僕が手にした刃物
――あんたはね、恵まれすぎててわがままなの。それだけよ。
学校へ行かなくなった僕を、姉さんはひとことで、そう切って捨てる。
だけど、専門学校を卒業してすぐに就職して、さっさと一人暮らしが出来ている姉さんにはわからない。
やたら厳格に管理することを、正しいしつけだと思っている父さんや、朝と夜とで言うことが違う、感情的で口やかましい母さんから解放されているんだから。
たしかに、僕の通っている中学は、中高一貫の私立だから受験の心配はないし、校風はおっとりしてて、いじめがはびこっているわけでもない。先生方の質も、ついでに女子の容姿レベルも高い。
僕だってそんなに悪い生徒じゃないと思う。
適当に成績もいいし、適当に皆と話も合わせられる。順番で回ってくるいろんな係も、それなりにこなしている。冗談も下ネタも言う。男子だけで集まって、女子には聞かせられない話もする。クラスでも浮いた存在とかじゃない。
騒がれていた新型感染症も、このところ下火で、みんなの表情がゆるんでいる。
だけど――だからって、学校が楽しいわけじゃない。
ぬるま湯の中でのぼせてるみたいで、つまらない。行きたくない。
きっかけは、ささいなことだった。
バラエティ番組のトークコーナーで、壮年の俳優さんが思い出話をしてたんだ。
――なんかさ、若いころ、何の意味もなくナイフを持ち歩いてた時期があるんだよ。いや、誰かを刺してやろうとか、思ってたわけじゃないよ。ただね、落ち着くんだよね、自分が刃物を持ってると。
僕は妙に感銘を受けた。
彼によれば、当時、人気ドラマの影響で、中高生がバタフライナイフを持つことが流行したらしい。その結果いろんな学校でそのナイフを使った暴力沙汰が蔓延した。
そのドラマは、社会的影響があまりにも強いとかいわれて、終了後、再放送はされてないという。
その時期は、各校の校長先生が生徒を集めて臨時集会を開いて、「私は皆さんを信頼してますが」と前置きして注意を呼びかけたりしたんだそうだ。
でもさ。
本当に信頼してるんならわざわざ注意喚起したりしないんじゃないかな。どうだろう?
……そんなことを思ったとたん、何か、かっこいいナイフが欲しくなったんだ。
中学生には売ってもらえないだろうなと最初は不安だった。けど、偶然見つけた金物屋で簡単に手に入れることができた。それが何だか嬉しくて、ずっと持ち歩いてて、学校にも持っていって――
バタフライナイフって、もともとは武具らしい。刀身は一枚だけど、溝の付いた柄が二分割されていて、刀身を上下から挟み込むように収納する。開く時にはふたつの柄が百八十度回転するのがとてもかっこいい。
刃物を持ってるだけで落ち着くというのは本当だ。
僕はしばらくの間、つまらないはずの学校にも、楽しく行けたんだから。
だけども刃物はやっぱり危険だ。
持っているとつい、人に向けたくなる。
たとえ刺す気はなくっても、そうやって自分を守りたくなるんだ。
実感したのは、隣の席の如月俊と、どうでもいい話題で口論になったときだ。
……本当に、どうでもいいことだった。
「ミステリに名探偵って、いらなくね? なんか、ダサいかんじする」
ぼそっと僕が言った言葉が、如月の、押しちゃいけないスイッチを押したらしくて。
「名探偵はダサくなんかないっ!」
ばん、と如月は机を叩いて立ち上がった。その剣幕に、僕はびっくりした。
だって如月は、普段はもの静かな優等生だ。めちゃくちゃ頭が切れるヤツで、小柄で童顔なのに何か冷たい感じなのと、銀縁眼鏡がとっつきにくい印象で、話しかけにくくてみんな遠巻きにしてる、みたいな。
だから僕も、自分からは話しかけないようにしてた。頭のいいヤツにバカ話は振りにくい、ってのがあったんだけど、今思えば、あれだってとんでもないバカ話だったんだろうな。
「あのな宮坂。ミステリ、それも本格ミステリというのは、このうえなく洗練された形態の物語なんだよ!」
如月はすごく真剣だった。こんなに怒ってる如月は、初めて見た。
「ミステリという『物語』は名探偵という『装置』があってこそ、このうえない彩りを加味される。もちろん名探偵なしでもストーリーは完結するけれど、謎解きのカタルシスに於いて、その『装置』があるとないとでは大違いなんだ。名探偵不要論を軽々しく口にするな!」
如月はとても弁の立つやつだ、ってことはよくわかった。
そんでもって、どうもこいつはミステリオタクらしい、ってことも。
つまり、僕は徹底的に、言い負かされた。
腹が立った。
とても。
なんで「どうでもいい話題」でこんな思いをしなきゃならないんだ。
