動機だけなら、誰もが持っているけれど
つまらないといえば、今のこの、ぼくの独り言だって、つまらない。
つき合わせて申し訳ないね、アルトゥール。
窓から身を乗り出して、ぶつぶつ言っていたぼくを、ナオキは胡散臭そうに見ていたけれど、どうやらもう眠って
しまったようだ。床の上で、膝を抱えたまま。
顔には疲労の色が濃くて、可哀想だけれども、ぼくにはどうしようもない。
そっと扉を開ければ、今日の分の夕食が置いてある。
もう冷え切ってるパンと、肉と野菜の盛り合わせを、適当な布で手籠ごとくるむ。
ナオキの寝息を確かめ、廊下に人通りのないのを確認して、手籠を持って外に出る。
行き先は、宮殿の東のはずれ。
そう、兄上のいる牢獄だ。
やっぱり今夜は、月の光が強いね。
中庭の、水の止まった噴水にくっきりと映る、十六夜の月が目にしみる。
「マティアス!」
どうやら、先客のようだ。人影が見える。
母上だ。
ぼくの気配に気づいて振り返り、驚いた顔を向けている。
牢獄はもう少し先だ。鉄格子の形がうかがえるくらいには近づいているけれども、植え込みにさえぎられて、ここからは牢内の様子は見えない。
「どうして、あなたが……こんな時間に」
「驚くのは後にしてください、母上! 今、もしかして地の魔法の真っ最中じゃないんですか」
「そ、そうね」
母上は慌てて、また気を集中させた。
母上の胸元には、孔雀翡翠の首飾りが輝いている。その回りをうっすらと、地の元素霊が取り巻いている。元素霊の気配は、普通の人間にはわからないけれど、魔法技術の本を読んで訓練すれば、感じ取れるようになるものだ。
母上が使おうとしているのは〈鎖の見る夢〉。どんな鍵をも解錠できる地の魔法だ。
しかし……。
よくもまあ、母上の腕でそんなことをしようと決心したものだ。
難度は中くらいだと思うけど、この魔法は失敗したときの被害がひどい。
鍵が壊れるくらいならいいが、下手すると建造物全体に被害が及ぶ。
ほんの半年前から魔法の勉強を始めたぼくでも、それくらいはわかる。ぼくの魔法の腕の方が、母上よりかなり上だろうということも。
「地の元素霊に命ず。牢獄の鍵に宿りて、ひらかしめよ」
「母上! まだ早いです! 地の元素霊が集まりきってないし……せっかちに使役すると、逆切れしま」
ぼくの言葉を遮って、爆音が轟いた。
まず牢獄の鍵が、大きな錠ごと吹き飛んだ。牢獄は、宮殿近くに張り出している岩山の、一部をくり抜いて造られている。灰色の岩山全体に、黒っぽい亀裂が走った。
まずい。
岩山ごと、牢獄がひしゃげて崩れてしまう。中にいる者を巻き添えにして。
「水の元素霊に命ず! 汝、水龍となりて牢獄を満たし、中のものを命あるまま、我が前まで押し流せ」
ぼくは反射的に、水の魔法〈水龍の飛翔〉を使った。素早く使役するのには、従順な水の元素霊に限る。
すぐに四方八方から、細く長い、水で出来たひものようなものが無数に集まってきた。水の束は合わさって一匹の龍の形になり、崩れかけた牢獄へ、鉄格子の目をもくぐり抜けて進入する。
母上の悲鳴が響く中、牢獄は崩れ去った。
崩壊の一瞬前。
人の身長の倍以上もある牢獄の扉が押し流され、派手な音を立てて植え込みにぶつかった。牢内にいた者をその背に乗せた水龍は、月光を反射させながら空中を飛び、ぼくの前で大量の水に戻って流れ去った。
水が引いた後に残されたのは、桃色の髪をした小さな女の子をしっかり抱きしめた、レオンハルト兄上だった。
「は? へ? ほ? えーと、これは、何がどうなっているのかなぁ?」
びしょ濡れの金髪を額にはりつかせて、レオンハルト兄上はかわるがわる、ぼくと母上を見比べた。
「さあ。ぼくにも、何がなんだか」
小さな女の子は、赤い瞳をしていた。兄上と一緒に牢獄にいるなんて、何者だろう。きつい目でぼくを見て、小さな人差し指をぴっと向けた。
