異世界に、来たかったくせに
〈奇跡の扉〉は、異界への通路を創る、今では禁断とされている魔法だ。
分類だけならば風の魔法の一種なのだが、とても成功率が低いらしく、母上の部屋から持ち出した文献をひもといても、成功例はほんの数件となっている。それも最後に成功したのさえ、かなり古い時代の、もう名前さえも伝わっていない魔法使いらしい。
さすがにぼくは、〈奇跡の扉〉を発現させるつもりはなかった。
もっと簡単な風の魔法、〈瞬きの旅〉を練習していたところだったのだ。といっても独学のかなしさで、それだって失敗つづきだったのに。
失敗した呪文の旋律が、偶然〈奇跡の扉〉に合致していたのか、集まった風の元素霊が、たまたま選りすぐりの強力なものたちだったのか、理由はよくわからない。
ぼくの部屋にほんの数秒、大きな扉が出現し――ひとりの少年を、ころりと吐き出してから消えた事実は、ぼくだって未だに信じられない。
異界から紛れ込んできたのは、髪も目も真っ黒な男の子だった。
着ている服も、ル・ガルダでは見かけない変わった布地だった。上着は首が詰まってて、チュニックというには窮屈そうだし、ズボンは細綾織りの、紺色の綿布で仕立てられてて、丈夫なんだろうけども履き心地は良さそうには見えない。
ぼくをまじまじと眺め、部屋を見回して首をひねる彼を、取りあえずは椅子に座らせ、説明を試みた。たぶん納得はしてもらえまいと思いながら。
しかし、ミカサカ・ナオキと名乗った彼は、ぼくの魔法によって異界に移動したのだということを、こちらが呆れるくらいにあっさりと受け入れたのだった。
「へぇー。ここって異世界かぁ。なんかラノベとかゲームとかでよくあるカンジだよね。ちょうどいいや、僕、まだ日本に戻りたくなかったし」
むしろ彼は、自分の所属する世界から隔離されたことを、楽しんでいるようでさえあった。
ここはル・ガルダという大陸の、ヴァラス帝国にある宮殿の一室で、ぼくは世継ぎの王子マティアス・フォン・ディングフェルダーだと言ったら、すごいすごいを連発して目を輝かせた。
「中世あたりのドイツに似てる。っていうか、ドイツがここに似てたから、うまく通路ができたのかもね」
「……?」
「僕、姉さんとドイツを旅行中だったんだ。ロマンチック街道十日間のツアー。ちょうど最終日、ノイシュバンシュタイン城を観光してて」
「ノイシュバンシュタイン城」
「ルートヴィヒ2世っていうオタクっぽい王様が作った城だよ。国庫傾けるくらい築城に予算つぎ込んで、狂人のレッテル貼られて幽閉されて死んじゃったんだって」
「ふぅん」
「そのお城を観光しててさ、もう旅も終わりだな、日本に帰りたくないな、つまんない毎日に戻るのやだな、このまま違う世界に行けたらなって思ったらすごい暗い気分になって、姉さんとも離れて一人で城内を歩いてたんだけど。まさか広間にあった絵にいきなり扉が出来て、そこに吸い込まれるとは思わなかったなぁ」
早口でまくし立てられる内容を理解するのは非常に困難だったが、ナオキが彼の世界での自分を取り巻く環境に、不満と鬱屈を持っていたらしいことだけは推察できた。
そういえば、数少ない成功例をしるした文献に、書いてあったような気がする。
その世界のありようになじめず、別の世界を指向する〈場〉に、〈奇跡の扉〉は一時的な通路を開く。
そしてその通路に気づき、この世界に移動可能なのも、やはり現実から目を背け、別世界に憧れる人間だけなのだと。
だからもしもナオキが、自分の世界に満足している少年であったなら、〈奇跡の扉〉には気づかず、無事に観光旅行とやらを終えていたに違いない。
「あれ、ちょっと待った。言葉が問題なくわかるんだけど、君、もしかして日本語しゃべってる? わけないよな。なんでだろ」
「う……ん。〈奇跡の扉〉の副作用だろうな」
「げ。なにそれ」
「いや、これはかえって都合がいいよ。移動に関する術も言葉に関する術も、風の魔法の範疇なんだけど、風の元素霊って気まぐれでね。予定以外の効果を起こしたがる習性を持ってるらしい。たとえば今のとは反対に、移動系の魔法を使った反動で、言語による意思の疎通に問題が起きることもあるんだよ」