僕はただ雑談のつもりで言っただけで、名探偵の存在の有無がどうのなんて議論をしたかったわけじゃないし、如月と論争するつもりも、これっぽっちもなかったのに。
けれど、その気持ちをどう説明していいかわからなくなって。
頭の中が真っ白になって。
バタフライナイフを、取り出した。
クラスの女子たちの耳障りな悲鳴が響いた。
先生方が駆けつけたときには、僕はあいつの鼻先に、切っ先をぴたりと突きつけていた。
大騒ぎになって、家にも連絡が行った。
両親はひどく嘆き、怒り、僕を連れて如月の家に謝りに行った。
「俊くんに怪我はなかったことだし、向こうのご両親は警察沙汰にはしないと仰ってくださった。感謝しなさい」
そう父さんは言ったけれど。
どうしてこんなに大ごとになるんだか、理解できなかった。
だって僕は相手を黙らせて、自分を守ろうとしただけなのに。
そして僕は、学校に行くのをやめた。
僕の部屋にはテレビもある。パソコンもある。ゲーム機は勉強のさまたげになるからって取り上げられちゃったけど、パソコンでもスマホでもいろんなゲームはできる。暇つぶしに不自由はしない。
僕は、古いタイプのテンプレートなRPGが好きだ。お手軽に勇者気分になれて逃避には最適だ。クソゲーも多いけど、そこはそれ。
同じ理由で、ライトノベルのファンタジーものや、如月ほどじゃないけどミステリの漫画とかも好きだから、僕の本棚はそんなのばかりだ。
お約束の中に身を浸してるとほっとする。現実の割り切れなさを忘れられる。
だけど、そんなことをつい、如月に言ってしまったのが間違いだったのかな。その流れであいつにバタフライナイフを突きつける羽目になったんだから。
あいつが怒ったのは、名探偵がどうのこうのより、それまでの、僕のいいかげんな言い方が癇にさわったからだと思う。
「宮坂さぁ、ミステリもそうだけど、ゲームやラノベもなめんなよ。才能が集結してる世界なんだから甘く見てると痛い目に合うぞ」
如月は僕が持っているゲームやラノベを全部熟知してた。けっこう熱心にやりこんでるはずの僕も、世界観の把握と知識量ではとてもかなわなかった。
思うに如月は、きっちりとゲームをプレイしたり、小説をていねいに読み込んでるんだと思う。
オタクの鑑だ。オタクじゃない僕が、オタクと口論して勝てるわけがない。
しかも、加害者は僕なのに、両親と僕を前にして、申し訳なさそうに頭を下げたのは如月のほうだった。
(……すみませんでした。ミステリの話ができるのがうれしくて調子に乗って。宮坂くんにうっとおしい思いをさせてしまって)
なんだよ、それ。
僕だけが幼稚な空回りして勝手にキレたのが浮き彫りじゃん。
ああもう、むかつくったら。
「おまえが悪いのに、俊くんのほうが謝ってくれただろう? 礼儀正しいいい子じゃないか。学校でもういちどちゃんと謝罪して、これからは仲良くしてもらうんだぞ?」
そう言う父さんに、僕はそっぽを向いた。
「ああうん、そうだね、分の悪い喧嘩をした僕が悪かった。相手に勝てる話題を選ぶべきだったよね」
父さんは無言で僕に平手打ちをくらわせた。
まったく。
むかつきすぎて気分が悪い。
毎日毎日、登校拒否を責め立てる母さんの小言を聞いているうちに、僕は本当に体に不調が出るようになった。
よく雑誌とかで、学校や会社に行きたくないと思うと、実際に具合が悪くなったりする人の話が載ってて、都合のいい病気だなぁと思ってたけど。
……まさか自分がそうなるとは思わなかった。
病状はさまざまで、朝起きるなり、割れるように頭が痛くなったり、お腹が痛くて脂汗が出たり、四十度くらいの高熱が出たりする。でもそれは、ベッドで体を丸めてひたすら時間が経つのを待っていれば、授業開始時刻を一分過ぎた頃、ぴたりと治るんだ。
登校拒否を始めた僕を、父さんと母さんはカウンセラーのところへ連れて行った。
だけどそんなことで何とかなるはずがない。たちが悪いと自分でも思うけれど、僕はよその大人の前では、いい子のふりができる。
カウンセラーの前では、笑顔ではきはきと挨拶し、「明日からはちゃんと学校に行きますから」と言えば、向こうもプロだから不審は感じているにしても、たいてい解放してくれる。
もちろん、学校には行かない。
次の日もその次の日も、ベッドで丸まったままだ。
三回ばかりそれを繰り返して、父さんと母さんは、ようやく僕の手ごわさに気づいたようだった。
「もう知らん。そんなに学校に行きたくないなら、一生部屋から出るな!」
父さんに往復ビンタをくらってからは、僕は開き直って、本格的に引きこもるようになった。




