第7話「和平交渉という名の土下座……ただし英語で」①
元治元年、八月。
四カ国連合艦隊が来た。英国、フランス、オランダ、アメリカ。軍艦十七隻。兵員五千。十七隻だ。
対する長州の砲台は前年の攻撃で半壊したのを、急造で修復しただけ。大砲の数も性能も、比較にならない。例えるなら、自転車で戦車に挑むようなものだ。いや、自転車ですらない。三輪車だ。
結果は火を見るより明らかだった。
三日間の砲撃。長州の砲台、全滅。下関の町、再び炎上。上陸した連合軍が、残ってる大砲を全部、鉄釘で打ち潰した。火門に釘を打ち込んで使えなくするやつだ。容赦ない。でもまあ、逆の立場なら俺も同じことをする。
俺は戦闘には出てない。後方で首脳部と一緒に戦況報告を聞いてた。後方が安全かと言えば、艦砲射撃の射程に入らないように山の裏に逃げてただけで、危険はあった。でも前線よりはマシだ。
報告が来るたびに、胃が縮む。
「第一砲台、陥落しました」
「第二砲台、同じく」
「上陸部隊、第三砲台を占領。大砲の火門に釘を打ち込んでおります」
「町方、火災。延焼中です」
知ってた。こうなることは歴史通りだ。四カ国連合艦隊に長州が勝てるわけがない。前世の教科書に書いてあった。「下関戦争。長州藩、完敗」。
でも、「知ってる」と「聞く」は違う。
報告の一つ一つが、人の命だ。砲台で死んだ藩士がいる。逃げ遅れた町人がいる。去年焼けて、今年も焼かれてる。同じ場所が、二度。
三日目の夜。砲声が止んだ。
静寂が、砲声より怖かった。長州が負けた。
◇ ◇ ◇
重役たちがざわついてる。「どうする」「講和か」「条件は」「三百万ドルと言われたらどうする」「払えるか、そんな額」。誰も答えを持ってない。ただざわついてるだけ。
こういう時、前世の俺は「会議でパニックになる上司たち」を数えきれないほど見てきた。そして学んだ。パニックの会議に「答え」は出ない。答えを出したかったら、事前に準備した人間が一人で仕切るしかない。
そして、事前に準備した人間……俺。
そこに桂からの書状が届いた。桂は京都にいるから直接は来られない。でも書状にはこう書いてあった。
「講和交渉を行え。伊藤俊輔を交渉の場に出せ。彼に任せよ」
……桂さん。あなた、京都から一行で俺に丸投げするの、すごいっすね。前世の部長が休暇中に「村上くん、あとよろしく」ってメール一本よこすのと完全に同じですよ。笑顔もなければ「ごめん」もない。ただ「任せよ」。
でも、正直ありがたい。桂の名前で「伊藤に任せよ」と書いてくれたおかげで、重役たちが俺を交渉の場に出すことに文句を言わなくなった。
足軽上がりの二十一歳。本来なら末席にも座れない身分。でも英語ができるのは俺だけ。英国の内情を知ってるのも俺だけ。桂が「任せよ」と言ってる。
代替不可能性。またこの罠か。でも今回は、この罠に感謝する。
◇ ◇ ◇
下関近郊の寺。仮の宿所。俺は一人、最終確認してる。
半紙を広げる。帰りの船で四ヶ月かけて作った「交渉ノート」。論点整理。カード一覧。想定問答。落とし所。全部ここにある。あとは俺がちゃんと使えるかどうかだ。
頭の中でシミュレーション。相手は多分、英国の軍人か外交官。目的は「賠償を取る。長州を屈服させる。でもさっさと終わらせたい」。こっちの目的は「賠償を最小限にする。藩の財政を守る。でも完全拒否はできない(負けたから)」。
つまり構造は、前世のクレーム対応と完全に同じだ。怒れる客の前に座り、頭を下げ、でも支払うべきでない金は払わない。そのための「落とし所」を設計する。
クレーム対応の鉄則、復唱。
1、まず相手に全部喋らせる。遮るな。
2、怒りの正体を見極める。「感情」か「要求」か。感情なら共感、要求なら条件交渉。
3、こちらの非は認める。でも範囲をコントロール。全面謝罪は墓穴。