「あー。マティアス。あんたね。あんたよ、あのフードかぶってたやつは。気配でわかるわ。あんたが魔力を吸い取って、私をこんなにしたのよ。エドムントを殺した犯人はあんたよっ!」
「ミケぇ。何いってんだよ、ばぁか」
なんとこの女の子は、妖剣から分離した妖魔ミレーヌケティのようだった。兄上はミレーヌケティの頭をこつんと叩く。
母上が、はっと両手で口を塞いでぼくを見る。でもすぐに、怪訝そうに首をひねると、ドレスをたくし込んでしゃがみ、目線をミレーヌケティの身長に合わせた。
「お話するのは十年ぶりくらいでございましょうか。お久しぶりです、ミレーヌケティどの。まあずいぶんと、お可愛らしくなられて」
「あんたの不肖の息子のせいよっ」
「……あのう、マティアスが下手人だという根拠を、お聞かせいただきたいのですけれども。ミレーヌケティどのがここにいらっしゃるということは、妖剣〈誰彼〉がすぐ近くにあるということで……でも妖剣は凶器として別棟に厳重に保管されていたはずでは?」
母上はおっとりと首を傾げる。
「それに、マティアスには妖剣を使うことはかないませぬが」
「凶器になった妖剣は偽物よ。本物はそれ」
ミレーヌケティは兄上の手元を指さす。何の変哲もない簡素な短刀を、兄上は携帯していた。
兄上が下手人かどうかというのは、ぼくも半信半疑だった。
宮殿に引き取られたときからずっと、兄上は母上に懐いていた。母上はつかみどころのない人だから、兄上のことをどう思っているのか計りかねたけれど、兄上の方は母上に夢中だというのがよくわかった。
特にこの一、二年は、はたで眺めているとお似合いに見えなくもなく、ぼくとしては非常に不愉快だった。だけど単純でお人好しの兄上が、母上を手に入れるために父上を殺める決心をするというのも合点がいかず――
なんのことはない。ぼくもグレンと同様に、釈然としない思いを抱えていたのだ。
それでも、処刑の日取りに待ったをかけようとは思わなかった。
成り行きに任せよう。国王代理として、兄上の火刑を見届けよう。
それが、不協和音の響きだしたこの国にとって、最良の選択だと思った。
母上はぼくを疑ってるようだし、前例に準じるしか能のない貴族連中は、自分たちのことは棚に上げ、平然と兄上を処刑するとは冷酷無慈悲とかなんとか、後で言い出すだろうけど。
だけど、ぼくはずっとそうやって自分の立場を守ってきたんだ。
他のやり方を、知らない。
感情も動揺も顔に出さないで、処刑に立ち会うつもりだった。フィリーネの時と同じように。
そう――思っていたのだ。ついさっき〈夜の虹〉を見るまでは。
「ふうん。父上を殺した妖剣が偽物かも知れないとは、考えたこともなかったな。古代獣〈鵺〉が鍛えた剣には、この世のどんな剣にめくらましをかけても、似せることは出来ないって、ギュンターから聞いたことがある。どうやって偽物を造れたんだろう?」
ぼくのつぶやきに、ミレーヌケティはぷりぷりしながら食ってかかった。
「こっちが聞きたいわよ。何よ白々しい。とぼける気なら、あの夜あんたが何をしてたか、順序立てて言ってみなさいよ。部屋から一歩も出なかったってのは、なしよ。〈水龍の飛翔〉を使えるくらいの術者が、〈瞬きの旅〉を修得してないはず、ないんだからね」
「いや、独学なので、成功率は半々というか」
「あんたはあの日、〈瞬きの旅〉で骨董屋に出向いて、親父さんに眠りの魔法をかけた。その後私にあの聞いたことのない呪文を唱えて――私を現場まで運んで――エドムントの背に妖剣が突き刺さっているのを見せて、不気味に笑って」
「だからさー、ミケちゃん。マティアスが犯人だって決めつける根拠はなんだって、ロスヴィーダさまが聞いてらっしゃるだろ」
