第7話「和平交渉という名の土下座……ただし英語で」②
胃が痛い。心臓がうるさい。テーブルの下で手が震えてる。テーブルの上は平静を装う。前世の営業スマイル、リミッター解除だ。
沈黙はチャンスだ。考えてる証拠。考えてない相手は即答する。考えてる相手は黙る。この沈黙を怖がるな。前世のクレーム対応で学んだ「先に口を開いた方が負ける」。
四十秒。五十秒。まだか。まだなのか。もう十分耐えた。誰か喋って……
『伊藤君』
アレクサンダーが口を開いた。
『君の言い分は理解した。筋も通っている。しかし、三百万ドルは四カ国で合意した数字だ。私の一存では変えられない』
来た! 「私の一存では」。
この言葉が出たら、交渉は折り返し地点だ。「俺は賛成だが、上を説得する材料が要る」と言ってる。つまり「減額の余地はある」と言ってるのと同じだ。前世で何度も聞いたフレーズ。「私の一存では」は、「交渉しろ」のシグナルだ。
『もちろんです。一存での変更を求めているのではありません。私が提案したいのは——』
ここで、最後のカード。落とし所の提示。
『長州は攘夷を放棄し、海峡を開放し、通商に協力します。その代わりに、賠償額を実際の損害に見合った水準に調整していただきたい。破産して無秩序になる長州ではなく、安定した協力者としての長州を、あなた方のパートナーにしてください』
ここで、ちょっとだけ笑って付け加えた。
『正直なところ、長州が破産したら私の俸給も止まりますので』
サトウが、吹き出した。笑いをこらえてる。通訳しないといけないのに、肩が震えてる。アレクサンダーも一瞬、口元を緩めた。
空気が、変わった。
硬かった会議室の空気が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
アレクサンダーが立ち上がる。
『諸国間で協議したい。しばらく休憩を』
連合側が別室に引っ込む。部屋に残った長州側。家老たちが一斉に俺を見る。目が「どうなってる?」と聞いてる。
俺は日本語で要点だけ伝える。「減額交渉、入りました。相手も乗り気です。あとは数字の詰めです」
井上が俺の肩をバンと叩く。痛い。でも悪くない。
「やりおったな」
「まだです。ここからが数字の泥仕合です」
「数字はお前の得意分野じゃろ。やれ」
得意かどうかはわからない。でも慣れてる。前世の予算折衝と同じだ。ポンドとドルと両の換算。為替レート。支払いスケジュール。全部やった。エクセルがあればもっと早いのに。筆で計算するの、めんどくさい。
俺は懐から予備の半紙を取り出す。事前に作っておいた「損害内訳の試算表」。これを元に、一つずつ削っていく。
◇ ◇ ◇
午後。交渉再開。
アレクサンダーが戻ってきた。表情が朝より少し、ほんの少しだけ柔らかい。肩の力が抜けてる。これも前世で学んだシグナルだ。「上司と話して、ある程度の裁量をもらった」という顔。
『伊藤君。完全な賠償免除は認められない。金銭的制裁は必須だ。だが、修正額について議論する用意はある。条件は、長州が公式に攘夷を放棄し、海峡の自由航行を保証し、条約を遵守することだ』
来た。正式に「減額交渉に入る」と言った。
ここからが俺の真骨頂。前世の予算折衝、営業の値引き交渉、経理との旅費精算のバトル。全てがここに集約される。
『まず、船舶への直接損害。この項目はこちらの試算を確認させてください。御国の記録によれば被弾した船舶は——』
数字のやりとり。ポンドとドルの換算。為替レートの時点。艦隊派遣費用の中で「実際に長州攻撃に直接使われた分」と「それ以外」を分ける。国際法の比例原則を盾に、派遣費用全体の負担を拒否する。懲罰的賠償は、攘夷放棄と通商協力を条件に大幅減額を提案する。
アレクサンダーが反論し、俺が再反論する。でも雰囲気は最初と全然違う。最初は「一方的な宣告」だった。今は「落とし所を一緒に探してる」感じ。相手がこっちの論理を聞く耳を持ってる。それだけで、こんなに楽になるのか。
一時間。二時間。やりとりは続く。俺の喉はカラカラ。でも水を飲む暇も惜しい。
そして……
『では、その額で合意する』
アレクサンダーが言った。最終的な数字。三百万ドルから大幅に下がった額だ。長州の財政が耐えられる水準。武器を買う金が残る。兵を養う金が残る。
俺は家老に日本語で確認する。家老が、深く頷く。
『異議なし。その条件でディールだ』
アレクサンダーが手を差し出す。握手。軍人の手だ。硬くて、でもさっきよりずっと温かい。
『伊藤君、君は面白い男だ。もし英国に残っていたら、いい外交官になれただろう』
