから間違いないです。本当にすみません、久坂先輩が待ってるので!」
「おう……湯で船が……湯で……」
去り際まで「湯で?」を引きずってる。すまん、おじさん。でも俺の説明が悪いんじゃない。蒸気機関がすごすぎるんだ。
◇ ◇ ◇
「伊藤殿ー!」
走ってくる若い藩士。息が切れてる。
「はぁ、はぁ……松村殿から言付けです! 昨日のお話の続きを! 明後日、お時間を!」
「空いてます」
即答した。いや空いてない。書類が山だ。でも断れない。これが俺の業だ。転生しても治らない持病。
「ありがとうございます! あ、それと村田先生からも! 『次は英国の肉の焼き方について詳しく』と!」
「肉の焼き方……医学じゃなくて料理の話になってませんか村田先生」
「それが! 医学でもあるそうです! 『食は医の基本』と!」
なるほど。一理ある。一理あるけどさ。ステーキ。分厚いやつ。あれの焼き方を説明しろと。
「……行きます。伝えてください」
走り去る使いを見送って、ため息。萩の城下を歩くだけでこれだ。英国帰りになって一週間。「伊藤に聞けば何かわかる」が藩内で定着しつつある。
組織の中で「便利な人間」になるのは生存戦略として正しい。でも前世ではそれで「不可欠な人間」になりすぎて、全部の仕事が集中して死んだんだよな。
お梅さんが言ってた。「倒れる前に茶屋に来い」と。
肝に銘じよう。本当に。
◇ ◇ ◇
四半刻遅れで久坂邸に到着。門を叩き、女中に案内され、書院へ。
久坂玄瑞は、秋の光の中で正座していた。
痩せた。密航前に会った時より明らかに。顎の線が鋭い。目の下の隈が深い。激務だ。京都と萩を行き来し、若手をまとめ、公家と折衝し。この人も人のことは言えないくらい働いてる。同類だ。
でも目だけは変わらない。凪いだ水面のような目。深くて、静かで、透き通ってる。
「遅れました。道中で三人に捕まりました」
「……捕まった?」
「英語の質問と、軍艦の質問と、肉の焼き方の質問です」
久坂先輩が一瞬、きょとんとした。それから、ふっと口元を緩めた。
「肉の焼き方?」
「藩医の村田先生が、『英国の肉料理を医学的見地から研究したい』と。俺、肉焼いたことないんですけど」
「そうか。……座れ」
声は穏やか。でもこの人の穏やかさには重さがある。一語一語に密度がある。空気が違う。城下の喧騒が遠くて、風鈴だけが鳴ってる。
「俊輔。英国はどうだった」
俺は話した。ロンドンの街。鉄道。煙突の林立する空。議会の建物。大英博物館の世界中から集めた、井上曰く「盗んだ」宝物。テムズ川の匂い。石畳を走る馬車の音。
久坂先輩は一言も遮らなかった。時折、小さく頷くだけ。この人の「聞く力」は異常だ。こっちの言葉をただ受け取るんじゃなく、咀嚼して、分解して、自分の思考に組み込んでる。目を見ればわかる。
話し終えた後、長い沈黙。
「……強大だな」
「はい」
「刀では、勝てん」
その一言を、久坂玄瑞の口から聞くとは思わなかった。攘夷の精神的支柱が「刀では勝てん」と言った。でもこれは「攘夷を諦める」とは限らない。この人は聡い。手段を否定しても、目的は手放さないかもしれない。
「先輩。一つ、見せたいものがあります」
懐から折り畳んだ紙を取り出す。下関の略図。砲台の跡。破壊された家屋。漁師町の焼け跡。英国艦の停泊位置。帰りの船で記憶を頼りに描いた。
久坂先輩が紙を受け取り、広げた。
手が、止まった。
ほんの一瞬。眉が寄り、目が細まり、唇が引き結ばれた。そしてすぐ、元の凪いだ表情に戻った。でも俺は見た。見逃さなかった。
「これは下関か」
「はい。砲台はここ。全壊。ここからここまでが漁師町。七割が焼失か倒壊。住民はこの寺に避難してました」
指で示しながら、淡々と。感情を込めない。感情でこの人を動かそうとしても無駄だ。久坂玄瑞は「感情の人」じゃない。「信念の人」だ。信念は涙より硬い。曲げるなら事実しかない。
「これは、長州が仕掛けた戦の結果だ」
「はい」
「我々が下関で異国船を砲撃した。報復としてこれが起きた」
「はい」
「……住民は攘夷を望んだか」
その問いに、言葉が詰まった。
寺で見た人々の顔。疲弊。恐怖。家を失った怒り。でもあの怒りは誰に向いてた? 外国か、それとも戦争を始めた藩か?