「言ってるでしょ、気配よ。理屈じゃないのよ。あの怪しいやつとすごく気配が似てるのよ。……何よ、ふたこと目にはロスヴィーダロスヴィーダって。下手な魔法使われたおかげで、あんたもうちょっとで牢獄で死んじゃうところだったんだからね」
「なんと申し上げてよいやら……。鍵だけを壊すつもりだったのですけれども……。私の手には余る魔法だと承知の上で、運命にまかせ、あえて〈鎖の見る夢〉を使いました。お怒りはまことにごもっともで……」
恐縮して謝る母上に、兄上はむしろ顔を輝かせる。
「はっ。そうか。じゃあおれ、殺してもらえるところだったのか。うわあ残念。もう少しで妖剣の呪いが成就するところだったんだ」
「そんなの呪いとは関係ないわよっ。そんなおおざっぱな死因、私は認めないからねっ」
「……あのまま牢獄の中で、岩につぶされて絶命なさりたかったですか? 余計な手助けをしたようで、申し訳ありませんでした」
ぼそりとぼくがいうと、兄上は大げさに首を横に振り、ぼくの肩をばんばん叩いた。
「いいやー。ありがとうな。こんな時間に様子を見に来てくれたってことは、おまえも少しは、おれが下手人じゃないのかもーとか、思ってくれてるんだろ? おれだっておまえが犯人だなんて思ってないからな。ミケは何か勘違いしてるんだよ、うん」
あの日。
ぼくはあの日、ずっと部屋にいた。早く〈奇跡の扉〉を開けとせかすナオキをよそに、〈瞬きの旅〉を使ってた。
あの夜は妙に調子よく、魔法が成功した。ぼくは幾つかの場所に出入りして……。
いや。よく覚えていない。
〈瞬きの旅〉は、気味悪いくらいに順調だった。だけど何だか頭痛もひどかった。
ずっと、頭の中に靄がかかったようになっていたし……誰かの低い声が聞こえたような気もする。
母上がぼくの部屋の前まで来て、父上が妖剣で殺されたことを大きな声で知らせて……。ぼくは返事をするのもおっくうだった。
誰かと顔を合わせたくもなかったから、扉は開けないまま、きついことを言って母上を追い返した。
あのときぼくは、父上が殺されたことに対して、あまり意外な気はしなかった。
父上の名のもとにいろんな国々が征服されたし、幸せな人生を送れたはずの姫君たちが幾人も、寵妃として父上の子供を産んだりして、運命を狂わされた。それ以外にも父上を恨んでいる人間は無数にいると思う。
ヴァラスの宮殿内にも、だ。
動機だけなら、誰もが持っているのだ。
母上の悲痛な声を聞きながら、ぼくは大して悲しみもせず、ぼんやりとそう思っていた。
その場で下手人と決定され、牢獄に入れられたレオンハルト兄上も。
ひどく驚き、狼狽えているように見える、母上も。
夜伽に呼ばれて、父上の遺体を発見することになった、若い侍女も。
生真面目な近衛隊長のグレンだって、そうだ。
グレンを疑おうとは思わない。けど、あの若い侍女はしっかりした明るい娘で、グレンは結構気に入っていたはずなんだ。気持ちを打ち明けようと決心した矢先に、父上のお声がかかって、しょうがないからあきらめたと苦笑いしていた。
侍女の悲鳴を聞いてから、グレンが現場に駆けつけたって言うけど、そのへんの時間差は、前もって打ち合わせておけばなんとでもなる。
底意地悪く考えれば、誰だって怪しい。
ぼくにだって動機はある。しかも記憶が曖昧だ。
〈瞬きの旅〉を使ったりもしたし……。
だけどそれは、父上を殺しに行くためじゃない。
だって、ぼくが魔法を学び始めたのは、もっと大事なことに使うためだから。
「おまえじゃないんだろう、マティアス」
唇を引き結んだぼくの肩に手を置いたまま、兄上がもう一度聞く。
「……わかりません。断言できません。あの日のことはうろ覚えなんです」
「うーん。そういえばミケも、六日前の記憶が途切れてるとか言ってたな」
「一緒にしないでよ。マティアスはとぼけてるだけよ」
ミレーヌケティは兄上の服の袖をぐいと引っぱり、ぼくから引き離した。