4、落とし所を「相手が提案した」形にする。押し付けると反発される。
これを1864年の外交交渉に応用する。
できるか? やるしかない。
半紙を畳んで懐に入れる。目を閉じる。寝なきゃ。でも寝れない。胃が痛い。心臓がうるさい。大事な商談の前夜といっしょだ。あの時もそうだった。でもあの時は、失敗してもせいぜい契約が飛ぶだけだった。今回は失敗したら藩が破産して人が死ぬ。スケールが違いすぎる。
深呼吸。明日やることリストを頭の中で作る。一つずつ確認。やることが明確なら、不安は減る。
1、交渉の場に入る。挨拶はちゃんと。第一印象大事。
2、相手の要求を全部聞く。遮らない。メモを取る。
3、要求額が出たら、根拠を質問する。「その数字の内訳は?」
4、こっちのカードを切る。議会の厭戦論。通商利益。予算問題。下関海峡の地の利。
5、落とし所を提示。賠償減額+攘夷放棄+通商協力。
6、合意を取る。握手する。
六つ。手順は明確。実行は地獄だろうけど、やることは決まってる。やることが決まってれば、あとはやるだけだ。
……たぶん。たぶん大丈夫。たぶん。たぶん。たぶん。
◇ ◇ ◇
翌日。交渉の場。
場所は赤間神宮の近くの仮設会場。畳敷きの広間に毛氈を敷いて、長州側と連合側が向かい合って座る。
長州側は正座。連合側は椅子。
この「座り方の非対称」だけで、全てを物語ってる。勝者は楽な姿勢。敗者は正座で足を痺れさせる。膝が痛い。いつも痛い。でも今は痛がってる場合じゃない。
長州側の出席者、家老級が二名。目付が一名。そして通訳として、俺。
連合側の出席者、英国艦隊の参謀(アレクサンダー中佐。四十代半ば、軍人だが目が知性的)。英国公使館の通訳官(アーネスト・サトウ。若い。眼鏡。日本語ができる。つまり俺の英語は筒抜けだってことだ)。フランス代表、オランダ代表、アメリカ代表。でも主導権は完全に英国。
サトウがいる、ということは。こっちが日本語で内緒話しても、彼に筒抜けになる可能性がある。注意しなきゃ。でも逆に言えば、こちらの論理がきちんと伝わる、ということでもある。言語の壁で誤魔化せないなら、正攻法で行くしかない。
アレクサンダーが口を開いた。流暢な英語で、淡々と。
『諸君。我々がなぜここにいるか、理解していると思う』
サトウが日本語に訳す。家老たちが緊張した顔で頷く。
『長州藩は四カ国の船舶を条約に違反して砲撃した。これは侵略行為であり、看過できない。先日の砲撃は、それへの回答だ』
ここで少し間を置いて。
『しかし、我々は長州を滅ぼしに来たわけではない。恒久的な平和のための条件を、交渉するために来た』
ほう。「滅ぼしに来たわけではない」と明言した。建前かもしれない。でも、建前でも「落とし所がある」と言ったに等しい。よし、交渉の余地はある。
アレクサンダーが条件を提示する。三つだ。
『第一に、賠償金。三百万ドル』
家老の顔が蒼白になる。三百万。事前に俺から「この額が来る可能性が高い」と聞いてはいたが、実際に突きつけられると衝撃が違う。
『第二に、下関海峡の完全開放。全ての外国船が自由に航行できること』
『第三に、残存する要塞の全ての撤去』
三百万ドル。海峡開放。要塞撤去。
家老が俺を見る。「訳せ」という目。サトウが既に日本語に訳してるけど、確認の意味だ。
俺は小さく頷く。そして、こっからが俺の番だ。
クレーム対応の鉄則その一。「まず相手に全部喋らせる」。
でももう喋り終わった。次は鉄則その二。「相手の要求の根拠を聞く」。
俺は英語で口を開いた。ここが最初の勝負だ。「話せる」と見せること。
『アレクサンダー中佐。条件を明確に提示いただき、感謝します。回答の前に、いくつか質問を許していただけますか』
