狙撃兵の射撃
夜が深まるほど、風は冷たさを増した。
稜線の影に身を伏せた男は、頬をスコープに押し当てたまま動かなかった。息を止めると、指先の感覚が薄れていく。指が震えないよう、ゆっくりと呼吸を戻す。スコープの中の世界は、月明かりに照らされた廃屋の窓だけだった。
三時間前、無線で「標的はまだ動いていない」と伝えられてから、彼は一度も姿勢を変えていなかった。膝の下の岩が冷たく、筋肉が固まっていくのを感じながら、彼はただ待っていた。
窓の中に、かすかな光が揺れた。
煙草の火だった。
男はゆっくりと息を吐き、トリガーに指を乗せた。距離は八百四十メートル。風は左から二メートル。弾道はわずかに右に逸れる。彼はそれを計算し、十字の中心を、窓の縁から指二本分ずらした。
火が近づいてくる。顔の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がった。若い。二十代半ばだろう。疲れた目をしている。敵か味方か、彼にはわからなかった。無線では「敵対勢力の指揮官」とだけ伝えられていた。
煙草をくゆらせながら、その男は窓に肘を突き、外を眺めていた。何か考えているようだった。遠くで、誰かの笑い声がした。味方の兵だろう。標的は、ふと笑った。
スコープの中の顔が、一瞬、穏やかになった。
狙撃兵の指が、わずかに止まった。
「撃て」という声が、無線で小さく響いた。上官の声だ。淡々としている。いつもと同じ調子。
彼は目を閉じた。三秒。四秒。目を開けると、標的はまだそこにいた。煙草の火が、最後の明るさを保っていた。
彼は息を止めた。
引き金を引いた瞬間、反動が肩を貫いた。スコープの中で、煙草の火が消えた。
廃屋の窓は、再び闇に戻った。
狙撃兵はスコープから顔を離し、ゆっくりと息を吐いた。風が頬を撫でていく。遠くで、誰かが叫んでいるのが聞こえた。味方の声か、敵の声か、もうわからなかった。
彼は無線に手を伸ばし、短く告げた。
「標的、無力化」
返事はなかった。ただ、風の音だけが続いた。
彼は再びスコープに目を当てた。今度は、何も動かない窓を、ただ見つめていた。煙草の灰が落ちた場所に、月の光が当たっている。ほんのわずかな、白い点だった。
その点を見ながら、彼は次の指示を待った。
風は、まだ冷たく吹いていた。




