↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
信奈の野望 元自衛官が異世界転移  作者: M


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/61

姉川の戦い前夜(2)

信奈は地図から指を離さなかった。ただし力は抜けている。押さえつけるのではなく、ただ印を忘れないように置いているだけだ。

金色の瞳が、一度だけ氏治の顔を探った。

「……勝たせるのは、織田」

短く繰り返す。嘲りではない。噛みしめるような声だ。

「 氏治。あたしの名前を外すのが、いちばんあたしらしい勝ち方だって言いたいわけ」

悪戯っぽさは残っている。だが声の芯は、先ほどの挑みより低い。陣幕の外で篝火が弾ける音がした。対岸では、まだ誰も空を疑っていない。

信奈は画面の端——西へ半町ずらした地点——を爪で軽く叩いた。

「いいわ。狼煙は西。歩哨の交替を見てから上げる。寝顔は諦めましょう。代わりに、あいつらの『誰が先に動くか』だけ盗みなさい」

袖を再び引く。今度は軽くない。止まる位置を指定する引き方だ。

「三人だけ、ね。選ぶのはあんた。あたしは名前を聞かない。聞いたら、明日の朝に顔を見てしまうから」

氏治は頷くだけにした。頷き以上の言葉は、今夜は余計になる。

画面を閉じ、小型の機体を膝上で点検する。羽根の縁に夜露がついている。戦国の夜は、機械にも容赦しない。氏治は布で拭き、次の飛行高度を指で示した。低く、川面の霧に溶ける高さ。カラスに見えるなら、それでいい。見えないなら、なおいい。

信奈は地図を巻き、懐へしまった。動作は速い。決断のあとに残るのは、身体の処理だけだ。

「あたしも眠る。先陣に立たない大将が、夜更かししてたら笑いものよ」

言いながらも、入り口の紐を解こうとはしない。立ち止まったまま、氏治の横顔を見た。

「砲弾が降るまで、あたしは本陣を動かない。動かない代わりに——」

言葉を切る。夜風が幕を内側へ押し、灯が揺れた。

「一つでも読みが外れたら、そのときは先頭に出る。あんたの原則より、生きて勝つほうを取る。いいわね」



機体の羽根を拭う氏治の手元を、しばらく黙って見ている。


信奈

……手入れが丁寧ね。そういうところ、嫌いじゃないわよ。


褒め言葉にしては素っ気ない。だが視線は機体ではなく、その手に固定されている。


立ち上がり、陣幕の隙間から対岸を覗く。篝火の数は変わっていない。


狼煙は西、承知したわ。でも一つだけ条件を足させて。


(振り返り、金色の瞳を細める。悪戯っぽさは消え、代わりに冷徹な計算だけが残っている。)


朝倉の本陣が崩れたら、あたしは追撃しない。あんたの砲が止めを刺す——それでいい?


大将の首級を譲ると言っている。

織田の名を前に出すことを嫌ってきた彼女が、今夜だけは違う選択をしている。


再び氏治の隣に腰を下ろし、声を落とす。


……理由?簡単よ。あいつらに「誰に負けたか」を教えたくないの。ただ「何に負けたか」だけを持ち帰らせればいい。


(指先で地図の端を軽く叩く。)


だから答えなさいよね。あんたの砲だけで十分?それとも、もう一枚カードが要る?


氏治


迫撃砲の射撃で、犠牲を少なく


信奈


地図から指を離し、氏治をまっすぐ見る。


……わかったわ。迫撃砲でいく。


即答だった。兵の命を数字で語ることを嫌う彼女が、今は迷いなく頷いている。


立ち上がり、陣幕の杭を一つ引き抜く。


ただし条件があるわよ。初弾が外れたら、あたしが突撃する。当たっても被害が残るなら、第二波はあたしの騎馬隊。——あんたの砲だけじゃ足りない時は、ちゃんと認めなさいよね。


初弾が外れたら、修正射で目標を破壊します。


戦国の常識では、初弾を外した鉄砲隊は次弾の装填前に敵に踏み込まれる。

だが氏治の口ぶりには、その焦りが一切ない。


杭の上に顎を乗せたまま、片眉を上げる。


修正射?……つまり、外しても当てられるってこと?


杭から顎を離し、腕を組む。金色の瞳が興味深そうに細まる。


ふぅん……あんたの「見えない死神」、自分で修正できるのね。じゃあ——


(一歩だけ近づき、声を落とす。)


条件を変えましょう。修正射で当たらなければ突撃。でも当たったら……


(対岸で二つ目の篝火が消える。夜番の交代まで、刻限が迫っている。)


当たったら、あたしは何もしないわ。全部、あんたの砲に任せる。それでいい?


譲歩の形を借りた、二重の保険だ。信奈は引いた杭を地面に突き立て、その上に顎を乗せて氏治を見上げる。


少しだけ声を柔らかくして。


……あんたが「犠牲を少なく」って言うから、聞いてあげるんじゃないわよ。あたしも同じことを考えてた。ただそれだけ。


約束ではなく、宣言だった。氏治はそれを否定しない。否定できる立場に、最初からいない。

「読みは外しません。外れた瞬間に、次の弾着点を出し直すだけです」

短い沈黙。そのあいだに、信奈の呼吸がひとつだけ深くなった。覚悟を飲み込む音に近い。

「……わかった。じゃあ、勝たせなさい。織田を」

幕を開け、外へ一歩出る。肩に夜気が落ちた。対岸の敵陣は、なお黒く、静かに並んでいる。鳥瞰で見た二重構えも、兵糧の位置も、今は闇の中だ。だが地図の裏には、すでに穴が穿たれている。

氏治は機体を手のひらに載せ、最後の確認をした。

偽の狼煙は西。

斉射は狼煙から三十呼吸。

最初の弾は右翼奥の兵糧。

伝えるのは三人。

信奈は動かない。

陣幕の外で、篝火がまたひとつ小さくなった。夜明けまで、本当にあと数刻しかない。

空飛ぶカラスが、霧の中へ消える。羽根音は川音に溶ける。対岸の歩哨は、頭上を一度だけ見たあと、再び火に手をかざした。

何も起きていない、とその目は言っている。

まだ、何も起きていない。


(対岸の篝火が一つ消えた。夜番の交代まで、あと半刻もない。)


準備しなさいよね、氏治。朝は早いわよ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。