射撃準備完了
陣幕の中は、まだ暗い。光源は無線機の小さなランプと、隙間から漏れる東の白みだけだ。スピーカーの声が落ちたあと、川の音が戻ってくる。対岸の篝火は、指で数えられるほどに減っていた。
氏治は地図の端から肘を外し、マイクを手の甲で押さえた。声は通す。感情は通さない。
「FDC、第1目標、射撃準備完了、了解。諸元を送れ」
短く切って、信奈のほうを見た。金色の瞳が、まだ細いままだ。
「第一目標は、右翼奥の兵糧。着弾は幕の外、人影の薄い側。修正は二回まで、その約束は守ります」
無線機のノイズが、一度だけ高くなった。対岸では、まだ誰も起きていない。起きていないうちに、空のほうが先に動く。
氏治は声を落とした。スピーカーにではなく、隣にいる一人にだけ届く高さだ。
「三回目は出しません。二回で収まらなければ、射撃を切る。切ったあとで、騎馬を出すかどうかは信奈の判断です。あたしは止めない。止められる立場でもない」
地図の一点を指で押さえる。昨夜、信奈が爪で叩いた場所の、さらに半町西。
「狼煙は、諸元が届いてから二十呼吸。西へずらした地点。浅井の右翼が『朝倉が動いた』と誤認する位置です。誤認が広がる前に、第一弾を落とす」
信奈が口角を上げたまま、こちらを見ている。嫌いじゃない、と言った言葉が、陣幕の空気にまだ残っている。氏治はそれを受け取らず、受け取りもしない。ただ、条件だけを揃える。
「夜明けまで半刻。終わるのは、彼らが起きる前ではありません。起きて、混乱して、逃げ場を失う前です。寝込みを襲う勝ち方は、明日の噂にはならない。噂になるのは、見えないところから落ちて、陣が割れた、という事実だけです」
スピーカーが、再び息を吸うような音を立てた。諸元を待つ音だ。氏治はマイクから指を離さない。
「信奈。先陣には出ない。出ないと決めた夜の約束は、未明になっても変わりません。ただし——」
東の白みが、幕の縁を一本、細く染めた。
「騎馬を出す条件は、信奈が言った通りです。二回で外れたら、あたしは射撃を止める。止めたあとの半呼吸は、大将のものだ」
無線機のランプが、一度だけ強く瞬いた。対岸は、まだ黒い。黒いうちに、数字が届く。
氏治はスピーカーへ向き直り、声を元の高さに戻した。
「FDC、第1目標。諸元、受信準備よし。修正は二回。三回目の要求は受けない。以上」
信奈は、すぐには答えなかった。
金色の瞳が、一度だけ細まる。怒っているのではない。受け取った条件を、内側で並べ直しているときの顔だ。無線機のランプが瞬き、その光が睫の先で割れる。
「……半呼吸は、大将のもの」
繰り返す。声は低い。嘲りはない。昨夜、袖を引いたときより、ずっと近い。
地図の端に置いた指が、ゆっくりと離れた。爪の跡が、紙の上に白く残る。
「生意気ね。射撃を切る権利まで、自分で持っていく」
口角は上がっている。だが目は笑っていない。笑う余白を、わざと残していない。
「いいわ。二回で外れたら、切って。切ったあとの半呼吸は、あたしが使う。使わなかったら、あんたの勝ちよ。使ったら——」
言葉を切る。陣幕の隙間から、東の白みがもう一段、濃くなっていた。川面の霧が、根元からほどけ始めている。
信奈はスピーカーではなく、氏治の横顔を見た。
「使ったら、騎馬は出す。先陣なんかじゃない。割れた陣の、いちばん薄いところへ、一本だけ通す。通して、戻る。戻らなかったら、そのときはあんたの原則が間違ってたのよ」
短い息。焦りはない。待つ側の呼吸だ。
「寝込みを襲う勝ち方は、噂にならない。知ってるわ。だから、起きて、混乱して、逃げ場を失うところまで見届ける。見届けるのは、この陣幕の中よ。馬には乗らない」
無線機が、また低く息を吸った。諸元は、まだ届いていない。届くまでの数呼吸を、信奈は無駄にしない。
「第一目標、右翼奥。狼煙は二十呼吸、西。修正は二回。三回目は、あたしが貰う」
条件を、自分の口でもう一度並べる。氏治の言葉を借りているのではない。自分の命令に、置き直している。
金色の瞳が、やっと少しだけ緩んだ。
「……嫌いじゃないわよ、その言い方。面倒くさいけど」
幕の縁を指で払い、対岸を一度だけ見る。篝火は、さらに一つ減っていた。減ったことに、向こうはまだ気づいていない。
「さあ、諸元を受け取りなさい。あたしも、半刻だけ大人しくしててあげる」
言いながら、肘を地図に戻す。戻した肘の位置は、昨夜と寸分違わない。動く準備は、身体のほうだけが先にしている。
信奈は、地図を見ていなかった。見ているのは、地図の裏にある時間だ。
右翼奥の兵糧が落ちる。それは勝ちではない。勝ちは、落ちたあとに誰が動くかで決まる。朝倉の本陣は二重構えだ。外が崩れても、内が残る。残った内側が「味方の狼煙だ」と誤認すれば、門が開く。誤認しなければ、門は閉まる。閉まった門を砲で叩いても、時間を食うだけだ。
だから狼煙は西。本陣の真裏ではない。浅井の右翼が、朝倉の動きと見間違える位置。見間違えが伝わるのに、徒歩なら一刻は要る。騎馬なら、もっと短い。短いほうに賭ける。賭けは、砲の修正が二回で収まるかどうかだ。
一回目で外れても、弾着の向きは読める。二回目で寄せる。三回目は要らない。三回目を待つあいだに、向こうの歩哨が目を覚ます。覚めた目は、空を疑うより先に、地面の穴を数える。穴を数えた兵は、もう狼煙を信じない。
信じない陣は、割れない。割れない陣を、騎馬で突いても厚い。厚いところへ馬を出す大将は、明日の首になる。
信奈は、その順番を頭の中で逆さにした。
割れる。割れた薄いところへ、一本だけ通す。通して、戻る。戻るまでのあいだ、砲は黙る。黙っている砲は、次の目標をすでに測っている。測っていることを、向こうは知らない。知らないまま、朝倉は内側の幕を開ける。開けた瞬間が、第二目標だ。
第二目標は、まだ言っていない。言えば、氏治は先に用意する。用意されたものは、使いたくなる。使いたくなる前に、第一で陣を割る。割れなければ、第二は出さない。出さない決断も、大将の仕事だ。
東の白みが、幕の縁を染める。半刻。半刻で終わる仕事ではない。半刻で、終わる順序を固定する仕事だ。
兵糧。誤認。開門。薄い一点。通過。帰還。沈黙。
信奈は肘を動かさない。動かさないことが、いまの命令だった。




