〈2〉
両親はまだ帰っていないということが、遠くに見える自宅の薄暗さから察知できた。この時間に明かりのない家は、ほぼ間違いなく住民が留守にしているとわかりそうなものだが、俺の自宅前には見慣れない人影がぽつんとあった。
「あの、うちに御用でしょうか」
声をかけるとその人は少しだけ肩を跳ね上げ、瞳をまん丸くさせて振り向いた。
驚かせてしまっただろうか。だけどその顔がどうにも、何というか、俺にとってすべてツボだったと言うか……白状すると、それはもう可愛らしくて。次の言葉が続かないくらい、時間が止まったかのようにじっと見惚れてしまっていた。
「初めまして。あなたが橘さんでしょうか?」
俺の時間を再び動かすような心地いい声がすっと耳に届けられた。
例えるなら夏の窓辺で気ままに揺れる風鈴のような、はたまたグラスへ注がれたアイスティーに溶けていく儚い氷のような、どこまでも透き通った音。
「あ、はい。橘です……橘夕帰。あの、どちら様ですか」
「わあ、よかった!ご挨拶に伺ったんですけど、お留守のようでしたから困ってましたの」
「挨拶?」
「はい。あたくし、森ノ宮朝子と申します。お向かいのアパートに引っ越してきたご挨拶をと思い、橘さんをお待ちしておりました」
そう言って彼女は深々とお辞儀をして見せた。街灯に照らされたその装いは俺を再度釘付けにする。
現代日本であまり見かけないであろう——少なくともこの七留咲市ではまず目にしない——まるで古い洋画の中に登場するヒロインのような、襟付きのクラシカルなワンピースだった。
白い丸襟には繊細なレースが施され、ふんわりとボリュームのある若草色の生地も相当上質なものだ。足元を彩るレースアップシューズも本革製に違いない。……ああ、昔絵のモチーフとして調べまくった女性のファッション史が脳内を駆け巡る。
それでいて髪は真っ直ぐストンと切り揃えられたシンプルなショートボブで、彼女の大きくて丸い瞳をこれでもかと強調しているから素晴らしい。こんな、こんな女の子を絵に描けたらどれだけ楽しいだろう。
——そこまで考えて俺は我に返る。
「あ、そ、そうだったんですね。ご丁寧にどうも……でももう暗いから部屋に戻った方がいいと思います。うちの親帰り遅いので」
初対面で食い入るように見惚れる不審者は俺くらいなものだろうけど、女性がひとりで待ちぼうけしていい時間じゃないのは確かだった。
「はい。橘さん……ええと、夕帰くんにご挨拶できましたので、ご家族の方には明日改めてお伺いしますね」
「はえっ!?あ、はい、そのように……伝えておきま、す」
急に名前で呼ばれたものだから、驚きのあまり妙な声で返事をしてしまった。さっきから第一印象として最悪な手しか打っていないような気がする。
ところで、名前で呼んでもらえるのなら俺も朝子さんと呼んでもいいだろうか。……よし、そうしよう。これはあれだ、森ノ宮さんだと長いからであって、他意はない。
俺がひとり葛藤をしていると、朝子さんは突然ずいっと俺に顔を近付けて、すんすんと鼻を動かし始めた。
「え、あの、あさ……朝子さん、何を……?」
「ああ、すみません。ちょっとあたくしの探している香りがしたと思いまして。気のせいかしら」
「香り……あ、もしかして朝子さんもおまじないを?」
「まあ!夕帰くん、ご存じですか!?」
「はあ、なんか甘い香りがすると願いが叶うみたいな……そんな感じの」
「きっとそれです!あたくし、そのために七留咲市へ越してきたんです!」
これでもかと開かれた大きな瞳をキラキラと輝かせ、朝子さんはおまじないの存在を確かめるようにまた俺に顔を近付けた。
あまりにも簡単に距離を詰めるため、このままでは俺の心臓が持たないし、朝子さんも同世代の女性としてどうなんだと突っ込まざるを得ない。だから咄嗟に嘘をつく。
「知り合いがそんなこと話していたのを聞いただけで、俺自身は試したことないんですけどね」
「そうでしたか……夕帰くんから素敵な香りがしたので、あたくしてっきり……」
わかりやすくしょんぼりしてしまい、罪悪感を覚える。事実を伝えたところで、あの場所でもう一度おまじないができる保証はないから仕方ないのだけど。
それにしても、よその人にまでおまじないの噂が広まっていたとは。ここ最近はろくにネットも見ていないから、俺は全然知らなかった。
「朝子さん、わざわざここに引っ越しまでして叶えたいことがあるんですか?」
「いいえ。あたくしは願いごとのために来たのではありません」
「……と、言うと?」
朝子さんは俺の問いに答えるためだけに、さっと髪を整えて深呼吸をし、一歩引いたところに行儀よく立つ。人工的な街灯の下を離れ、淡い月明かりに照らされた彼女をタイミングよく夜風がアシストし、若草色のワンピースの裾がふわりと踊った。
「あたくし……魔女なんです。この町にかけられた魔法を回収に来たんですよ」
「魔女……?」
今度は俺が驚愕で目を見開いた。
朝子さんが嘘をついているようには到底思えない。だって俺はすでに体験している。甘い香りに願っている。
そしてその願いは今、まさに、叶えられたと実感しているのだから。
俺は目の前で微笑む可憐な魔女にすっかり魅了されていた。
心に芽吹いた感情は内側の黒色を塗り替えるように、爽やかな若草色となって全身に広がっていくのを感じる。——それはきっと、俺を夢中にさせる、何か。
朝子さんをお向かいの新居まで送り届けたあと、俺はすぐさま自室へ駆け込み、机にある液タブの電源を数カ月ぶりに入れた。
一心不乱にペンを走らせる。長い夜が明けたような、新しい予感に満ちたその感情を忘れてしまわぬよう、ひとつ残らず描いていく。
そうして俺はその晩少しだけ、自分の世界に色を取り戻した。