「あー、よしよしミケ。おまえも疲れてるんだよな」
ぼくに対してもミレーヌケティに対しても、兄上は小さい子でもあやすような口調だ。この余裕は何なのだろう。
「ぼくがあなたに罪を着せた、とはお思いにならないんですか? どうして?」
「やー。何となく」
「何となく、ですか」
「うん。今だっておれを助けてくれたしさ」
兄上はちょっと頭を掻いてから、母上の方を見た。
「……まずは、マティアスを信じなくちゃだめですよ、ロスヴィーダさま」
ずっと釈然としない風だった母上が、晴れやかな顔になった。それこそ、何の根拠もないのに。
ミレーヌケティの目線までしゃがんでいた母上は、立ち上がって兄上に向かい、一礼した。
「お心遣い痛み入ります。レオンハルトさま。今宵私は、あなたさまにお伝えしたいことがあって、まいりました。もしあなたさまを無事に牢からお出しすることが出来たなら、お話ししようと」
「な、何でしょうか。えっと、人前じゃまずい話なら、あっちの植え込みの陰にでも」
「はぁぁ。どうしてこうなのしら。この馬鹿は」
ため息をつくミレーヌケティをよそに、兄上は母上の手を掴み、植え込みの陰に直行しそうな勢いだった。が、母上はやんわりと押しとどめ、ぼくが兄上に伝えようと思っていたことと、同じ事を言った。
「アヴィリオンに、お向かい下さいませ。魔王アルトゥールさまにご助力をお願いするのが、最善ではなかろうかと思います」
「アルトゥールに?」
「はい。先ほどから空には〈夜の虹〉が出現しております。アルトゥールさまの手によるものと思われますので、私は先刻から、事の次第をお話しておりました。お聞き届けいただいたかどうかは、わかりませぬが」
「わぁ。気が合いますね。おれも実はさっきまで、牢内から鉄格子越しに、アルトゥールに愚痴ってたんですよ」
「……ぼくもここまでの道すがら、夜の虹に向かって独りごとを言いながら来ました。アルトゥール兄上に、聞いていただければと思ったので」
「え?」
「なにぃ?」
「えええっ? アルトゥール『兄上』って」
母上と兄上とミレーヌケティまでが、同時に叫んだ。
「い、いま、なんつった? 聞き違いかな。聞き違いでなけれは言い間違いだ。言い間違えたぞ、おまえ」
「いいえ。アヴィリオンの魔王アルトゥールは、ぼくたちの異母兄です」
ぼくは伝える。以前、父上がこっそりとぼくに、どこか自慢げに話していたことを。
「父上が母上とご結婚なさるかなり前……と言いますか、父上と母上は年がかなり離れてますから、母上が生まれる前の話ですね、アヴィリオンにお忍びで何度か通われたそうで」
「まぁ……。大した甲斐性だこと。アヴィリオンの娘さんは魅力的な方が多いそうですから、陛下がお行きにならないはずはないと思って……。あら。いえ。変ね、アルトゥールさまはアヴィリオンの前王の、たしか五番目の息子さんのはずよ」
「ええ、公式にはね。つまり父上は、アヴィリオンの王妃と通じたのです」
「ま」
「わー。それはちょっと、なんだかなぁ」
ぼくは空を見上げる。夜の虹は鮮やかに白い。天空に架かった橋は、時おり右から左に、無数の光の粒をきらきらと走らせる。まるで、話の続きを促すように。
「アルトゥール兄上も、ヴァラス王の死に無関心ではいられないのでしょう。実の父親の死ですからね」
天空に架かった橋は、時おり右から左に、無数の光の粒をきらきらと走らせる。まるで、話の続きを促すように。
「けれどアヴィリオンは鎖国を貫いているし、魔王がファルケンシュタイン城を離れるわけにはいかない。だからああやって、本来は孤独を紛らわせるための魔法を、情報収集に使っている。ばらばらなつぶやきの中に、関係者からの有益な証言が混ざっていることを期待してね」
ぼくは兄上に向き直る。