『……それは、褒め言葉と受け取っていいですか』
『最高の褒め言葉だ』
サトウが笑ってる。眼鏡の奥の目が「君、なかなかやるね」と言ってる。
……終わった。
終わったんだ。
◇ ◇ ◇
会場の外。夕暮れ。下関の海が、燃えるように赤い。焼け跡の匂いがまだ残ってる。瓦礫の向こうに、昨日と同じ女が立ってる。赤子を抱いた女。彼女は何も知らない。賠償がいくら減額されたかも。長州の財政が守られたことも。でも、彼女のこれ以上の苦しみは、少しだけ減らせたはずだ。減っててくれ。頼む。
井上が近づいてくる。顔が複雑だ。安堵と、でも何か別の感情。
「伊藤」
「はい」
「……やりおったな」
「やりました。疲れました。もう何も考えたくないです」
「お前、今すごいことをやったんだぞ。わかっとるのか」
「すごくないですよ。やったのは、怒ってる相手の話を聞いて、根拠を確認して、落とし所を提案しただけです」
「それを英語で。四カ国相手に。二十一歳で」
「……まあ、それはそうかもしれませんが」
井上が俺の肩を掴む。強い手。いつも通り、手加減なし。
「お前は自分のやったことを小さく言う。昔からそうだ。でもな、今日お前がやったことは小さくない。長州の財布を守った。あの金で武器が買える。兵が養える。長州はまだ戦える。それは——」
言葉を切る。何かを飲み込むように。
「長州を救ったんだ」
大げさだ。でも否定できない。史実通り三百万ドルの賠償を飲んでたら、長州は破産してた。破産した藩に軍制改革なんてできない。ミニエー銃を買う金もない。そうなれば第二次長州征伐で幕府に勝てない。明治維新が遅れる。いや、来ないかもしれない。
俺は歴史を変えたのか? いや、大枠は変わらない。維新は来る。でも、そのプロセスが少しだけ、マシになった。長州が少しだけ楽になった。
「少しだけマシ」にした。それが俺のやったことだ。
「井上さん」
「うん」
「……俺の俸給、来月も出ますか」
井上が一瞬、きょとんとして、それから。
「ぶっ——!」
吹き出した。大笑い。腹を抱えて笑ってる。
「お前、お前なあ……! 四カ国と渡り合った直後に俸給の心配か!」
「大事なことです。金がなきゃ飯が食えない」
「出るわ! 出るに決まっとる! お前の俸給くらい、倍にしてやってもいい!」
「倍は言いすぎです。今まで通りでいいです」
「あーっはっはっはっは!」
笑い声が、夕暮れの海に響く。焼け跡の町に響く。瓦礫の向こうで、あの女が少しだけ、こっちを見て、ほんの少し、口元を緩めた気がした。
これは保身だ。長州の財政を守ったのは自分の生活を守るため。交渉で頑張ったのは自分の俸給のため。そういうことにしておく。そうしないと、自分の中の「何か」が大きくなりすぎて怖い。
◇ ◇ ◇
宿所の部屋。一人。布団に座る。
手が震えてる。交渉中は抑えてた震えが、今になって全部出てきた。アドレナリン切れだ。体が「もう安全」と判断して、抑圧してた震えを解放してる。
手だけじゃない。足も。膝が笑ってる。胃が痙攣してる。
怖かった。ずっと怖かった。アレクサンダーの目が怖かった。サトウの観察する目が怖かった。論理が通じなかったら。カードが足りなかったら。三百万ドルを飲まされて長州が破産したら。そうしたら俺の人生は……
でも、やった。やり切った。
前世で。何十回もやったクレーム対応。何百回も頭を下げた交渉。何千時間もかけた資料作成。何万行も書いたメール。
全部が、今日のためにあった……とは言わない。そんな感傷は後付けだ。でも、今夜だけは。今夜だけは、そう思いたい。
あの十年間は無駄じゃなかった、と。
過労で死んだことにも、何か意味があったのだと。
もちろん、意味なんてない。意味のない死だった。意味のない人生だった。でも、その「意味のない人生」で身につけた技術が、今日、人を救った。瓦礫の上で赤子を抱いてた女の、これ以上の苦しみを、少しだけ減らせたかもしれない。
少しだけ。それで十分だ。今は。
手の震えが止まらない。でも構わない。誰も見てない。布団に倒れ込む。天井を見る。明日からまた忙しくなる。後処理。藩内への報告。桂さんからの「次の仕事」。間違いなく来る。
でも今夜だけは。
目を閉じる。初めて、この世界で「仕事をした」という実感があった。前世と同じ仕事。交渉。調整。落とし所の設計。中間管理職の仕事だ。それが藩を救った。
皮肉だ。でも、悪くない皮肉だ。
眠りに落ちる。久しぶりに、前世の夢を見なかった。
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