宙ぶらりん
「店と……お父さんとお母さんを投げ出す様な事になって本当に私…なんて言ったらいいのか。ごめんなさい。」
「どうしてよりによってザールなんてそんな遠い所に……。」
「それは言ってもしょうがないことだよ。あの紅茶をもらった時に言ってたじゃないか?クラリスは近いうちにザールに嫁ぐ事になるかもしれないなんて。私だってまさかこんなに早いだなんて思っても見なかったけどさ。」
「だからね、まだお嫁に行くと決まった訳じゃないのよ?」
クラリスはこうして二人と話をしていて自分の立場がひどく曖昧なことにようやく気が付いた。
ジャンにはザールに一緒に来てほしいとも好きだとも言われたが、結婚の約束を交わしたわけではなかった。それどころか恋人になったのかどうかもよく分からない…。
「クラリス?よく分からないんだが、お前はあの男と結婚を約束してザールに一緒に行くんじゃないんだな?」
「うん。……結婚の約束はしてない。」
叔父は渋い顔をして腕組みをしてしまった。温め直した夕食を手に戻ってきた叔母も困惑している。
「ジャンは…トロメリンでの仕事が終わったからあと数日したらザールに帰らないといけないんだって。それ聞いたら、私このまま離れちゃうのが嫌で…。それで一緒に来ないかって言われたからつい頷いちゃったのよ。」
「クラリス……お前こんな大事なことをよく考えもせずに決めたのか?」
「ちょっとあんた!クラリスだって悩んでるんだからさっき頭を下げたんだろうに、そんな言い方はないだろう?」
クラリスは目の前の湯気の上がる皿を見つめながらぽつりと呟いた。
「いいの、お母さん。私が何も考えてなかったのはその通りだわ。お父さん…あと二日──二日で私に何か一つでいいから料理を教えてくれない?」
「料理?どうしたんだ?急に…」
「ザールで一人で暮らすことになった時、何か作れた方がいいでしょ?」
「……それはそうだろうが。無理して作ることはない、慣れるまでは外で食べた方がいいさ。」
「そうするつもりだけど。この店までは食べに来れないから。」
「……」
「クラリス?一応言っておくけどザールには1日あれば行ける距離なんだからね?二度と会えない訳じゃないんだよ?」
「この店には休みなんてないじゃない?私だって向こうに行ってからどんな生活を送るのか分からないんだから。当分は帰ってこれないと思ってた方がいいのよ。だから…お願い。」
叔父は大げさにため息をつくと、大きく二つ頷いた。
「いいだろう。あと二日だな?クラリスとお前が持ち場を交代するといい。空いた時間に教えられることは全部教えるよ。」
「……お父さん。ありがとう。」
「本当に大丈夫なのかい?ジャンに言ってもう少し待ってもらった方がいいんじゃないのかい?」
クラリスは叔母の言葉に耳を傾けながら目の前の料理に手を伸ばした。叔母が朝から仕込んでいたチキンと豆のトマト煮込みが先程からいい匂いをさせてクラリスを待っていたからだ。
「お母さんの料理はまた今度帰ってきた時に教わることにするわ。それに私あっちから手紙も書くし。」
叔母は叔父と目を見合わせるとやれやれと言うように顔を横に振った。
「ザールに行くってのはお前の中ではもう決まった事なんだね?」
クラリスはスプーンで豆をすくいながら頷いた。
「それじゃあ、明日から忙しくなるよ?何しろ時間が無いんだからね?店を開ける前に少しでも準備をしとかないと……。」
フォークでほろほろになったチキンを骨から外し、パンにのせたままクラリスは首を傾げた。
「お母さん?準備って言っても…。持って行く物なんてそんなにないわよ?」
「馬鹿だねえ!だからだよ?あんたまさかザールにそんな服で行くつもりじゃないだろうね?今まで私達は旅どころか街から出たこともないんだからさ。一から全部用意しないことには始まらないじゃないか?」
「お前…。」
妙に張り切り出した叔母を見ながら叔父は確かにそうかもしれないなどと呟きながら顎をかいている。
「お母さん、いいよ、そんな事。」
「大丈夫だから任せときな。これまでクラリスが店で働いてきた分の賃金だと思えば、これでもまだ足りないくらいだよ?」
「だったら本当に必要なものだけにして?ね?」
「分かってるよ!全くいつからお前はそんな倹約家になったんだい?やだねぇ、変なとこばっかり私に似ちゃって。」
叔母は何処からかペンと紙を持って来ると、クラリスの斜め前のいつもの席に腰掛けて声に出して確認をしながら何かを書き始めた。