「本当は状況に流されたまま明日を迎え、あなたの火刑を見届けようと思ってました。けれど〈夜の虹〉を見て気が変わりました。母上に先を越されてしまいましたが、ぼくも〈鎖の見る夢〉を用いて、牢獄の鍵を開けるつもりでした」
そして、きっぱりと言う。
「――ぼくからも申し上げます。魔王アルトゥールにお会いになって下さい。そして魔王を説得し、ヴァラスに出向いてもらいましょう。凶器の妖剣は偽物と仰いましたね、魔王になら目くらましが解除できるでしょう。それが真相に近づく道だろうと思います」
「そっか。ありがとう」
「別にぼくは好意で言ってるわけではないので、御礼には及びません。あなたが死刑囚であることには変わりないんですから」
「うん。えっと、それで、おれを逃がしたことになったら、おまえやロスヴィーダさまに迷惑かかるんじゃないかな」
「ご心配なく。明朝、この惨状を発見されても、ぼくは口をつぐみます。母上にも黙っていていただきます。地滑りが起こって岩山が崩れ、それに乗じてレオンハルト兄上が逃亡したのだと発表し、追っ手を差しむけます。捕まったなら、今度こそ処刑しますよ」
にべもなく言うと兄上は目を丸くした。母上が険しい顔になる。
ミレーヌケティは相変わらず敵意むき出しでぼくを睨んでいたが、すぐに兄上の手をぐいと引いた。
「行きましょ。レオンハルト。アヴィリオンは遠いわ。それに早く宮殿から離れないと、夜が明けてしまう」
「う、ん。そうだな」
兄上は歩き出そうとして、すぐに立ち止まり、がっくりと肩を落とした。
「……だめだぁ」
「なによ。どうしたのよ」
「腹減って歩けない」
「我慢しなさいよっ。命がかかってるのよ」
「……それは空腹でしょう。囚人に支給される食事は制限されてますからね」
ぼくはつかつかと兄上に近づき、持ってきた食料入りの手籠を差し出した。
「どうぞ、お持ち下さい。もう冷えてますけど」
包んだ布の間から覗くパンや、肉と野菜の盛り合わせに、兄上は目を輝かせた。
「うっわー。気が利くなぁ」
「アヴィリオンに着く前に野垂れ死にされるのも、つまらないですからね」
「あのさあ、マティアス」
「何ですか」
「おまえ、損な性分だな。アルトゥール兄上と似てるかも」
「大きなお世話です」
右手に手籠を抱え、左手で小さな女の子の手を握った姿は、とても脱獄した死刑囚には見えない。特に急ぐ様子も見せず、むしろ夜の散歩を楽しむかのように、兄上は歩き出した。
宮殿の回りには、広大な人造湖がしつらえてある。もとは防御用の堀だったのだが、攻めてくるほどの敵がいなくなった昨今は、色とりどりの魚を放し、石造りの橋を何本も渡して、すっかり観賞用になっている。先刻の〈水龍の飛翔〉は、この湖に集う水の元素霊を使役したのだ。
橋の両端には彫刻が飾られ、香りの強い小花の鉢植えがあしらわれている。兄上はそこで立ち止まって振り向き、ぼくと母上に向かって大きく手を振った。
左手を離されて、気分を害したらしいミレーヌケティの怒鳴り声が聞こえる。兄上は彼女をなだめるために、慌てて小花を二、三本取って渡している。
「呑気だなあ。あの人は、どこまでわかっているのか、いないんだか」
橋の向こうには、街の入り口に通じる道がある。兄上は真っ直ぐは行かず、左に折れた。さすがに近くの街では、兄上の顔を知っているものが多い。アヴィリオンへ行くには、徒歩では何十日かけても無理だから、どこか別の場所で、馬を手に入れるつもりなのだろう。
そんな後ろ姿を、ぼくと母上は小さくなるまで見送っていた。
「あんなのに押しかけられるなんて、魔王に同情します。――じゃ、おやすみなさい」
「マティアス。あなたは」
さっさと部屋に引き返そうとして、母上に呼び止められる。
「いったい何が、望みなのですか。レオンハルトさまがどうなればいいと、思ってるの?」
