第6話「帰りの船、また四ヶ月ってマジかよ」③
五月。下関に入港。
船を降りる。日本の土。一年ぶりの日本の地面。なのに、感傷に浸る余裕は一秒もなかった。
最初に目に入ったのは、煙だった。
港の向こう、街の方から薄い煙が上がってる。まだ燻ってる。いや、あれは最近の煙じゃない。もっと前のだ。焼け跡が風に煽られて粉塵を上げてるだけだ。
「……何があった」
港にいた漁師に聞く。声が震えてる。自分でもわかる。
「去年の六月じゃ。異人の軍艦が来て、砲台を全部壊しよった。町も焼かれた。ひどいもんじゃった」
去年の六月。俺たちがちょうどロンドンに着いた頃だ。下関はもう、一度やられてる。これはフランスとアメリカの艦船による最初の報復。そして、さらに大規模な四カ国連合艦隊が、これから来る。
つまり下関は、二度焼かれる。一度目はもう終わった。二度目がこれから来る。
港から街へ歩く。
瓦礫。焼けた木材。崩れた土塀。砲台の跡は何も残ってない。大砲の残骸が錆びて転がってる。潮風が吹くたびに、灰が舞う。
人がいる。でも少ない。家を失った者、店を失った者、漁場を失った者。彼らはこっちを見てる。
目が無気力だ。
「また来たのか」という目。「どうせ何をしても壊される」という目。敵意すらない。諦めだけがある。これが一番キツい。
井上が黙って歩いてる。無言で、拳を握ってる。この人が黙るのは珍しい。つまり、井上馨が言葉を失うレベルで、これは酷い。
俺は……
匂いだ。焦げた木。湿った灰。かすかな腐敗臭。潮風に混じるそれらが、鼻の奥にこびりつく。
これが戦争の匂いか。
前世で「戦争」は画面の中の出来事だった。ニュースの映像。教科書の白黒写真。映画の迫力ある演出。でも匂いはなかった。温度もなかった。風に舞う灰が目に入る痛さもなかった。
今、全部ある。匂いも、温度も、灰も、目も。
「攘夷」って、つまりこういうことかよ。
理屈ではわかってた。ロンドンで英国の国力を見て「攘夷は無理だ」と確信した。でもそれは頭の中の計算だった。エクセルの数字だった。コストパフォーマンスの話だった。
今、足元に瓦礫がある。鼻に焦げた匂いがある。あの住民たちの目がある。
これは計算じゃない。現実だ。
怒りが湧いてくる。
でも、誰に怒ればいいのかわからない。
外国艦隊か? 最初に手を出したのはこっちだ。外国船を砲撃したのは長州だ。自業自得と言われれば、それまでだ。
じゃあ長州の上層部か? 攘夷を決行した連中か? でも彼らは「日本を守ろう」としただけだ。動機は間違ってない。手段があまりにも無謀だっただけで。
戦争そのものか? 暴力で問題を解決しようとする人間の性か? でも、暴力なしで生き残れるほど、この時代は甘くない。
怒りの対象が定まらない。どこにも着地しない怒りが、胃の中でぐるぐる回ってる。
気持ち悪い。船酔いより、ずっと。
「伊藤」
井上の声。
「……はい」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣いとる」
「……風で目が」
「嘘つけ」
瓦礫の上に座り込む。膝に力が入らない。だってこれ、俺のせいでもないのに、俺がなんとかしなきゃいけないんだぞ。理不尽だろ。でも理不尽なのが中間管理職だ。前世もそうだった。誰のせいでもない問題を、なぜか俺が収めなきゃいけなかった。それと同じだ。
瓦礫の向こうに、女が立ってる。赤子を抱いてる。家は焼けたんだろう。仮設の掘っ立て小屋の前に突っ立って、こっちを見てる。
目が合った。
女は何も言わない。「助けて」とも「お前のせいだ」とも言わない。ただ、見てる。
俺は目をそらせなかった。
この女に、この赤子に、この瓦礫に、俺は何ができる?
