第40話:夜空を仰ぎ見ながら
ティアは愛らしい。
時にアイナ以上に、時にアイナに劣らず、彼女が見せる一挙手一投足は私の心を捉えて離さない。
こうして子供のように些細な賞賛を求め、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる姿は、実につきづきしく、私の心の奥底にある琴線を優しく震わせるものがあった。
五十一年の歳月を生きてなお、彼女の手は驚くほど小さく、華奢で、まるで春先に芽吹いたばかりの可憐なシダの若葉のようだった。
その指先が触れるだけで、冷徹を装う私の胸の内にも、確かな温もりがじんわりと広がっていくのを感じる。
「ただいま戻りました」
おや、と私は意外な響きに僅かに眉をひそめた。
あのアレクシアが、誰に言われるでもなく自発的に帰還の挨拶を口にするとは、一体どういう風の吹き回しだろうか。
何か後ろ暗い下心でもあるのか、あるいは、この短い旅路の中で少しは分別というものが付いたのだろうか。
「私が指定した人参、ピーマン、そして牛肉は、手落ちなく調達できましたか」
私がそう問いかけると、彼女は誇らしげに胸を張った。
「言われた通りに買ってきたわよ。それで、私の頑張りに対する報酬は?」
やはりアレクシアはアレクシアだった。
期待を裏切らないその現金さに、私は思わず苦笑を漏らしそうになる。
彼女の行動原理は、いつだって目に見える見返りと直結しているのだ。
「おや……ええ、それなら、私の愛弟子へのささやかな口づけを授けましょう」
ティアがアレクシアの額へ、慈しむようにそっと唇を寄せた。
これはいささか、穏やかではない光景だ。
夜空を仰ぎ見ながら
ティアは愛らしい。
時にアイナ以上に、時にアイナに劣らず、彼女が見せる一挙手一投足は私の心を捉えて離さない。
こうして子供のように些細な賞賛を求め、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる姿は、実につきづきしく、私の心の奥底にある琴線を優しく震わせるものがあった。
五十一年の歳月を生きてなお、彼女の手は驚くほど小さく、華奢で、まるで春先に芽吹いたばかりの可憐なシダの若葉のようだった。
その指先が触れるだけで、冷徹を装う私の胸の内にも、確かな温もりがじんわりと広がっていくのを感じる。
「ただいま戻りました」
おや、と私は意外な響きに僅かに眉をひそめた。
あのアレクシアが、誰に言われるでもなく自発的に帰還の挨拶を口にするとは、一体どういう風の吹き回しだろうか。
何か後ろ暗い下心でもあるのか、あるいは、この短い旅路の中で少しは分別というものが付いたのだろうか。
「私が指定した人参、ピーマン、 tender牛肉は、手落ちなく調達できましたか」
私がそう問いかけると、彼女は誇らしげに胸を張った。
「言われた通りに買ってきたわよ。それで、私の頑張りに対する報酬は?」
やはりアレクシアはアレクシアだった。
期待を裏切らないその現金さに、私は思わず苦笑を漏らしそうになる。
彼女の行動原理は、いつだって目に見える見返りと直結しているのだ。
「おや……ええ、それなら、私の愛弟子へのささやかな口づけを授けましょう」
ティアがアレクシアの額へ、慈しむようにそっと唇を寄せた。
これはいささか、穏やかではない光景だ。
私の目の前で、何とも微笑ましくも独占欲を刺激されるやり取りが展開されている。
「私も、私も、私も!」
アレクシアが弾んだ声で叫び、ティアの純潔なる初唇を奪い去った。
ああ、これは何という不条理か。
私の預かり知らぬところで、少女たちの濃厚な絆が結ばれていく。
「ええ、もちろんですとも」
今度はティアの柔らかな唇が、私の額へと静かに触れた。
なるほど。これこそが弟子に対する、至高의 慈愛というものだ。
私はその温もりに深く納得し、胸中のざわつきを収めることにした。
「では、そろそろ夕餉の調理に取り掛かりましょうか」
「まだ昼刻を過ぎたばかりですが、いささか早すぎはしませんか?」
「シチューというものは、時間をかけてじっくりと肉を煮込まねばならないのです。火加減を調整し、素材の旨味を完全に引き出すには、これでも時間が足りないくらいですよ」
「はは。では私は邪魔にならないよう、早々に自室に引きこおるとしましょう。あ、くれぐれもピーマンは私の分から完全に除外しておいてくださいね!」
台所仕事の煩わしさと労苦を嫌い、私は言い訳を並べてその場を立ち退いた。
仮に私が包丁を握れば、食材の命が虚空へと消え去るような、破滅的な一皿が完成しかねない。
それに、私は何よりも白米を愛しているのだ。
それも、狂おしいほどに。
