第45話:中央大陸カーネギー
「それじゃあ、おやすみ。私の愛しい人」
***
船旅が始まって二日目の朝を迎えた。
体は驚くほど生気に満ちあふれている。一時は顎のあたりまで垂れ下がっていた絶望的な隈も、今では綺麗さっぱりと消失していた。
「よっこらしょ、と」
私は寝台の上で重い身体を起こした。
本音を言えばまだ微睡みのなかに沈んでいたかったが、規則正しい健康的な生活を送るために未練を振り切る。
室内を見渡すと、ティアとアレクシアは未だ深い眠りのなかにいた。
アレクシアは、今にも小さな寝息を立てそうな様子で無防備に丸まっている。
対するティアは、どこまでも静かに、穏やかに、そして実にあざとく、愛らしい寝顔を晒していた。
フレルに至っては、ただひたすらに泥のように眠りこけている。
アレクシアの頭上にあたる二段目の寝台がフレルの定位置だったが、どうやらこの幼子は酷く睡眠が深い体質らしい。以前にも「私は眠るのが仕事だから、絶対に起こさないで」と、私に釘を刺していたことを思い出す。
二段ベッドの木製のはしごを静かに下り、私はティアを揺り起こそうと試みた。
しかし、どれほど肩を揺すっても一向に覚醒する気配がない。
――これは、千載一遇の好機ではないだろうか。
今こそ、かねてからの野望であった彼女の下着を掠め取る時。
寝具の隙間にそっと手を忍ばせ、技術を駆使して、速やかに引き抜く。作戦決行だ。
「慎重に……慎重に……慎重に……」
掴んだ。ついに私は、喉から手が出るほど欲していたあの布切れを掌中に収めたのだ。
これをすぐさま木箱の奥底へ隠匿してしまえば――。
「え?」
思考が停止した。
次の瞬間、
「痛っ……!」
気づけば私はティアに組み伏せられ、脳天に強烈な拳骨を叩き込まれていた。
それは普段の軽いお仕置きなどではなく、まるで質量を持った弾丸が直撃したかのような衝撃だった。
理不尽だ。前世を含めれば四十を超えた大人が、よもやこれほど無残にのされるとは。
前世での私の年齢は三十二歳。二十代の全盛期は血気盛んで、三十代に入っても機会はいくらでも転がっていたというのに、ただの一度も好機を掴めなかった無能な男。悪辣な非道に手を染めた記憶などないが、三十二歳という年齢は、本来ならもっと人生を謳歌できたはずの時期だったというのに。
「そのような破廉恥な真似は許されません。私はこれでも年頃の女性なのですよ?」
「……ええ、仰る通りです。返す言葉もありません」
「今回だけは不問に付して差し上げましょう。その代わり、今日の朝餉はあなたが用意してください。異論はありませんね?」
私は包丁の握り方すら怪しい身なりの男だ。
「私は料理の嗜みなど持ち合わせていませんが、どうしてもと言うなら形にしてみせましょう。ただし、味の保証は一切いたしませんよ?」
これほど不穏な宣告をすれば、私の不器用さを警戒して取り下げてくれるだろう。そんな目論見だった。
「構いません。サラダをお願いします。あらゆる料理のなかで最も工程が単純なものです。それくらいなら、あなたにも可能でしょう?」
要するに、葉物野菜を切り刻んで器に盛るだけの大仕事だ。それならば私にでも御せるはずだ。
「ええ、お安い御用です。私を誰だと思っているのですか。すぐに最高のひと皿を仕上げてご覧に入れましょう」
***
最悪だ。完全に手際を誤ってしまった。
完成した代物は、酷く油っぽく、濃厚すぎる代物に変貌していた。どうやら調味料の配合を根本から違えてしまったらしい。
「一応の形にはなりましたが、確認していただけますか」
見た目だけを切り取るならば、ごく一般的なサラダの体裁を保っていた。ただ、上から注がれた特製ソースの分量が、いささか過剰に見えるという点を除けば。
「ふむ。見た目はそれほど悪くありませんね。どれ、さっそく賞味させてもらいましょうか」
ティアはフォークで細切れのキャベツを器用に突き、口元へと運んで咀嚼した。
「……美味しい。一体どのような手法で作られたのですか? それに、このかかっているソースは……何という名前ですか? 非常に深いコクがあって、素晴らしい味わいです」
おや、意外な反応だ。この世界の住人は、これほど油脂の強い濃厚な味付けに対して耐性があるのだろうか。
何はともあれ、問われたことには実直に応じるべきだろう。
「これは『マヨネーズ』という名のソースです。私の故郷では、絶大な人気を誇る定番の調味料でしてね」
「そのソース、本当に気に入りました」
何のことはない。これはわずか五種類ほどのありふれた素材を調合するだけで、容易に生み出せる至高の特製ソースなのだ。
「アレクシア、アレクシア。起きなさい」
ティアは隣の寝台を揺らし、熱心にアレクシアを揺り起こし始めた。
どうやら、私が即興で作ったサラダが、彼女の想像以上に琴線に触れたらしい。
思いがけない高評価に、私の胸の内には、些か誇らしげな達成感がじんわりと広がっていった。




