〈3〉
俺にとって、まさに運命だと言える朝子さんとの出会いから数日が経過した。
心境の変化というのは突然やってくるもので、最近の俺は目覚めがよく、バイト前にきちんと朝食を食べるようになったし、荒れ放題だった部屋も片付けた。今頃きっと窓辺では、新調した若草色のカーテンが心地いい風を受けて、さわさわと揺れていることだろう。そして今日はバイトが休みなので、久しぶりにある場所へ行ってきた。
「ありがとうございました~」
深々と礼をする美容師に見送られ、俺は店を後にする。そう、荒れ放題の部屋が片付いたなら、次にやることは伸び放題の髪をどうにかすることだった。肩に届きそうなほど伸びていた天パは、その癖を活かしたミディアムマッシュという髪型になり、担当曰く「見違えましたよ~!」とのこと。
イラストを描く上で一時期女性のファッションを勉強していた俺だが、男のおしゃれに関してはてんで無頓着のため、すれ違う同じ髪型の人を見かけては、なるほどこれがミディアムマッシュだったのか……などと感心していた。
「首がすーすーする……」
短く刈られたうなじに触れながらショーウィンドウに映る新しい自分を確認する。見慣れないその姿に自信よりも不安が胸に広がっていくのがわかった。
「大丈夫かな……変だと思われないだろうか」
そう思ったのはもちろん、そもそも髪を切ろうと思い立った理由が朝子さんだったからだ。あの晩の翌朝、朝子さんは俺の家へ改めて引っ越しの挨拶に来てくれたらしいのだが、徹夜で絵を描いていた俺はその頃夢の中に浸っており……それから数日、彼女の姿を見かけていない。
もちろんお向かいに住んでいるからといって、そんな頻繁に交流する機会があるわけないのだが、家に出入りするたび俺の視線は無意識にアパートへ向けられていた。
我ながら重症だ。
これが例のおまじないによるものなのか、ただ単に俺の人生初めての一目惚れだったのかはまだわからない。——わからないからこそ、俺はもう一度朝子さんに会いたいと思っていた。
『あたくし……魔女なんです。この町にかけられた魔法を回収に来たんですよ』
「ってことはきっと、日中は外にいるんだろうな」
おまじないの回収という発言の意図はよくわからなかったが、香りが発生する場所は必ず外にあるというのが噂の基本だ。いつもなら用事が済んだらとっとと部屋に閉じこもるところけど、今日はもう少しだけ遠回りしてもいいかなと思い、俺の足は家の反対方向へ踏み出した。
*
「……朝子さん、何してるんですか」
想い人の姿は存外すぐに見つかった。土曜日午後の駅前通りという、七留咲市で最も人が集まると言っても過言ではない場所に、飛びぬけて存在感のある彼女の姿を見つけた。どうやら魔女が人波に紛れるのは至難の業だと思われる。
今日の朝子さんは真紅の生地に白いポルカドット模様のワンピース姿。ふんわりと風に揺れる軽やかな生地は、ウエストを黒いベルトできゅっと締められ、その華奢さに驚きを隠せない。足元は黒のエナメルパンプス。長時間歩くにはややヒールの高さが心配になる、そんな装いだった。
朝子さんは50年代辺りのファッションが好きなのだろうか。とても可愛くて良いと思います……じゃなくて。問題はただでさえ目立つその姿で文字通りあちこちを嗅ぎまわる彼女の奇行である。
俺はもう一度、今度は少し大きめの声で呼びかける。髪型が違うからか、朝子さんは一瞬誰かわからなそうに首を傾げたものの、すぐに笑顔で応えてくれた。
「まあ、どなたかと思えば夕帰くん!ごきげんよう。髪を切られたんですね」
「はい、今その帰りで。あの、もしかしなくても、おまじない探しですか?」
朝子さんは行き交う人々に対し、まるで犬のように鼻をすんすんと動かしてお目当ての香りを探している。さすがにこの前の俺相手に見せたような至近距離までは詰めていなかったが、それは恐らくそこに香りを見つけられていないだけで、朝子さんなら見知らぬ通行人にも接近していきそうな予感しかしない。止めなくては。
「魔法は人にかけられますから、人の多い場所で探すのがいいと思いまして」
