もどかしい思い
「クラリスにはザールではまずは勉強して欲しいんだ。」
「勉強?」
もう一度椅子に座り直すと二人は気恥しそうにお互い視線を逸らしながら話を続けた。
「ザール語と、財務について少し。」
「財務って?あの…帳簿の計算とかそういうの?」
「まぁ大まかに言えばそんな感じかな?でも大丈夫、金物屋のご主人に指導を頼むつもりだから。あの人は騎士団でも財務関係を兼務していたはずだし。」
「セブおじさんがそんなことまでしてたの?それにしても、ジャン。貴方一体どれだけ先の事まで考えてるの?」
空になったマグカップを覗き込んでいたジャンはクラリスの言葉に苦笑いをした。
「先の事まで細かく考えてるのは俺じゃない。全部マルセルだ。」
「あー。」
ジャンは懐から時計を取り出し時間を確認すると眉を顰めた。
「クラリス、もうそろそろ君も戻らないといけないだろ?こんな時間まで付き合わせてしまって申し訳ない。」
ジャンは時計をポケットに入れながら静かに立ち上がった。クラリスもそれに合わせて立ち上がる。
「謝らないで。私も話が出来て嬉しかった。」
「また…明日にでも来るよ。」
「うん、分かった。待ってる。」
ジャンはまだ何か言いたい事がある様で少しだけ迷っていたが、大きくため息をつくと下を向いたままで思いを言葉にした。
「クラリス。俺は……君の事が好きだ。」
ジャンはクラリスの反応を見ることを恐れるかのように背を向けると、返事も聞かずに店を出て行こうとした。
「ジャン!待って!」
ぼーっとしていた頭を振りながら、クラリスは必死にジャンを呼び止めた。
扉に手をかけたまま、ジャンも身動きをせずに固まっている。
「私も……ジャンの事好き。」
ジャンは扉に掛けていた手を離し、ぎゅっと握り拳を作るとゆっくりとクラリスの方を振り返り微笑んだ。
「良かった。……また明日。おやすみ。」
「おやすみ……なさい……。」
閉まる扉を見届けると、窓際に寄って遠ざかるジャンの姿を目で追った。月のない夜だからすぐにジャンの姿は闇に紛れて見えなくなってしまう。
──ジャンは……私の事が…好き…?本当に?でも確かにそう言ってくれたよね、夢じゃなくて?
「クラリス?随分遅くまで話し込んでたみたいだったけど…?」
「お母さん!……ごめんなさい、先に休んでて良かったのに。」
「それはいいのよ?今帰って行ったの、あの人なの?ジャンとか言う。」
クラリスはぼーっとした頭で店の入り口に鍵をかけると叔母の方に向かって頷いた。
「お父さんにも話しておきたいことがあるんだけど。……まだ起きてる?」
「当たり前じゃない?座ったままで新聞の同じページを何度も読み直してたわよ?」
クラリスは先に立って階段を登る叔母を見上げながら苦笑した。狭い家の階下で娘が男と遅くまで話し込んでいるのを叔父は平気で待っては居られなかったのだろう。叔母にしたってそうだ。扉の閉まる音を聞いていたからこそこのタイミングで様子を見に降りて来たに違いなかった。
狭い階段を登ると机の上に広げた新聞の上に肘をついた姿勢の叔父が目に入った。
「お父さん…ごめんね?遅くまで。」
「……あぁ。まぁ、それはいい。」
クラリスは叔母が椅子に座るのを見届けると、自分はその場で立ったまま二人に向かって頭を下げた。
「いきなりの事で何て言ったらいいか分からないんだけど。私…ザールに行く事にしたの。」
「え?」
「ザール?いつ?どのくらい行くんだ?」
「早ければ2,3日後には出発する。期間は…よく分からないけど多分、ずっと。」
「ずっとって、クラリスまさか……」
「男か?男について行くっていうなら何か一言くらい俺たちにも挨拶があっていいんじゃないか?」
「まだ…そんなんじゃないのよ?ほら、その…婚約とか結婚とか、そういう話じゃないから。」
「それじゃあ一体何のためにわざわざザールまで行くのよ?」
「……ザールに行って……仕事の手伝いをするの。ほら、セブおじさんと同じよ?セブおじさんにも色々教えて貰うことになるみたいだけど。」
「クラリス……」
「どういうことなんだ?お前、その男に騙されてないだろうな?」
「違うから!ちゃんと話を聞いて…私が行くって決めたの!」
叔母は叔父に目配せをするとクラリスにも座るように促した。
「ひとまずお腹が減っただろ?ご飯、温めるね?」
「こんな時にお前は…何を呑気なことを!」
キッチンへと振り向いた叔母がそっと目元を拭うのが目に入ると、叔父は怒りの言葉をグッと飲み込んだ。




