第8話「帰還したら英雄扱いなんですが、俺は寝たいだけです」①
書類地獄は三日で、いや、正確には俺の身体が三日で限界に達した。
四日目の朝。というか昼だ。起きたら昼だった。しかも机に突っ伏して寝てて、頬に墨がべったり。よりにもよって、その墨跡が英国領事への返書の草案のど真ん中に見事な顔面拓本を残していた。
やり直しである。
泣きたい。でも泣く気力もない。前世の過労死ラインをとっくに超えてる。この身体が二十代前半じゃなければ、今ごろ二度目の転生をしてたかもしれない。
這うように部屋を出る。水を飲もう。顔を洗おう。人間の最低限を取り戻そう。三日ぶりに浴びる太陽が眩しい。吸血鬼の気分だ。
中庭の水場で顔を洗い、頬の墨を落とし、ようやく人間の形に戻ったその瞬間。
「おおっ、伊藤殿ッ!」
声と同時に肩を掴まれた。振り返る間もなく、若い藩士の顔が目前に。歳は俺と同じくらい。名前は確か……誰だっけ。
「伊藤殿、お忙しいところ恐れ入ります! 実は折り入ってお願いが!」
「あの、今ちょっと……」
「英語を教えていただきたいッ!」
声がでかい。中庭に響き渡る。周囲の藩士たちの視線が集まる。何人かが「来た来た」という顔でこっちを見てる。……「来た来た」? お前ら知ってたのかこの展開を。
「あの、英語なら井上殿の方が——」
「井上殿には既にお願いしました! しかし『俺は発音が悪いから伊藤に聞け』と!」
あの野郎。
井上、お前ロンドンで普通にパブの店員と会話してたよな。「エールもう一杯」って言ってたよな。発音、悪くなかったよな。英語力が突然低下する病気にでもかかったのか。都合のいい時だけ発音が悪くなる新種の病だな。
「それに、先日の講和交渉では、伊藤殿が英語で四カ国の代表を——」
「通訳しただけです」
「ご謙遜を!」
謙遜じゃない。事実だ。でも熱意のある人間は「事実」を「謙遜」に自動変換するフィルターを搭載してる。前世の営業でも同じだった。「村上さんはいつも控えめで」じゃない、控えめじゃなくて本当に大したことないんだ。
「……何を学びたいんですか、具体的に」
聞いてしまった。聞いたら負けとわかってたのに。社畜の性だ。
「英国の外交官と互角に渡り合える英語を!」
「何年かかると思ってるんですか」
「三日で!」
「無理です」
「では五日で!」
二日しか増えてない。その程度のバッファで外交官と渡り合えるなら俺はとっくに国連で演説してる。
「伊藤殿ッ!」
別の方向から声。二人連れの藩士。さらに別の方向から三人。四人。五人。
最終的に中庭に十二人の藩士が集結した。全員が真剣な目で俺を見てる。四カ国連合の代表団より怖い。あっちは四人だった。こっちは三倍だ。
「……わかりました」
折れた。折れるしかなかった。一人対十二人。前世の俺は忘年会の誘いすら断れない男だ。この構図で勝てるわけがない。
「ただし三日は無理です。まず基本の——」
◇ ◇ ◇
約二刻後。俺は中庭で即席英語教室を開いていた。
「まず挨拶から。『グッド・モーニング』。朝の挨拶です」
十二人が真剣な顔で聞いてる。全員が正座。筆と紙を用意してる奴までいる。君たち、藩の仕事はどうした。
「グ、グド……モオニン?」
「グッド・モーニング!」
一人が叫んだ。でかい声だ。すると残り十一人も一斉に唱和する。
「グッド・モーニング!!」
萩の城下に響き渡る十二人分のグッドモーニング。ここ長州だぞ。萩だぞ。近所の婆さんが何事かと覗きに来た。通りかかった年配の藩士が目を丸くして、黙って足早に去っていった。見なかったことにしたらしい。賢明な判断だ。
「次、『サンキュー』。ありがとう、です」
「サンキュウ!」
「『ハウ・アウ・ユー?』。ご機嫌いかがですか」
「ハウアアユウ!」
「返事は『アイム・ファイン・サンキュー』です」
「アイムファイン、サンキュウ!!」
声がでかい。全員、挨拶だけで軍隊みたいな迫力がある。英国人がこれ聞いたら逆にビビるんじゃないか。
