第38話:何一つ変わらない日常
彼らを見送るために扉を開けた。
私の目の前に止まっていたのは、ごくありふれた、使い古されたジープだった。
そこにいた貴族の真似事をしている男は、綺麗に整えられた髭を蓄え、いかにも抜け目のなさそうな賢し気な風貌をしている。
そして、そのすぐ傍らに佇む人物へと視線を移した瞬間――。
「……ほう」
不覚にも、喉の奥から感嘆の声が漏れ出てしまった。
その肉体に宿るのは、美しく引き締まりながらも存在感を主張する腹筋と、硬質な強さを感じさせる二の腕。
健康的に日焼けした小麦色の肌と、衣服の隙間から覗く本来の白い肌とのコントラストが、えも言われぬ色香を放っている。
まさに、大人の魅力に溢れたナイスな女性であった。
不躾ながら、このまま抱き上げてしまいたいという衝動に駆られるが、さすがにそれは理性を疑われる変態の所業だろう。
「こいつが、ユウカワか?」
女性にしては、随分と低く地響きのように響く声だった。
その身体から溢れ出る圧倒的な存在感は、まるで男性ホルモンの塊のようでもある。
「どうしてここへ来たんだ?」
ジープが、どこか戸惑いを隠せない様子で問いかけた。
「どうして、とは冷たい物言いだね。私はお前の妻だよ? 妻が夫の元を訪れて、何か不都合でもあるのかい」
なるほど、すでに先客というか、伴侶がいたわけか。
少々惜しいことをしたと思いつつも、意外な事実に胸中がざわつく。
「それはそうだが、なにも五時というこんな時間に来なくとも……」
「一日だけ泊めてもらうよ」
「一体、どういう風の吹き回しだ」
ジープがドラの鞄を床に下ろしながら、怪訝そうに尋ねた。
床に置かれた鞄は、ずしりと重い音を立てて床を揺らす。
どうやら長い旅路の途中であるらしい。
「どうもこうもないさ。旅に疲れて、ちょうどここに流れ着いた。それにしてもお前、随分と賑やかな面々と暮らしているんだね」
そこで私は、ふと奇妙な違和感を覚えた。
そもそも、なぜジープはここで大勢と共同生活を送っているのだろうか。
以前の言い分では、家を買い取った際、古びた母屋がもう一棟ついてきたと言っていたはずだ。
「ジープ」
「なんだ?」
「家を買った際、二棟ついてきたというのは……嘘ですね?」
「……なぜそう思う」
ジープは頑なに口を閉ざそうとしたが、私の執拗な追及に根負けし、ついにその重い口を開いて真実を吐露した。
何か不穏な秘密や、後ろ暗い事情でも隠されているのかと勘繰ったが、何のことはない。
私たちが余計な気兼ねをせずに過ごせるようにと、彼なりに配慮してついた優しい嘘だったのだ。
正直なところ、こちらとしては微塵も気にしてなどいなかったのだが。
ジープという男は、存外に情に厚い好人物らしい。
彼に対する評価を、少しばかり上方修正することに決めた。
「ユウカワ。部屋に入っていなさい。そして、絶対にそこから出てこないように」
急に真面目な顔をして、一体何を言い出すのか。
まあ、ここは大人しく従うとしよう。
いくら私に天賦の才が備わっているとはいえ、あの屈強な体躯を誇る者から拳の洗礼を受けるのは御免被りたい。
部屋に引きこもって、三分ほどが経過した頃。
不意に、さらさらと水が流れる音が聞こえてきた。
ドラが旅の汚れを落とすために、身を清めているのだろうか。
覗き見をしてみたいという不謹慎な欲求が頭をよぎるが、部屋から出るなと釘を刺された以上、大人しくしているほかない。実にもったいない話だ。
部屋に籠もって、十分が経過した頃。
今度は一転して、静寂が辺りを包み込み、何の物音もしなくなった。
そう思った刹那、静まり返った空間を裂いて、微かな音が鼓膜を震わせた。
――キィ、キィ……キィ。
なるほど、部屋から出るなと言ったのはこういう意味だったわけか。
瞬時にすべてを察し、合点がいった。
二人だけの濃密な時間を邪魔せぬよう、気配を消して大人しくしているのが賢明だろう。
それから二十分ほど経った頃、執拗に響いていた軋み音はようやく止んだ。
思っていたよりも、随分と長い時間だったようだ。




