第6話「帰りの船、また四ヶ月ってマジかよ」②
情報整理を続ける。もう一つの準備。国際法だ。
ロンドンの大学で「万国公法」の講義を受けた。まだ体系化されつつある段階の、原始的な国際法。でも、いくつかの原則は確立してる。
「戦争の賠償は、実際の損害に見合った額でなければならない」(比例原則)
「非戦闘員への危害は最小限に」(戦時国際法の原型)
「講和条約は両者の合意に基づく」
特に「比例原則」。賠償額が損害に対して過大なら、それは国際法の精神に反する。
もちろん、1860年代の国際法に強制力はない。列強が弱小国に法外な賠償を課しても、誰も罰しない。でも、ここがミソだ。英国は「法の支配」を標榜する国だ。自分たちが掲げるルールに公然と反することは、メンツに関わる。議会で野党に突っ込まれるリスクがある。
つまり「国際法違反です!」と叫ぶのではなく、「国際法の精神に鑑みて、この賠償額はちょっとバランスを欠いてませんかね?」と、あくまで穏やかに提案する。相手を非難しない。相手の論理を借りて、こちらの要求を通す。
これが前世のクレーム対応の極意だ。「あなたの会社のルールでは、こうなってますよね?」と相手の社内規定を引用して交渉する。あれと同じだ。
半紙にまとめる。「交渉時の論点整理」
1、賠償額の減額。理由、英国議会の厭戦ムードと予算的制約
2、長州の攘夷放棄宣言。理由、英国側の「戦果」として機能。通商利益にも貢献
3、下関海峡の安全保証。理由、通商ルートの安定に不可欠。長州の協力がなければ実現しない
4、国際法の比例原則。理由、英国の「法の支配」に訴える。賠償額が過大なら国際法の精神に反する
四つ。これ以上は増やさない。前世のプレゼンで学んだ。論点は三つか四つに絞れ。五つ以上は相手が忘れる。
よし、準備は整った。
……整ったけど、これ、俺が全部考えることじゃなくない? 藩のお偉いさんたちは何してるんだ。俺はただの通訳のはずなのに、いつの間にか国家レベルの交渉戦略を一人で練ってる。ブラック企業でもここまでの丸投げはなかったぞ。
◇ ◇ ◇
帰路三週目。甲板で井上と話す。夜。星がきれいだ。南半球の星座。前世で見たことのない星ばかりだ。
「伊藤。帰ったら何をする」
「交渉の準備です。たぶん俺が通訳で入ります」
「通訳だけか?」
「……通訳と、交渉戦略を。落とし所の設計を」
井上が横目で俺を見る。
「お前、もう案を持っとるじゃろ」
バレてる。まあバレるよな。船に乗ってからずっと一人で半紙に何か書きまくってるやつが「何も考えてません」は無理だ。
「……ある程度は」
「聞かせろ」
話す。英国議会の厭戦ムード。通商利益。予算問題。下関海峡の地理的カード。国際法の比例原則。落とし所。全部。
井上は黙って聞いてる。酒を飲みながら。この人、酒飲みながら人の話を聞くのがうまい。目はちゃんとこっちを見てるし、質問も挟む。酔ってないのか。いや酔ってるけど、頭はちゃんと動いてるタイプだ。
話し終えると、井上がしばらく黙った。波の音だけ。
「……伊藤」
「はい」
「お前、いつからこれを考えとった」
「ロンドンにいる頃から、なんとなく。新聞と議事録を読んでるうちに、向こうの弱点が見えてきて……」
「なんとなく、じゃないじゃろ」
井上の声が低くなる。
「お前は最初から、英国から何を持ち帰るか決めとったんじゃないのか。学問だけじゃない。相手の弱みを。交渉のカードを。情報を。お前はそれを掴むために図書館に籠っとったんじゃないのか」
違う。それは本当に違う。
最初は「癖」だった。前世の業界ニュースチェックの延長で情報を拾ってただけだ。明確な目的なんてなかった。ただ「知っておかないと不安」だから情報を集めてただけ。結果としてカードが揃っただけ。
でも「結果的に揃った」と「最初から狙って揃えた」は、外から見れば区別がつかない。
「……買いかぶりです。本当に」
「買いかぶりでもなんでもいい。とにかく、帰ったらお前の案で行くぞ。俺はお前の後ろに立つ」
「後ろに?」
「交渉の場で暴れそうな奴がいたら俺が抑える。味方に限るがな」
「暴れそうな奴が味方にいる前提なんですね」
「当然じゃ。交渉を壊すのはいつも味方だ」