「わかりません。でも、あの人たちの顔には『なぜこうなった』という困惑がありました。敵意より困惑が」
沈黙。風鈴が鳴った。秋の風。
「……俊輔。お前は俺に、何を言わせたいのだ」
見抜かれてる。当然だ。この人は松下村塾の双璧だ。吉田松陰が最も期待した弟子だ。言葉の裏を読めないはずがない。
覚悟を決めろ。
「先輩に、攘夷の方法を考え直していただきたいんです」
言った。言ってしまった。足軽が。雑用係が。英語ができるだけの末端が。長州攘夷派の精神的支柱に向かって「考え直せ」と。
久坂先輩の目が、まっすぐに俺を見た。怒りはない。でも、何かを探ってる。
「……続けよ」
「攘夷の志が間違いとは思いません。外国の不当な圧力から国を守る。その志は正しい。でも手段が、正面からの武力衝突は、下関の例で明らかです。一方的に壊される。英国は一カ国でこれです。今回は四カ国。しかも本気じゃない。本気を出さずにあの有様です」
久坂先輩は黙って聞いてる。
「先輩が密航の前にくださった論文を、ロンドンで読みました」
先輩の眉が微かに動いた。
「教育論。あの中に書いてありました。『国の真の力は武力にあらず、民の知にある』。あれを読んで、思ったんです。先輩の本当の考えは、刀で外国を追い払うことじゃないんじゃないかって」
「国を強くする。民を育てる。制度を整える。そうして初めて対等に渡り合える。英国が強いのは軍艦があるからだけじゃない。軍艦を作る工場があり、工場を動かす技術者がいて、技術者を育てる学校があり、学校を支える制度がある。全部つながってる」
「刀を置いても攘夷はできます。いや、刀を置いた方が、もっと確実に、もっと根本的にできる。俺は、そう思います」
言い終えた。息が荒い。自分でも驚くほど熱くなってた。
あれ、おかしいな。これは「保身」の計算で言ったはずだ。久坂先輩が暴走しなければ長州は朝敵にならない。朝敵にならなければ俺は安全。だからこの話をした。計算だ。打算だ。
嘘だ。保身でこんな声は出ない。こんな目はしない。
久坂先輩が、長い間、俺を見てた。
その目の中で、何かが動いてる。信念のパーツが、ほんの少しだけ、位置を変えようとしてる。
「……松陰先生が」
久坂先輩が口を開いた。
「松陰先生が生きておられたら、お前と同じことを仰ったかもしれん」
それが肯定か否定か、判断できなかった。でも、声に、揺らぎがあった。あの凪いだ水面のような声に、初めて波紋が立った。
「俊輔」
「はい」
「お前は、強くなったな」
「……え?」
「密航の前、お前は怯えた顔をしておった。俺が論文を渡した時も、借りてきた猫みたいな顔で受け取った」
覚えてる。あの日、俺は転生したばかりで、先輩たちの熱量にビビりまくって、流されるまま紙束を受け取っただけだった。
「今のお前は、俺の目を見て、俺に意見を述べてる。足軽が。松下村塾の末席が」
先輩の口元が、笑った。怒りでも軽蔑でもない。どこか、嬉しそうに。
「松陰先生は仰った。『学は人を変える。旅は人を変える。志は人を変える』と」
立ち上がり、障子を開けて庭を見る。
「お前が変わったのは、英国を見たからか。それとも、志を得たからか」
志。
俺に志があるか? ロンドンの屋根裏で、四人が夢を語った夜、俺だけ「わからない」と言った。あの空白はまだ埋まってない。
でも、久坂先輩を死なせたくないと思った。下関の住民の顔を忘れたくないと思った。この国が焼け野原になるのを見たくないと思った。
それは志か?