「別に何も。ほんの少し、兄上の処刑を延ばしたくなっただけですよ」
ぼくは、兄上のようでありたかった。
その場にいるだけで人を魅了し、場を和ませるような明るい雰囲気を、生まれながらに持ち合わせたかった。
――マティアス殿下も、レオンハルト殿下のような、あの容姿、あの性格であったなら、どんなにかよろしかったものを。
そんな無責任な貴族連中の陰口を、どこかでぼくも認めていたんだと思う。
ぼくが兄上のようだったら、戦場に出ることもなく、フィリーネを殺さないでいられたんだろうか。たとえばフィリーネが、あのままぼくの婚約者としてずっと側にいてくれるような選択を、見いだすことが出来たんだろうか。
けれどもぼくは、地道に努力を重ねることしか出来なくて、その努力も、おうおうに空回りしてしまっていて――
〈奇跡の扉〉なんかに成功したくはなかったのに。異界に興味があったわけじゃないし。
ぼくが目指していた魔法は、そう、〈黄昏への道〉だった。この世を去った魂がいる場所へ、通じるという……。だけど。
部屋の前まで戻り、ぼくは大変なことに気づいた。
迂闊にも、鍵をかけ忘れていた。
どうせナオキに、部屋の外に出られるわけがないと、たかをくくっていたせいだ。
「ナオキ? ナオキ!」
いない。
室内に、異界の少年の姿は見あたらなかった。
眠っていると思ったのはふりだったのか、それとも偶然目が覚めてしまったのか。
(どこへ行ったんだ)
宮殿の中を当てもなくうろうろしていれば、夜中とはいえ、誰かに見咎められ、騒ぎになる。そんな様子もないところを見ると。
(つけられたかな)
ナオキがそっとぼくの後をつけて、一部始終を見届けたのだとしたら、おそらくはレオンハルト兄上の後を、追っていったのだろう。それが一番、魔王に会える近道だからだ。
(だったら……そうか、ナオキもレオンハルト兄上と一緒に、アヴィリオンに向かったか。それなら……その方がいい)
魔王になら、ぼくをもとの世界に戻せるかな。ナオキはそう言っていた。
ぼくもそう思った。夜の虹を見たその時に。
「アルトゥール!」
窓から、身を乗り出す。
長い間、夜空を彩っていた光の虹が、そろそろ薄れようとしている。
「あなたがどこまで父上の死に関心を持っているのか、それとも何か関わりがあるのか、ぼくは知らない。本当は誰が犯人なのかもわからない。ぼくかも知れない。あなたかも知れない。他の誰かかも知れない。でもそれは、もうどうでもよくて」
父王殺しの罪に加えて、脱獄と逃亡の罪を負ったレオンハルト兄上と、魔法をかけられて短刀になった妖剣〈誰彼〉と、魔力を吸い取られた妖魔ミレーヌケティと、ぼくの不手際で異界から紛れ込んでしまった少年が、アヴィリオンに向かっています。
「ナオキが元の世界に戻れるよう、ご尽力下さいませんか。さらにお手数ですが、レオンハルト兄上の要請に応えて、ヴァラスまで出向いていただき、現場と凶器を検分していただければ、あるいは……だめだ、うまく言えない」
心の中で、ぼくは付け加える。
薄れゆく夜の虹の、軌跡さえも消える、その瞬間に。
――どうか、心弱いぼくたちの、力になってくれませんか。
「第4の証言 世継ぎの王子マティアス 」にお目通しいただき、ありがとうございます。
えっと。
マティアスくん、いい子じゃね?
ていうか、父王、ひどくね?
マティアスくんに殺されてもおかしくね?
でもマティアスくんは殺ってないぽいよね?
さてさて。ブックマーク・評価・ご感想(魔法による連絡でも可/魔法が使えない方はご面倒ですがログインのうえ、感想欄に「読んでやったぜ!」等ご入力ください)などいただけますと、脳内流星群が狂喜乱舞して飛び交います。
んで次回は、マティアスくんが部屋にかくまってる異世界の少年、ミヤサカ・ナオキの証言をお届けします。
レディGO!