「こんな混雑の中でたったひとつの香りを嗅ぎ分けるのは無理じゃないですか?」
「そんなことありませんよ?あたくし鼻が利くんです」
朝子さんはえっへんと誇らしそうに胸を張る。いやいや、それなら本当に犬みたいじゃないか。と言いかけて慌てて飲み込んだ。
「それに、魔法の香りは特別なものなんです。一度その香りを認識したら他のことを考えられなくなるほど、人を支配します」
「へえ……」
身に覚えがあったが、俺はおまじないを試していないと言ってしまったので知らないふりを続けた。
「朝子さんの説明だとなんだか恐ろしい力のように感じるんですけど」
「それはもちろん、魔女の特別な力が込められていますので」
「魔女の力?」
「あたくしの故郷……魔女の村に古くから伝わる魔法なんです。一年ほど前、何者かが村の掟を破ってそれを外に持ち出してしまったの」
魔女の村という現実離れしたワードが飛び出し困惑したものの、ひとつだけ俺の知っている現実と一致することに気付いた。一年前、というと七留咲市でおまじないの噂が流れ始めた頃だ。
「……ひょっとしてそれが今、七留咲市に?」
「はい。あたくしは大魔女様から魔法の回収を命じられてここへ来ました」
「なるほど、回収ってそういうことか……」
「香りは強いけどすぐに消えてしまうんです。あたくしの鼻はかすかに残ったそれを嗅ぎ分けられるんですよ」
「へ、へえ~……それは凄いですね、朝子さん」
あの晩至近距離まで顔を近付け、素敵な香りがすると言った朝子さんを思い出した俺は、思わず顔を引き攣らせる。どうかバレませんように。
「よくない願いごとに悪用されては困ります。そのためにもはやく使用者を見つけなくてはいけません」
そう言うと朝子さんは裏道の方へ向かって歩き出した。ずんずんと人気のない道を迷いなく進んでいく。日中とはいえそんなところひとりで行っちゃ危ないだろう。俺の足は彼女の背中を追って自然と動いていた。
「朝子さん、待って」
「どうされました?」
「俺にも手伝わせてくれませんか、魔女の仕事」
「夕帰くんがあたくしのお手伝いを?」
「あ、いや、その。何ができるんだよって感じなんですけど。道案内くらいはできるかな~って、俺ずっとこの町に住んでるし。朝子さんは土地勘ないでしょう?」
「…………」
黙ってしまった。目を伏せて、どうしたものかと思案しているようだ。余計なお世話だっただろうか。魔女の仕事だし、男の俺は邪魔になってしまうのかも。——いや、そもそも魔女ってなんなんだ。
とにかく俺は怖いもの知らずか世間知らずか、はたまたその両方の可能性がある朝子さんから、どうにも危なっかしくて目を離せなかった。
「……魔女の使い魔といえば黒猫ですけど、夕帰くんはあまり猫っぽくありませんね」
「えーと、じゃあ何に見えます?」
「そうですね。犬……トイ・プードルでしょうか」
「……やっぱり縮毛矯正すればよかったかな」
「そんなことないですよ。あたくしプードルはとっても素敵だと思います」
何もフォローになっていないような。せめて大きい方のスタンダード・プードルと言ってもらいたかった。幼少期からインドア派だった俺だが身長は平均より高い。小柄な朝子さんはヒールを履いても、俺と話すには上目遣いにならざるを得ない。……って違う、犬なのはどちらかと言えば朝子さんだろう。
「あの、さきほど伝え忘れてしまったのですけど……」
「はあ、なんでしょう」
「新しい髪型も、とっても素敵ですよ」
「え……っ」
朝子さんはその大きい瞳を輝かせ、俺の顔を覗き込むような上目遣いでそう言って、にこりと微笑んだ。……頬が紅潮していくのを感じる。甘い熱がじんわりと胸の中心から広がっていく。
「あ、ありがとう……ございま、す」
「ふふ、では行きましょうか。あたくしの使い魔になった夕帰くん!」
「はい……えっ?」
「道案内をしてくださるのでしょう?あちらの裏道から素敵な香りがするんです、行きましょう!」
「あ、ま、待って朝子さん……っ」
いつの間にか契約成立していたらしい。魔女の使い魔となった俺は、ご主人様の後を追って住み慣れた町を駆けていく。