「へえ。便利なんだか不便なんだかよくわからないや、魔法って」
最初は、ナオキはひどくはしゃいでいた。ぼくが十五だといったら、大人っぽいから同い年には見えないと笑い、この大陸のことや国々のことを聞きたがった。
「あのさ、この世界に、魔王っている?」
「いるよ」
「伝説の剣って、ある?」
「――あるよ」
「じゃあマティアスは、伝説の剣で魔王を倒すんだよな? これから冒険の旅に出たりする予定なんだろ?」
「さあ? それはどうかな。……どうして?」
「だって世継ぎの王子様って、たいてい勇者なんだよ。世界を救うために魔王を倒さなきゃいけないんだ」
「ぼくはでも、伝説の剣のあるじじゃないから……」
「ええっ。じゃあ、誰が魔王を倒しに行くんだ?」
ナオキは、彼の世界で盛んに流通している遊戯盤らしきものや、その元になった物語について、とても詳しいようだった。彼は夢中になって、知りえている物語の内容と、この世界との相似を語った。
初めのうちは物珍しく聞いていたぼくだったが、すぐに飽きてしまった。
それは箱庭の中で行われる人形同士の戦争に似て、役割分担がなされ、筋書きや結末も約束されているような印象だったからだ。
だんだんにうわの空になってくるぼくのあいづちは、ナオキにも伝染した。
ナオキがつまらなそうに窓の下を見下ろしたときだった。
ちょうどレオンハルト兄上が、妖剣〈誰彼〉を携えて、中庭を足早に横切っていった。その後を、半白髪で小太りの、中年の男が追いかけている。
「お願いしますよ殿下。後生ですから。三日、いいえ、一日だけでも結構です。〈誰彼〉を、貸してくださいよぉ」
「だめだってば。ミケに怒られるよ」
「丁重に取り扱いますよ。眺めるだけですから。ちゃんとお返ししますから。それに殿下、こう申してはなんですが、ご使用になるご予定はないのでございましょう?」
「やー。まーな。そうなんだけどさ」
中年男は、骨董屋の店主のようだった。街歩きが好きなレオンハルト兄上の、あちこちにいる知り合いの一人らしい。
「ここだけの話ですが、殿下には意中の女性などは、いらっしゃいませぬか? そしてその女性は、殿下のお気持ちに気づいているのやらいないのやら、さして進展があるわけでもなく、といったことは?」
「うっ。なんでわかるんだよ」
「勘でございますよ。お若い殿下のことですから、そういうこともあろうかと。実は私めの店に、孔雀翡翠の首飾りが入荷しましてな」
「く、孔雀翡翠って、あれか、恋愛成就のお守り」
「はい。気難しい地の元素霊がもっとも好む鉱物で、現在では採取不可能な珍しいものです。孔雀翡翠を使用した装飾品を贈れば、その女性はたちまち贈り主に首ったけ。二人の愛は火蜥蜴の炎よりも激しく燃え上がり、いかなる艱難辛苦を乗り越えても固く結ばれると言われております。〈誰彼〉をお貸しいただければ、それを進呈させていただこうかと……思っておりましたが」
「そ、そうなのか?」
「まあしかし、あまりしつこくご無理を申し上げるのも……残念でございますなぁ、今回はあきらめるとしましょうかの。私めはこの辺で引き取らせていただきます。あーやれやれ」
「うわぁ待てっ。そう早まるなよ。もっとゆっくりしていけよ。あ、いや、帰るんなら、おれもおまえの店に行く。もう少し、いろいろ話そうよ。なっなっ」
どうも、兄上よりもずっと、骨董品屋の店主の方が役者が上のようだった。商談は成立するだろうなと思いながら見ていると、ナオキはちらりとぼくに視線を走らせてから、呟いた。
「ふーん。伝説の剣を持ってるのは、君のお兄さんのほうなんだ。……かっこいい人だね、お兄さん。見るからに王子さまって感じで」
君とは、大違いだ。
さすがにそこまでは言わなかったが、ぼくは小さいときから言外の声を聞き取ることに長けている。
