始まってもいない
ジャンと向かい合って話をするのはこれがまだ二回目のはずだった。クラリスはジャンが何を考えてこんな話をし始めたのかがよく分からなかった。
「セブおじさんも引っ越すって聞いたわ。金物屋も畳むんだって。」
ジャンは黙って頷いた。
「あの人との交渉がようやく成立したからね。本当はロベールだけがトロメリンに来る予定だったんだ。それなのに俺がザールに帰ってみたらマルセルまで居なくなってた。だから慌てて戻って来たんだ。」
「……そういう事だったのね。」
「俺も2,3日したらザールに戻らないといけない。」
「え…?」
クラリスは反射的にジャンの顔を見上げた。ジャンもまたクラリスの方をじっと見つめている。
「戻って来たばかりなのに?」
「……」
「次はいつクロゼに戻って来るの?」
「……俺のトロメリンでの仕事は…終わった。」
クラリスは目の前が真っ暗になった気がした。終わった──。確かにジャンは今そう言ったのだ。
「まだ……始まってもいないのに?」
「クラリス?」
慌ててジャンから目をそらすと頬を涙が伝って落ちた。指でぬぐっても後から後から溢れ出る涙は止まらない。
ジャンは身を乗り出すと涙を拭うクラリスの手を優しく自分の手で包み込んだ。
「ごめん、言葉が足りなかったみたいだ。」
ジャンは右手の甲でクラリスの涙をそっと拭うと、そのまま再びクラリスの手を握った。
「俺と一緒に…ザールに来ないか?」
クラリスはジャンの温かい手を頬に感じながら夢を見ているのではないかと瞬間的に考え、はたと我に返った。
「え?」
「……店の事も言葉の事も、色々と不安に思う事があると思う。でも……俺達には君が必要なんだ。」
クラリスは涙も引っ込む思いでジャンを見上げた。
「俺達?」
「その……マルセルも俺も……面倒な計算が苦手で……トロメリン語もまだまだだし…。」
ジャンはクラリスの手を握ったままで視線を逸らすと恥ずかしそうに呟いた。
──耳まで赤くなってる?どういう事?計算が出来ないことが恥ずかしいの?それとも……。
「ジャン?計算やトロメリン語のできる人なら私よりももっと他にいるはずよ?」
「それは…そうかも知れないけど。」
「……」
ジャンはクラリスの手を見つめながら小さな声で呟いた。
「……君以外考えられないんだ。」
「行く!行きます、ザールに!」
クラリスが勢いよく立ち上がると、後ろで椅子が大きな音を立てて倒れた。
驚いて思わず目を閉じたクラリスの腕が軽く引かれ、そのままジャンの硬い胸に抱き寄せられた。
「良かった!」
「!?」
「君をここに残して行く事だけが心残りだったんだよ。まだ何も始まってないのに…。」
「ジャン……」
クラリスはジャンの胸にもたれかかったまま、恐る恐る手を伸ばし背中にそっと回した。
「私の中ではとっくに始まってるのよ?」
「でも、まだまだこれからだ。」
「……」
「ずっと、君と話がしたいと思っていた。でも出来なかった。」
「……そういう風には見えなかったけど?いつも逃げてたじゃない?」
「時間がなかったんだよ。学園にも金物屋にも通わないといけなかったし。それ以外にもいろいろと…。」
クラリスは自分の鼓動が早くなるのを感じた。そうだった。学園……ジャンは貴族の通う学園に行っているのだった。
「ジャンは…トロメリンの学園に通ってるの?」
「先週までは通ってた。もう辞めたけどね。」
「……貴族なの?」
「一応そうなるのかな?……爵位はある。でも騎士爵と言って、俺の代だけの爵位だよ?」
クラリスはますます早鐘を打つ心臓をうるさく感じながら目を伏せた。
「そんな訳ないじゃない?その若さで騎士爵を貰えるだなんて…。」
「マルセルの命を救った事があるんだよ、二回ほど。そのおかげかな。」
「……命を?……なるほど。」
ジャンはようやくクラリスを抱き締めていた腕を緩めると、顔が見えるように覗き込んだ。
「他にも何か気になってることがある?」
「あ…。私ザールに行ったら何をすればいいの?仕事は?」
「仕事?食堂の仕事を続けたいの?」
「そうじゃなくて。私今まで言ってなかったかもしれないけど、料理人の娘なのに料理は全然ダメなの…。」
「そう……だったんだ?」
クラリスはジャンの視線を避けるように俯くとそっと身体を離した。
「……呆れた?」
「ううん。仕事のことはしばらくは考えなくていいよ。他にやってもらわないといけないことがあるからね。」