かつて困窮を極めていた前世の頃、わずかな醤油と白米だけで飢えを凌いだ孤独な日々。
あの塩気と米の甘みだけで命を繋いだ瞬間こそが、私の真なる生の実感であり、魂に刻まれた記憶なのだ。
***
やがて世界の半分が夜の帳に包まれ、静寂が辺りを支配し始めた。
あと十分もすれば至高の料理が完成すると、ティアがわざわざ自室まで呼びに来た。
「ユウカワ! 早く出てきて、アレクシアと一緒に外の丘へ食卓を設営してください!」
ああ、億劫だ。
一度落ち着いた身体を動かすのは酷く煩わしい。
しかし、あの芳醇な香りを漂わせる牛肉のシチューを、一刻も早く味わえるというのなら、多少の労働も吝かではない。
「はーい」
気の抜けた返사를 返しつつ、私は重い腰を上げて部屋を出た。
どうやら私は、根っからの引きこもり体質らしい。
頑丈で重い木製のテーブルと、湯気を立てる料理の数々を、息を切らしながら丘の上へと運び上げた。
その重量は想像を絶するもので、危うく万全の力を使い果たして、大切なシチューを地面へぶちまける大惨事を引き起こすところだった。
冷や汗が背中を伝うが、何とか無事に設営を終える。
「それでは、いただきます」
この地では、食事の前に祈りを捧げるのが絶対の礼節であるとされている。
世界を創造せし大いなる神ラグラスへの感謝の念は、どのような状況であれ、決して欠かしてはならない。
「さて、その腕前を賞味させてもらおうか……」
一見したところ、肉質は随分と強情そうで、繊維がしっかりと詰まっているように見える。
噛み切れない肉ほど、私の興ざめを誘うものはないのだが、果たしてどうだろうか。
大人の手のひらほどの大きさに豪快に切り分けられた肉をフォークで突き、口へと運んで慎重に咀嚼する。
ぐに、ぐにと、執拗に顎を動かす。
予想通り、ひどく強靭な歯ごたえが口いっぱいに広がった。
だが、それは決して不快な硬さではない。
咀嚼の労を重ねること十数回、肉の繊維が解けるのを感じながら、ようやくそれを喉の奥へと嚥下する。
「……美味い、美味すぎるな!」
「ふふ。ユウカワ、それは私が付きっきりで、腕によりをかけて作ったものですよ」
「素晴らしい味わいです! 驚きました」
最初に口内を支配した濃厚な塩気が、噛み締めるたびに肉汁と同化し、次第に淡く消え去っていく。
その余韻は些か名残惜しい。
しかし、仄かな野菜の甘みと、絶妙な塩梅が織りなす極上の調和は、まさに至高の風味と言えた。
文句なしの合格点、いや、それ以上だ。
私たちは文字通り、腹がはち切れんばかりに食い進めた。
あまりの美味に、言葉を交わす暇さえ惜しみ、吸い込まれるように胃へと収まっていく。
満足な食事を終えた後、フレル、ティア、アレクシア、そして私は、夜露に濡れた草の生い茂る丘に身を横たえ、満天の星空を仰ぎ見た。
夜空の圧倒的な漆黒に嵌め込まれた、巨大な白い月が、息を呑むほどに美しく輝いていた。
この異世界もまた、無限に広がる宇宙の一角に、ひとつの星として存在するのだろうか。
だが、これだけは確信を持って言える。
ここは、私の知るかつての地球からは、光年単位で果てしなく遠い場所だ。
あの冷たい光を放つ月も、かつて見上げた地球の伴星とは、似て非なるものに違いない。
「月が綺麗ですね。星々も、まるで夜空に撒き散らされた宝石のようだ」
「手の届かない遥か高みにあるからこそ、美しく見えるのでしょうね」
アレクシア。君はその言葉の真意を、あるいはその裏に隠された文学的な意味を理解して口にしているのだろうか。
今、ティアは遠回しな愛の告白をしたというのに、君のその冷ややかな返しは、彼女の熱い想いを無下に拒絶したも同然なのだ。
地球の文学的諧蔔とは、何ら無関係の偶然だろうが、見ているこちらが少しハラハラしてしまう。
「それは……とても素敵な響きを孕んだ、深い言葉ですね」
ティア、君がそれに深く感銘を受けてしまっては駄目なのだが、当の本人が満足しているのなら、私が口を挟む領域ではないか。
「ありがとうございます」
アレクシアは小さく微笑んだ。
「たまにはこうして、冷たい大地に寝転んで、静かな夜空を眺めるのも悪くないものです」
「ええ。毎日は無理だとしても、日々の辛苦や旅の疲れを癒やすには、これで十分ですね」
そこから、心地よい沈黙が辺りを支配した。
虫の音だけが、私たちの耳を優しく撫でていく。
フレルは私の傍らで既に心地よい微睡みの中にあり、アレクシアもまた、限界を迎えたように船を漕ぎ始めている。
ティアに至っては、全ての緊張から解放されたかのように、完全に深い眠りへと落ちていた。
少女たちの寝息を聞きながら、そろそろ、私自身も意識を心地よい暗闇へと委ねる時間のようだ。
それでは、すべての愛おしい者たちに、良き夜を。