まだわからない。でも……
「先輩」
「うん」
「俺はまだ、自分の志が何かわかりません。格好いいことは言えません。でも……」
言葉を選ぶ。慎重に。正直に。
「先輩に、もっと長く生きてほしいんです。教育論の続きを書いてほしい。俺だけじゃなく、もっと多くの若い奴らに、話をしてほしい。刀じゃなく、筆で。命をかけるなら、死ぬことじゃなく、生きて何かを残すことに使ってほしい」
言いすぎた。
しまった。熱くなりすぎた。足軽が何を。
久坂先輩の目が、少しだけ丸くなってる。
それから。
「……教育論の続き、か」
小さく笑った。声に出して。
「お前は、俺に『生きろ』と言うのだな。国を憂いてきた俺に、国を案じてきた俺に」
「そうです。死ぬより、生きて書いてください。あの論文の続き。俺、まだ採点してないんですよ。ロンドンで読んで、『半分は古いけど半分はすごい』と思った。でもまだ口頭試問が終わってない」
「……口頭試問?」
「査読です。論文は書いたら終わりじゃない。他人に読まれて、批判されて、修正して、初めて完成する。先輩の論文、まだそのプロセスが終わってない。だから死ぬのは論文が完成してからにしてください」
久坂先輩が、きょとんとした顔をした。
それから。
「ははっ」
声を出して笑った。この人が声を出して笑うの、俺は初めて見た。
「論文の査読が終わるまで死ぬな、か。そんなことを言われたのは初めてだ」
「俺も初めて言いました。でも本気です」
「……わかった」
久坂先輩が、こちらを向いた。その目に、温度があった。凪いだ水面に、陽が差したような。
「わかった。約束はできん。時代が俺を必要とすれば、命を投げ出す覚悟は変わらん。だが、論文の続きは書こう。お前が査読するなら、なおさらだ」
「……本当ですか」
「嘘は言わん」
それだけで十分だ。論文の続きを書く。そのために机に向かう時間が増える。机に向かう時間が増えれば、戦場に出る時間が減る。それだけでいい。
俺にできるのは、この程度だ。歴史を変えるとか、英雄を救うとか、そんな大層なことじゃない。「論文の査読をするから死ぬな」という、なんかもう理屈になってるのかわからないお願い。でもそれが、俺の精一杯だ。
◇ ◇ ◇
久坂邸を辞して、坂を下りる。秋の風が頬に当たる。
心臓がまだ少し速い。手に汗をかいてる。あの凪いだ水面のような目を思い出す。最後の笑い声を思い出す。
約束はできん、と言われた。でも論文の続きは書くと言った。俺はそれを「査読する」と言った。次に会う時、論文の話をする。また次も。それが続けば……
いや、考えるのはよそう。今日できることをやった。それでいい。
長屋に帰ると、机に書類が増えてた。そして一通の書状。桂小五郎から。
開く。三行。
『俊輔。十月、京に参れ。
宿舎は手配する。仕事は山ほどある。
詳細は追って送る。桂』
三行。桂さんの書状はいつも三行。一行あたりの情報密度がバグってる。「仕事は山ほどある」が特に怖い。この人の「山ほど」は一般人の三倍だ。ロンドン密航の前科がある。信用ならない。
十月。来月か。京都。幕末の魔都。新選組がいる。薩摩がいる。会津がいる。暗殺が日常で、路地の角で人が斬られる街。そこに俺が行く。英語しか取り柄のない足軽が。大丈夫か。いや大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。
胃がキリキリしてきた。
でもまあ、行くしかない。桂さんが「来い」と言うなら行く。仕事があるならやる。それだけだ。それだけでここまで来た。それだけでこれからも行く。
まずは目の前の書類。英国領事への返書。顔面の墨跡で汚したやつの書き直し。まだ終わってない。
筆を取る。秋の夜は長い。今日もたぶん、長くなる。
ー長州ファイブ密航編 完ー