……正論すぎる。前世の営業でもそうだった。クライアントとの交渉がまとまりかけた瞬間に、自社の上層部が横から「ちょっと待て、それはうちのメンツが——」とか言い出して全部台無し。何度も経験した。
「敵は外じゃない。内だ」。これは営業の鉄則であり、どうやら外交の鉄則でもあるらしい。
「井上さんが後ろにいてくれるなら、心強いです」
「礼はいい。俺はお前が潰れんように見張っとるだけじゃ」
「……それ、やっぱり保護者じゃないですか」
「違うわ。黙れ」
はい、黙ります。でもありがたいです。本当に。
◇ ◇ ◇
帰路三ヶ月目。シンガポール寄港。
五ヶ月前にも来た港だ。あの時は「行き」で、まだ何も知らなかった。まだ呑気に「英国の国力すげえ」とか言ってられた。今は違う。今は「帰り」で、これから戦争の後始末をしに行く。同じ港でも、まったく違う景色に見える。
現地で情報収集。英国商人と接触。
『下関? ああ、砲撃が計画されてるよ。四カ国連合艦隊だ。英国、フランス、オランダ、アメリカ。今、艦隊が集結中だ』
やっぱり。編成はもう始まってる。
『いつです?』
『この夏だな。八月か九月あたり』
今が三月。帰国にまだ二ヶ月。ギリギリだ。でも間に合う。間に合わせる。
もう一つ、聞く。これが本題だ。
『賠償金はいくら要求するつもりだと思います?』
商人が眉を上げる。ちょっと踏み込みすぎたか。
『公式には発表されてないな』
『わかってます。でも、もし推測するとしたら?』
商人が少し考えて、小さな声で言った。
『三百万ドル。そういう数字を聞いたことがある』
三百万ドル。
……おいおいおい。
三百万ドルだって?
1860年代の一ドルが今のいくらに相当するか、正確にはわからない。でもざっくり一ドル=一両と仮定すると、三百万両。長州藩の年間収入は、石高から推計して数十万両程度のはず。三百万両って、その数年分から十数年分だぞ。
払えるわけがない。
もしこの額を飲んだら、長州は破産する。藩が潰れる。そうしたら、俺の給料も消える。いや、給料どころじゃない。藩がなくなれば、俺の身分も消える。足軽の伊藤俊輔という存在自体が消える。
つまりこれは、俺の生存に直結する問題だ。
保身。純粋な保身。賠償金を減らす理由は、それだけで十分だ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、港を見渡しながら、ちょっと違うことも考えてた。
シンガポールの港で働く苦力たち。英国植民地で安い賃金で働かされてる現地の人間たち。ロンドンの大英博物館。世界中から「集めた」、井上曰く「盗んだ」宝物の山。
三百万ドル。その金はどこに行く? 英国の国庫だ。長州の民から搾り取った金が、大英帝国をさらに太らせる。
「……ふざけんな」
口から漏れた。自分でも驚いた。
いや、これは保身じゃない。たぶん。でも、この感情に名前をつけるのはやめておく。名前をつけると大きくなる。大きくなると制御できなくなる。俺は小心者だ。大きな感情は持て余す。
だから「賠償を減らすのは保身のため」。それだけを自分に言い聞かせる。
それだけで、十分だ。今は。
◇ ◇ ◇
帰路四ヶ月目。東シナ海。
風が変わった。潮の匂いが変わった。海鳥の種類が違う。日本が近い。理屈じゃなくて、体がわかる。伊藤俊輔のこの体は、長州の海を知ってる。
井上が甲板で水平線を見つめてる。
「伊藤」
「はい」
「……帰ってきたな」
「ええ。帰ってきました」
日本はまだ見えない。でも「近い」ことはわかる。空の色、雲の形、風の温度。全部が「日本だ」と言ってる。
「お前、覚悟はいいか」
「いいです。いや、良くないですけど。やるしかないんで」
「ふん。お前はいつもそうだな。覚悟がないまま覚悟する」
「そういうものですよ。覚悟なんて、できた時にはもう手遅れなんで、できないまま始めるしかないんです」
井上が少し笑う。
「……名言っぽいな」
「名言じゃないです。ただの言い訳です」
「言い訳でもなんでもいい。俺は、お前と一緒に帰れてよかったと思っとる」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。きもち悪い」
笑う。二人で笑う。海風が冷たい。四月の東シナ海はまだ寒い。




