姉川の戦い前夜(2)
信奈は地図から指を離さなかった。ただし力は抜けている。押さえつけるのではなく、ただ印を忘れないように置いているだけだ。
金色の瞳が、一度だけ氏治の顔を探った。
「……勝たせるのは、織田」
短く繰り返す。嘲りではない。噛みしめるような声だ。
「 氏治。あたしの名前を外すのが、いちばんあたしらしい勝ち方だって言いたいわけ」
悪戯っぽさは残っている。だが声の芯は、先ほどの挑みより低い。陣幕の外で篝火が弾ける音がした。対岸では、まだ誰も空を疑っていない。
信奈は画面の端——西へ半町ずらした地点——を爪で軽く叩いた。
「いいわ。狼煙は西。歩哨の交替を見てから上げる。寝顔は諦めましょう。代わりに、あいつらの『誰が先に動くか』だけ盗みなさい」
袖を再び引く。今度は軽くない。止まる位置を指定する引き方だ。
「三人だけ、ね。選ぶのはあんた。あたしは名前を聞かない。聞いたら、明日の朝に顔を見てしまうから」
氏治は頷くだけにした。頷き以上の言葉は、今夜は余計になる。
画面を閉じ、小型の機体を膝上で点検する。羽根の縁に夜露がついている。戦国の夜は、機械にも容赦しない。氏治は布で拭き、次の飛行高度を指で示した。低く、川面の霧に溶ける高さ。カラスに見えるなら、それでいい。見えないなら、なおいい。
信奈は地図を巻き、懐へしまった。動作は速い。決断のあとに残るのは、身体の処理だけだ。
「あたしも眠る。先陣に立たない大将が、夜更かししてたら笑いものよ」
言いながらも、入り口の紐を解こうとはしない。立ち止まったまま、氏治の横顔を見た。
「砲弾が降るまで、あたしは本陣を動かない。動かない代わりに——」
言葉を切る。夜風が幕を内側へ押し、灯が揺れた。
「一つでも読みが外れたら、そのときは先頭に出る。あんたの原則より、生きて勝つほうを取る。いいわね」
機体の羽根を拭う氏治の手元を、しばらく黙って見ている。
信奈
……手入れが丁寧ね。そういうところ、嫌いじゃないわよ。
褒め言葉にしては素っ気ない。だが視線は機体ではなく、その手に固定されている。
立ち上がり、陣幕の隙間から対岸を覗く。篝火の数は変わっていない。
狼煙は西、承知したわ。でも一つだけ条件を足させて。
(振り返り、金色の瞳を細める。悪戯っぽさは消え、代わりに冷徹な計算だけが残っている。)
朝倉の本陣が崩れたら、あたしは追撃しない。あんたの砲が止めを刺す——それでいい?
大将の首級を譲ると言っている。
織田の名を前に出すことを嫌ってきた彼女が、今夜だけは違う選択をしている。
再び氏治の隣に腰を下ろし、声を落とす。
……理由?簡単よ。あいつらに「誰に負けたか」を教えたくないの。ただ「何に負けたか」だけを持ち帰らせればいい。
(指先で地図の端を軽く叩く。)
だから答えなさいよね。あんたの砲だけで十分?それとも、もう一枚カードが要る?
氏治
迫撃砲の射撃で、犠牲を少なく
信奈
地図から指を離し、氏治をまっすぐ見る。
……わかったわ。迫撃砲でいく。
即答だった。兵の命を数字で語ることを嫌う彼女が、今は迷いなく頷いている。
立ち上がり、陣幕の杭を一つ引き抜く。
ただし条件があるわよ。初弾が外れたら、あたしが突撃する。当たっても被害が残るなら、第二波はあたしの騎馬隊。——あんたの砲だけじゃ足りない時は、ちゃんと認めなさいよね。
初弾が外れたら、修正射で目標を破壊します。
戦国の常識では、初弾を外した鉄砲隊は次弾の装填前に敵に踏み込まれる。
だが氏治の口ぶりには、その焦りが一切ない。
杭の上に顎を乗せたまま、片眉を上げる。
修正射?……つまり、外しても当てられるってこと?
杭から顎を離し、腕を組む。金色の瞳が興味深そうに細まる。
ふぅん……あんたの「見えない死神」、自分で修正できるのね。じゃあ——
(一歩だけ近づき、声を落とす。)
条件を変えましょう。修正射で当たらなければ突撃。でも当たったら……
(対岸で二つ目の篝火が消える。夜番の交代まで、刻限が迫っている。)
当たったら、あたしは何もしないわ。全部、あんたの砲に任せる。それでいい?
譲歩の形を借りた、二重の保険だ。信奈は引いた杭を地面に突き立て、その上に顎を乗せて氏治を見上げる。
少しだけ声を柔らかくして。
……あんたが「犠牲を少なく」って言うから、聞いてあげるんじゃないわよ。あたしも同じことを考えてた。ただそれだけ。
約束ではなく、宣言だった。氏治はそれを否定しない。否定できる立場に、最初からいない。
「読みは外しません。外れた瞬間に、次の弾着点を出し直すだけです」
短い沈黙。そのあいだに、信奈の呼吸がひとつだけ深くなった。覚悟を飲み込む音に近い。
「……わかった。じゃあ、勝たせなさい。織田を」
幕を開け、外へ一歩出る。肩に夜気が落ちた。対岸の敵陣は、なお黒く、静かに並んでいる。鳥瞰で見た二重構えも、兵糧の位置も、今は闇の中だ。だが地図の裏には、すでに穴が穿たれている。
氏治は機体を手のひらに載せ、最後の確認をした。
偽の狼煙は西。
斉射は狼煙から三十呼吸。
最初の弾は右翼奥の兵糧。
伝えるのは三人。
信奈は動かない。
陣幕の外で、篝火がまたひとつ小さくなった。夜明けまで、本当にあと数刻しかない。
空飛ぶカラスが、霧の中へ消える。羽根音は川音に溶ける。対岸の歩哨は、頭上を一度だけ見たあと、再び火に手をかざした。
何も起きていない、とその目は言っている。
まだ、何も起きていない。
(対岸の篝火が一つ消えた。夜番の交代まで、あと半刻もない。)
準備しなさいよね、氏治。朝は早いわよ。




