第34話:何一つ変わらない日常
アレクシアをなんとかなだめて落ち着かせた後、私は気を取り直して再び魔法の授業に集中することにした。
「アレクシアはそこで少しだけ待っていてください。ユウカワさんに教え終えたら、次はすぐにあなたの番ですからね」
「……はーい」
アレクシアは不満げに口を尖らせながらも、大人しく近くの木製ベンチに腰掛けた。
「残っている初級魔法は、ストーンレインとウィンドブレストの2つですね。合っていますよね?」
「その通りです。よく覚えていましたね」
「では、先にストーンレインの詠唱から教えますね」
ストーンレイン。その名前から推測するに、やはり映画のワンシーンのように頭上から巨大な石の塊がフドゥドゥドゥッと轟音を立てて降り注ぐ魔法なのだろうか。
「『大いなる御方よ、天より石を雨のごとく降らせたまえ! ストーンレイン!』」
ティアの口から紡がれた今回の詠唱は、これまでのものに比べれば随分とまともな部類だった。この世界の魔法は、どうやら世界の神に祈りを捧げることでその力を借りて行使するシステムなのだろう。
「フレーズは短いですが覚えましたね? さあ、私にお手本を見せるつもりでやってみてください」
「あ、はい。……『大いなる御方よ、天より石を雨のごとく降らせたまえ! ストーンレイン!』」
ズガガガガァン!
直後、乾いた轟音と共に鋭い石の雨が地面を抉り取った。我ながらなかなかの威力だ。どうやら私には土属性의適性がかなり高いらしい。考えてみれば、私の宿命の力である茨の能力も、突き詰めて分類すれば土属性の延長線にあるようなものだしな。
「意外とお上手ですね。初級魔法は、他の中級や上級の魔法よりもかえって詠唱のフレーズが長くて面倒なのですが。では、最後はウィンドブレストです」
ウィンドブレスト。名前の響きから察するに、おそらくヒュン! と突風を巻き起こしながらフィリリッ——と鋭い口笛のような音を響かせ、迫り来る敵を強引に押し戻す守備的な役割の魔法のような気がする。
「よく聞いて、一文字も漏らさずに覚えてくださいね。『風の行く先を導く者よ、今ここに風を導きたまえ、ウィンドブレスト!』」
……何だってこんなに無駄に長いんだ。前世の受験勉強を思い出させるような長文は、暗記するのが少々面倒くさいな。
「ええっと……か、風の行く先は導く者よ、今……。すみません先生、後半をド忘れしました。全く分かりません」
「ふふっ、仕方ありませんね。それでは、詠唱を完全に省略する無詠唱で行う方法を教えましょうか?」
「そうしていただけると、実戦派の私としては非常に助かります」
これほど長ったらしく回りくどい詠唱では、命のやり取りをする実戦で咄嗟に唱えて使うのはまず不可能だ。実用性と生存率を考えるなら、やはり無詠唱で行う方法をマスターするほかない。
「まず、先ほどと同じように頭の中で激しい風の流れを明確に思い描き、それを体内に一度吸い込んで引き入れる感覚を強くイメージします。そして、練り上げた魔力を血管の鼓動に乗せて、手首へと一気に到達させるのです。最後に、体内に魔力を一切残さず、すべてのエネルギーを外側へと一気に放出するという感覚で解き放ってください」
「ふむ……言葉の羅列で聞くと、随分と難解で抽象的な概念ですね」
「理屈で考えると難しく感じますが、とにかく身体の感覚を信じてやってみてください。実際にやってみれば、案外簡単なはずですから」
風をリアルにイメージし、胸の奥へと吸い込んで引き入れる。そして魔力を血流に乗せて右腕の義手へと送り込み、最後にすべてのリミッターを外して一気に放り出す!
ヒュン! フィリリッ、プシュー——!