通訳。交渉。賠償の減額。それが俺のできる最大のことだ。でもそれは「次の被害を最小限にする」話であって、「もう起きた被害を取り戻す」話じゃない。
この女の家は戻らない。この赤子の父親が死んでたとしても、それは戻らない。俺にできることは、限られてる。
でも。
限られてても、やる。
やるしかない。
立ち上がる。膝の埃を払う。これも前世の癖だ。打ちのめされても、立ち上がる。打たれて転がって、でも起き上がる。朝稽古で十本負けて十本起き上がったのと同じだ。
「井上さん。行きましょう。藩の重役に報告して、交渉の準備を」
「ああ」
「それと、交渉の場に俺を入れてください。通訳って名目で」
「当然じゃ。お前以外に誰がおる」
井上が俺の肩をポンと叩く。痛い。相変わらず手加減を知らない。でも、その痛さがありがたい。現実に引き戻してくれる。
◇ ◇ ◇
藩の首脳部への報告は、翌日行われた。
場所は萩じゃなくて、下関近くの陣所。戦時体制だから中枢も前線近くに移動してるらしい。
部屋に通される。重役たちがずらりと並んでる。いい年したおっさんたち。全員、難しい顔。当然だ。藩がピンチだからな。
まずは俺と井上で、ロンドンで見てきたことを報告する。
「英国の国力は、日本とは比較になりません。産業革命が進み、鉄道が走り、蒸気機関が工場を動かし、世界最大の海軍を持っています。正直に申し上げて……攘夷は不可能です」
重役たちの顔が、みるみる曇る。
「……不可能、と申すか」
「はい。力の差が違いすぎます。あの国の船を、あの国の工場を、自分の目で見てきました。日本とは桁が違います」
「では、これまでの攘夷は全て無駄だったと申すか」
「英国かぶれめ」
おっ、来た来た。反発。予想通り。
でもここで俺が言い返す前に。
「黙って聞け!」
井上が一喝した。声がでかい。陣所全体が震えた気がする。
「伊藤は英国を自分の目で見てきた男じゃ! 座って想像で物を言うお前らとは違う! お前らはロンドンに行ったことがあるのか! 蒸気機関を見たことがあるのか! ないなら黙って聞け!」
場が静まり返る。重役たちが押し黙った。井上の迫力が勝った。
よし、流れが来た。ここで畳みかける。
「攘夷が無駄だったとは申しません。志は尊い。しかし、やり方を変えなければならない。刀と砲ではなく、外交と交渉でこの国を守る。それしかありません」
「具体的に申せ」
「四カ国との講和交渉に、私を通訳として入れてください。英語ができます。英国の内部事情、議会の動き、予算の制約、通商利益を優先する勢力、全部把握しています。賠償額を減らせます」
重役たちが顔を見合わせる。ざわざわ。
「足軽上がりの、この若造が?」
「交渉などできるのか」
ざわざわ。でも、反論の声はさっきより弱い。なぜなら他に選択肢がないからだ。英語を話せる人間は長州に俺しかいない。代替不可能性の罠。この罠には散々苦しめられてきたけど、今回はむしろ好都合だ。
「……よかろう」
一番偉そうな重役が言った。
「通訳として、参加を許す」
「ありがとうございます」
通訳として。名目は通訳。でも、交渉の実質は俺が設計する。言葉を「どう訳すか」で、流れを操作する。前世の商談で学んだことだ。優秀な通訳は、言葉だけじゃなくて空気を訳す。俺はこの交渉の空気を作る。
陣所を出る。外はまた灰の匂い。
井上が隣を歩きながら言う。
「ようやったな」
「これからです。交渉はまだこれから」
「お前の案で行け。失敗したら、その時はその時じゃ」
「……失敗したくないですね。失敗したら俸禄が出ません」
「そればっかりじゃなお前」
「だってそれが俺の本音ですから」
井上が笑う。意外とよく笑う人だ。最初は怖い人かと思ったけど、慣れてきた。たぶん、お互いに。
さて。
これからが本番だ。四カ国連合艦隊の代表との講和交渉。三百万ドルの要求を、どこまで減らせるか。
前世で一番嫌いだった「クレーム対応」という仕事。それが今、この国を救うかもしれない。
皮肉だな。本当に皮肉だ。
神様がいるとしたら、なかなか性格が悪い。俺の嫌いな仕事ばかり、人生の決定的な場面で必要になるようにできてる。
でも……まあ、いい。嫌いだけど、得意だ。得意だから、やる。それだけだ。
胃薬 (ないけど)、気合 (ないけど)、根性 (条件反射だけど)で乗り切る。
やってやる。
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