父上も母上も異母兄弟たちも貴族連中も、一応は呑み込んだ言葉の奥に、似たような感想を持っていることを知っている。
――どうしてマティアスは、あんなにフラウエンロープ伯爵に似てしまったのやら。母親似なら、さぞやみばの良い王子であろうし、まだしも私に似ていたら可愛げもあるものを。
――多くは望みませんけれども、せめて、レオンハルトさまの半分でも、明るい人なつこい子だったら、どんなにか……。
――こんなにたくさんいる兄弟姉妹の中で、世継ぎの王子が一番不器量だよな。変なの。
――マティアス殿下は、王妃さまに少しも似ておられませんなぁ。王妃さまも寵妃の方々もみなお美しく、御子たちもまた、見目良い殿下がたばかりでいらっしゃるというのに。ことにレオンハルト殿下と並ぶと、見劣りがしすぎて、お気の毒なほどだ。
ぼくは素早くカーテンを引いた。ナオキの腕を掴んで、窓から遠ざける。
「言っておくけど、この部屋の外には出るなよ。誰かに姿を見られてもだめだ。食べ物とかは、侍女に多めに運ばせて部屋の外に置かせるけど、そのときには大声を出して気づかれないようにね。異界の人間が来てるってことを、知られたくないんだ」
それまでは、この世界に来たことを、それこそちょっと長引いた外国旅行のつもりでいたらしいナオキは、やっと少し怯えた顔を見せた。
「なんか、やだな……。つまんないし。……そんなのなら、もういい。僕、ドイツに戻るよ。姉さんと合流して、日本に帰る」
「簡単にいうなよ。〈奇跡の扉〉は、偶然に成功したんだ」
「一回出来たんだから、また出来るって! やってくれよ早く」
ナオキの声に、かすかに絶望が混じりだした。
「ああそうだ、どうせなら直接、日本の僕の家に帰してくれよ。住所はね、東京都武蔵野市の……、ん、いや、井の頭公園の近くならいいや、歩けるから。ね、出来るよね? 僕をもとの世界に戻せるんだろう?」
ぼくはゆっくりと首を横に振る。
さてこのお荷物をどうしようかと思いながら。真っ青になっているナオキに同情する気はさらさらない。
異世界に来たかったくせに。
何が、もう帰してくれだ。ふざけるな。
ぼくは、自分の部屋で〈瞬きの旅〉を使おうとしていたことを、誰にも知られたくなかった。ましてや〈奇跡の扉〉に成功してしまったことも、異界の少年をかくまっていることも、伏せておく必要があった。
こんなことは世継ぎの王子にあるまじきことだ。大問題だ。
ぼくにはぼくの、事情がある。
六日前のあの日、母上がぼくの部屋の前に来たときには、ひやりとさせられた。
あの日は特に、ナオキは気が立っていた。帰してくれ帰してくれといつも以上にうるさく繰り返していた。
ずっとこの部屋から一歩も出さなかったし、ぼくも外出は控えていたから顔をつき合わせっぱなしで、鬱憤もたまっていたんだと思う。
あのとき、ナオキが発した声はかなり大きくて、はっきりと母上に聞かれてしまった。
母上は、正体不明の男の子をぼくが幽閉していると確信したはずだ。
まさか異界の少年だとは思わないにしても。
母上は、誰かに相談したりするだろうか。
ぼくの不利になるようなことをする人だとは思いたくないけど――やっぱり、わからない。
次期国王にはレオンハルト兄上の方がふさわしいとか、考えてしまうような母親だし。
「夜の……虹……? 今、魔王って、言った?」
すっかりやつれて、言葉少なになったナオキが、やっと顔を上げて反応を示した。
「そうだよ。アヴィリオンの魔王、アルトゥール」
夜の虹が放つ白く眩しい光に、ナオキは目を細める。
「魔王か……。魔王だったら、僕をもとの世界に帰せるかなぁ……?」
独りごとのように言う。
もうナオキには取り合わず、ぼくは窓を開ける。
久しぶりの外気が、冷たく頬を刺す。
澱んで濁った室内の空気は、またたくまに入れ替わる。
聞こえますか? アルトゥール。
あなたはどうして物好きにも、ヴァラスの人々のつぶやきを集めたがるんでしょうか。
ぼくはたぶん、その理由を知っています。
ねえ。
アルトゥール兄上?