アレクサンダーが、ぴくっと眉を動かした。若い日本人が突然、流暢な英語で発言したからだ。隣のサトウも顔を上げた。お、二人とも「おや?」って顔になった。
『君は英語を話すのか』
『はい。最近までロンドンにおりまして。ユニバーシティ・カレッジで学んでいました』
空気が変わった。一瞬の沈黙。サトウがアレクサンダーに小声で「UCLは実在します。彼の話している英語の質も、留学経験を裏付けています」と伝えてる。ありがとうサトウ、いいフォローだ。
『……なるほど。伊藤君、と言ったか』
『伊藤俊輔です』
『よろしい。質問を聞こう』
来た。これで「質問する権利」を獲得した。交渉の場で質問できるかどうかは、ただの通訳か、交渉の参加者かの分かれ目だ。今、俺はただの通訳から「交渉の参加者」に格上げされた。
ここからだ。
『賠償金三百万ドルの内訳をお聞きしてもよろしいでしょうか。具体的に、どの損害に対して、いくらを見積もっていらっしゃいますか』
アレクサンダーの目が細くなる。賢い男だ。この質問の意味を即座に理解した顔だ。「内訳を聞く」ということは、「内訳によっては減額交渉の余地がある」と言ってるのと同じだ。
『三つの要素がある。船舶への損害賠償。艦隊派遣にかかった費用。そして、条約違反に対する懲罰的賠償だ』
三要素。船舶の修理代。艦隊を動かした経費。あとは「罰金」。ここを解体すれば、減額の道が見える。
『わかりました。では、一つずつ検討させていただいても?』
『どうぞ』
アレクサンダーの声に、少しだけ「面白い」という色が混じった気がした。獲物を見つけた軍人の目。だが、俺だって獲物じゃない。交渉相手だ。
深呼吸。ここからが本番。四ヶ月かけて用意したカードを、今全部切る。
『まず、船舶への損害賠償。これは全面的にお受けします。長州が御国の船を砲撃し、損害を与えた。これに対する賠償は当然です』
ここ、大事。クレーム対応の鉄則その三「こちらの非は認める。でも範囲をコントロールする」。全面否定はダメだ。相手は怒る。認めるところは素直に認めて、そこから先を交渉する。
『ただし』
ここからが本題。
『艦隊派遣にかかった費用についてです。十七隻の軍艦、五千名の兵員。これは、今回の派遣の規模が、当初の長州の行為に対して、いささか過大だったのではないかと』
『何が言いたい』
食いついてきた。よし。
『国際法には比例原則という考え方があります。賠償は、受けた損害の実額に見合うべきであり、報復にかかった費用の全てを相手に負わせるのは、法の精神に反します』
アレクサンダーが一瞬、表情を消した。横のサトウが、何かメモを取り始めた。
『君は国際法をどこで』
『ロンドンです。UCLで学びました』
嘘じゃない。本当に講義を取ってた。まさか役に立つとは自分でも思ってなかったけどな。
アレクサンダーが少しだけ口元を歪めた。笑った? いや、苦笑か。少なくとも怒ってはいない。
『それから、三つ目の、懲罰的賠償について』
ここで、二枚目のカード。
『長州がこの場で公式に攘夷を放棄し、通商に協力し、海峡の安全航行を保証する。そういう、協力者、になった場合、懲罰の意味は薄れるのでは?』
『協力者、か』
『はい。長州を破産させて無秩序な領域にするより、協力者として通商を支える主体にしたほうが、英国の商業利益にかなう。違いますか』
三枚目のカード。船で四ヶ月かけて準備した、英国議会の厭戦論。でもまだ切らない。切るならもっと効果的なタイミングがある。今はまだ「ちらつかせる」だけでいい。
アレクサンダーがサトウと目を合わせる。サトウが何か小声で言う。「彼の言うことは筋が通っている」とか、そんな内容だろう。日本通のサトウが「筋が通っている」と言えば、アレクサンダーも無視できない。
沈黙。
長い。
十秒。二十秒。三十秒。




