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七留咲まじない夢想家〈ドリーマー〉  作者: 七海 七乃香
第一話 橘夕帰の願い

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1/4

〈1〉

「しまった、また寝坊した……」


 俺は慌てて飛び起きた。カーテンの隙間から日が差し込み、通学する小学生の無邪気な笑い声が聞こえてくる爽やかな朝。窓を開けて気持ちいい外の空気を胸いっぱいに取り込みながら、俺にもあんな時代があったな……なんてコーヒーを片手にのんびりと昔を懐かしむような暇はない。急がないとバイトに遅刻してしまう。


 橘夕帰(たちばなゆうき)。高校卒業後、理由(わけ)あってフリーター。無趣味、彼女なし。バイトと自宅の往復という何も変化しない日々を繰り返している。

 俺の人生は毎朝起きて、バイトして、帰ってきたらすぐに寝て、起きてバイト……バイトバイトバイト。休日はその反動から、ずっと布団の中で溶けている。


 「財布よし、スマホよし、社員証よし……あ、眼鏡どこに置いたんだっけ」


 底を尽きかけたなけなしの気力で辛うじて社会人をこなしている俺には、私生活を充実させるだけのパワーなんて残っていない。部屋は荒れ放題で髪も伸び放題。せめて綺麗に整えようと鏡を覗き込んだけど、迷走する自分の人生のように曲がりくねった天然パーマには、櫛も満足に通らない。仕方ないので、後ろでひとつにまとめて終わることにした。


 「いや、眼鏡どこだよ」


 ボソリと昨日の自分に問いかけた。脱ぎっぱなしの衣類や空のペットボトル、通販で買った物が入ったまま放置されている段ボールなど数々のトラップを掻き分け、ようやく机の下に落ちていた黒縁眼鏡を発掘する。

 ひょいと拾い上げたそのとき、勢い余って机に頭をぶつけてしまった。ふわふわの天パはそれなりの防御力を誇り、俺の頭は無事守られたが、乱雑に物が積み上げられていた机からは、がたがたと置かれた物が雪崩のように落ちてくる。


 「危なっ……!」


 俺は慌てて一際大きなそれを受け止める。埃まみれの液晶ペンタブレット。必死に貯めたバイト代で初めて買った、この部屋で何より高価な代物。

 胸がざわつくのを抑えながら液タブを机の上にそっと戻すと、さきほど鞄の中に放り込んだスマホから大音量のアラームが鳴り響いた。出社に間に合うギリギリの時刻が告げられる。


 「わかったわかった、行きますから!」


 足元に散らばる本や筆記用具に目もくれず、自室を飛び出し階段を下りていく。今日もバイト。ただそれだけの一日。玄関の扉を開けたらそこに広がるのは、無味乾燥なモノクロの世界。

 カラフルに彩られていた過去は、この手で削除してしまったのだから。

 

 *


 「おはようございま~す」


 無事タイムカードを打刻し、更衣室で着替えを済ませた。寝起きに出せる精一杯の声で挨拶をしながら入店すると、俺の声をかき消す勢いで元気よく挨拶をしたパートのおばちゃん達がぞろぞろと後ろに続く。

 人口9万人の七留咲(なるさき)市——その中心部にある駅の目の前に建つのは、地域密着型のスーパーマーケット。俺はここで高校生の頃から品出しのアルバイトを続けている。


 「橘くん、今日もよろしくね。納品日だから忙しくなるわよ~」

 「ほんと、朝一でシフトに男の子がいると助かるわ。最近どうも腰が痛むのよね」

 「重い荷物は俺がやりますから、無理しないでくださいね」


 そんな会話を軽く済ませたら、あとはひたすら大量の段ボールとの闘いが始まる。商品が続々と届けられる納品日、俺はこうしてひとりで倉庫の作業に明け暮れることが多い。無心で荷物を片付けていくだけの時間は俺の人生を彩ることはないけど、身体を動かしている分、ただ布団の中で腐っている休日よりは幾分ましだと思う。内側のドロドロとした行き場のない黒色が、バイトをしていれば額に滲む汗となって出ていくような気がした。



 倉庫には品出しのおばちゃん達がひっきりなしに出入りする。表では私語を禁じられているため、彼女らは倉庫に来るとまるで水面から顔を出して息継ぎをする水泳選手か何かのように、待ってましたと喋り出す。腹からしっかり出されるその声は、離れて作業する俺の耳へ否応なしに届けられた。


 「ちょっと聞いて、赤坂さんついに嗅(・)い(・)だ(・)んですって!」

 「えっ、嘘!いいな~、何(・)を(・)お(・)願(・)い(・)し(・)た(・)のかしら」

 「それが教えてくれないのよ、人に言えない願望なんじゃないのぉ?」

 「あーあ、私もはやく試してみたいわ」


 おばちゃん達は補充する商品の乗った台車を引きながら、ぺちゃくちゃと噂話をして去っていく。それ自体はいつもの光景だったけど、会話の内容は俺の心をひどく動揺させた。


 七留咲市で一年ほど前から囁かれる、おまじないの噂。


 それは外を歩いているとき、どこからともなく甘くて心地いい香りが漂ってきて、その香りを胸いっぱいに吸い込んだまま瞳を閉じ、叶えたい願望を自分に向けて語りかけると本当になる——確かそんな内容だ。