ここで一人が勢いよく手を挙げた。
「伊藤殿! 質問よろしいか!」
「どうぞ」
「『斬る』は英語で何と申す!」
なぜそこに行く。なぜ最初の学びの三単語目が「斬る」なんだ。お前は英語を何だと思ってるんだ。
「……カットです。カット」
「カットォ!」
嬉しそうな顔をするな。刀の柄に手をかけながら発音するな。
「では『貴様を斬る』は!」
「アイ・ウィル・カット・ユー……ですけど、交渉の場でそれ言ったら戦争になりますからね」
「戦争を回避する言い方は!」
「だから最初から『斬る』を想定しないでください」
「なるほど! 斬る前に会話で解決せよ、と! 奥が深い!」
違う、そうじゃない。でももう彼の中で「伊藤俊輔の英語外交術」が完成しつつある。やめてくれ。俺はただの通訳だ。
次に別の藩士が手を挙げる。
「伊藤殿! 自分は港で英国商人と商売がしたい! 『安くしろ』は英語で何と!」
「チーパー・プリーズ.……ですが、まずは値段の聞き方から」
「では『お前の魚は腐ってる』は!」
「それ喧嘩売ってますよ」
三番手。
「伊藤殿! 恋文は英語でどう書く!」
「恋文!?」
「英国の女性に送る文を」
「君、英国の女性に会ったことあるんですか」
「まだない!」
ないのかよ。未来への投資がすごい。でも俺はラブレターの英語なんて知らない。前世でも書いたことない。というか日本語でも書いたことない。
「……今度、調べておきます」
「ありがとうございます!」
こうして二刻の英語教室は幕を閉じた。喉が枯れた。声がガラガラだ。
中庭のベンチに座り込んで空を仰ぐ。三日間の書類地獄の直後に二時間の授業。俺の身体は何でできてるのか。たぶん、前世の残業の記憶でできてる。
「おう、お疲れさん」
横から声。井上聞多がにやにやしながら近づいてくる。
「見とったぞ。中庭の英語塾。なかなか盛況じゃったな」
「あんたのせいですからね」
「何がじゃ」
「『俺は発音が悪いから伊藤に聞け』って言ったでしょう」
「事実じゃろう。俺の発音は悪い」
「ロンドンでパブの店員に『もう一杯』って言ってましたよね」
「……言うとったか?」
「言ってました。発音、完璧でした」
井上が一瞬、目をそらした。バレた顔だ。この顔、前世の先輩が仕事を押し付ける時と同じ顔だ。「いやー村上くんの方が詳しいからさー」。
「まあそう怒るな。握り飯、持ってきちゃったぞ」
手に紙包み。二つ。
……許す。許さないけど腹が減ってるから今だけ許す。条件付き恩赦。飯で釣るという最低かつ最強の交渉術をこの男は心得ている。井上馨という男、ただ者ではない。ただ者じゃないのに後輩に仕事を押し付けることに全振りしてる。
握り飯を頬張りながら、井上が本題を切り出す。
「俊輔。明日、暇か」
「暇なわけないでしょ。書類が」
「藩医の村田先生がお前に会いたいと」
「……藩医? なんで」
「英国の医術について聞きたいそうじゃ」
「俺、医学知識ゼロですよ」
「知っとる」
「知ってるなら断ってください」
「もう約束した」
この男は。この男は本当に。なんで俺を通さずに約束するんだ。いや理由はわかってる。最初から通す気がないからだ。
「なんで俺に確認せずに約束するんです」
「村田先生が『英国帰りの者に話を聞きたい』と仰るから、『ああ、伊藤がおりますよ』と」
「井上さんも英国帰りですよね。行ってくださいよ」
「明日は用事がある」
「何の用事ですか」
「昼寝」
本気で言ってる。この目は本気だ。殴っていいか。いや、たぶん殴っても効かない。この男は打たれ強い。物理的にも精神的にも。
「……わかりましたよ。行きますよ。代わりに書類、手伝ってください」
「わかった。明日は昼寝をやめて書類をやる」
「いや今から——」
「明日と言ったじゃろ!」
「今の流れで今からやるのが筋では!?」
「俺は明日っちゅうた!」
大人げない。井上馨、二十七歳。俺より七つ年上。なのにこの押し問答だ。でも不思議と憎めないんだよな、この男。なんでだろ。