 身近に成功者が出たここ最近は特に、周囲はこのおまじないの噂で大いに賑わっている。誰にだって叶えたい願いごとのひとつやふたつあるものだから当然なのかもしれないけど、俺はこの話題が苦手だった。自分がいかに、ただ日々をこなしているだけの無意味で無価値な存在かを思い知らされる気がして呼吸が荒くなる。


 「ちょっと橘くん、大丈夫?」


 思わずその場でうずくまる俺に、近くの商品を取りに来ていた別のおばちゃんが声をかけてきた。


 「あ、大丈夫です……最近あんまり寝てないからちょっと立ち眩みっていうか」


 嘘だけど。むしろ寝ることしかしていないけど。


 「あら、若いからって無茶してると将来急にく(・)る(・)よ~」


 おばちゃんはまるで自虐のように笑いながら持ち場へ戻っていく。途端にしんと静まる倉庫。遠くからはかすかに売り場で流れる店内放送が聴こえてくる。賑やかで色とりどりの活気ある店内と、そこから離れた暗い倉庫にぽつんとひとりきりの俺。すべて削除して手放したあのときを思い出す。額の汗は引いていた。黒色はまだ、俺の内側を埋め尽くしている。


 *


 大量のダンボール達と戦闘の末、特にレベルアップの実感もなく俺はいつも通りさっさと着替えて店を後にした。空は青から黄、そしてオレンジ色へ、あっという間に溶け合って変化していく。毎日繰り返しのようで、同じ色は一度もない。その様子を俺は立ち止まり、ぼんやりと眺めていた。


 ほんの数か月前、俺の世界にはまだ色があった。


 子供の頃から絵を描くのが好き。アニメや漫画が好き。だから自然とキャラクターのイラストを描くようになった。艶やかな髪、潤んだ瞳、柔らかな肌。フリル、リボン、アクセサリー。モチーフとして断然女性キャラクターの方が描いていて楽しかった。


 高校生になった俺はSNSのアカウントを作り、『黄昏紳士(たそがれしんし)』というハンドルネームでイラストを投稿するようになる。思うがままに描いていた美少女イラストにはたくさん反響があり、フォロワー数がどんどん増え、自分の進む道はこの先に続いているんだと感じた俺は、専門学校へ進学してプロのイラストレーターを目指そうと希望に満ちていた。


 だけど、進学準備で忙しくイラスト投稿を控えていたある日、見知らぬ新規アカウントが俺そっくりのイラストを投稿し始めた。絵柄も、構図も、モチーフも、そっくりそのまま俺が描いたかのよう。

 そいつの名前は何だったかな……すべて消してしまった今、正直何も覚えていない。速筆だったそいつは、あっという間に俺がいた場所を掻っ攫っていった。絵柄がそっくりなんて誰も問題にしない。見る側にとっては些細なことなのだろう。


 俺は怖くて二度とそのアカウントへ戻ることができなかった。明確に数字で表れる世界に戦いを挑むことができなかった。いくつか届いていた通知も確認しないまま、俺はすべてを削除して——逃げた。



 空のキャンバスは、あっという間に濃紺へ塗り替わる。夕焼けが存在できる時間はほんの一瞬で、そこから先は長い闇が世界を覆いつくす。……この色は好きじゃない。俺は歩みを進め、自宅を目指した。



 朝から何も食べていないせいだろうか。ちょうど夕飯の準備をする時間帯で、そこら中から美味しそうな匂いが漂っていたからだろうか。そのとき俺は、いつもより嗅覚が鋭くなっていたに違いない。

 我が家の夕飯は何だろうな、などと考えながらのろのろ歩いていたその時だった。

 

 一瞬にしてすべてを支配される感覚に陥る。


 漂ってきたその香りは明らかに異質で、一度それに気が付くと他の匂いはどこか遠くへ離れていくように、その甘くて心地いい香りだけに俺の意識は引っ張られていく。


 「まさか……これって」


 例のおまじないだ、俺は直感する。


 それにしても、ほんの数か月前、自分で自分の夢を削除した俺に、今更願いが叶うおまじない?……どんな皮肉だよ。もう何もなくなったんだ、自分で全部手放した。俺が何を望んでいるのかなんて、俺が教えてほしいくらいだった。


 「でも……ああ、そうか」


 その香りは一体どんな作用があるのか、俺のドロドロとした黒色を薄めていく。甘く心地いい、夢を見ていたくなるような、不思議な感覚。瞳を閉じた俺は、内側にいる自分自身へ語りかけた。

 何を望んでいるのかわからないなら、教えてもらおうじゃないか。無邪気に絵を描いていたあの頃のように、俺の世界を彩るような存在に、もう一度出会えるものなら出会ってみたい。

 

 「だから見つけてくれよ、俺が夢中になれるものを」

 

 おまじないは俺の願いごとを受け取ったのか、甘い香りは消失し、辺りはまた夕飯の匂いで満ちていく。はっと我に返り、思わず周囲を見渡して誰かに見られていないか確かめる。

 今の俺はどうかしていた、どう見ても不審者だった。幸い俺は住宅街の細い通路にひとりで立っていた。


 「……はあ、帰ろ」


 街灯と家から漏れる明かりを頼りに、今度こそ俺は自宅へ続く道を急いだ。

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