大成功だ! 私の予想した通り、ヒュン! となってフィリリッ——と激しい口笛のような風圧が巻き起こり、前方の草木を強烈に薙ぎ払った。無詠唱の感覚を、確かにこの手が掴んだ。
「わぁ! お兄ちゃん、すっごくかっこいい!」
ティアがパチパチと両手で拍手をしながら、嬉しそうにこちらへ歩み寄ってきた。満面の笑みを浮かべて私を褒めちぎるその仕草は、愛らしいほどに可愛かった。
あまりの尊さに、今すぐにでもその白い両頬を指でむぎゅっとつまんで、お餅みたいにびよーんと引っ張ってやりたい衝動に駆られる。だが、そんな不届きな暴挙に出れば、間違いなくティアのガチの鉄拳が大目玉として飛んでくるだろうから、私は必死に理性を保って下心を抑え込んだ。
*
まさにその日、私に奇妙な変化が訪れたのだった。
「う……くっ」
今日もまた、いつものように最悪な悪夢を見て目を覚ました。しかし、覚醒した直後、何故か身体のすべての強張りが消え去り、すっきりと軽くなっているような奇妙な感覚に包まれた。何というか、妙に若返り、身体の芯から凄まじい力が満ち溢れてくるような、そんな瑞々しい青年の肉体を手に入れたかのような感覚だ。引きこもり生活で健康を害してから優に14年以上が経過しているというのに、今の私の身体は明らかに何かが違っていた。
夢の中で、私は前世の記憶の『もしも』の分岐点を彷徨っていた。
あの日、あの時。もしも私が、あの不良どもに対して余計な説教や忠告なんてしていなければ、私はもっと平凡で、それなりに幸福な人生を歩めていたのだろうか。
「おい、それマジでやばい奴だろ。クソッ」
「おいお前ら、盗撮が立派な犯罪だってことくらい知ってるよな?」
「……あぁ?」
「死にたいのか、コラ」
「先生!!」
夢の中の私は、一瞬の躊躇もなく大声で叫んで学校の教師を呼び出していた。前世の悲惨なバッドエンドとは全く異なる、幸福なルートへの分岐。
「……チッ、今回だけは勘弁してやるよ」
私の叫び声に怯えた不良どもは、バツが悪そうにそそくさとその場から逃げ出していった。
***
そうして、私は無事に大人になった。
今の私は20歳で、大学の学生寮で一人暮らしをしている。前世の地獄のような引きこもり生活とは違い、共通テストを一発で叩き落として合格し、20歳にして華やかなキャンパスライフを謳歌しているのだ。前世とは全く違う、あり得たかもしれない最高の展開。たとえそれが、眠っている間に見るただの儚い夢物語だったとしても、私の心は涙が出るほど救われていた。
結局のところ、私はただの私なのだ。物語の展開が少し変わっただけで、中身の本質は何も変わらない同一の人間。ただ、前世のあの重苦しく太り切った醜い身体から、嘘のように軽やかで頑丈な青年の肉体へと切り替わった感覚は、どうにも奇妙で現実味がなかった。
そんな夢の余韻に浸りつつも、私はいつもと変わらない日常を過ごすため、寮の部屋でゲームの電源を入れた。
「よし、今日は大事な昇格戦だ……とっておきの秘策でいくぞ」
しかし、そこには私の致命的な慢心、そして前世と同じ最悪の不手際が潜んでいた。
私はあろうことか、大容量のハードディスクを数十年もの間、一度も交換せずに酷使し続けていたのだ。本来であれば、ハードディスク単体が破裂したところで、部屋ごと爆発するような凄まじい威力が生み出されるはずはない。しかし、もしもその火花が万が一にでも都市ガスの配管へと引火してしまえば、建物ごと一瞬で消し飛ぶという雑学を、いつかどこかで耳にしたことがあった。
その上、前世の私の部屋には、燃料になりそうなライトノベルや漫画が足の踏み場もないほど大量に積み上げられていたのだ。火の回りが悪いはずがなかった。
パーン——!
凄まじい爆音と衝撃。私はまた死ぬのだろうか。あんなに惨めな思いをして、ようやく這い上がったというのに、またしても。
「あぁ、大人しくハードディスクを交換しておけばよかったな……」
内部の小規模な破裂のはずなのに、こんな呆気ない死に方をするなんてあまりにも理不尽で、御都合主義がすぎる。クソ喰らえだ。おいふざけた運命の神よ、私はもうこれで2回も命を落としているんだぞ。
視界がみるみると暗黒に染まり、指一本動かす力すら残されていなかった。かつてのトラウマが全身を締め付ける。正直なところ、こんな唐突で支離滅裂な夢を見るなんて、あまりにもお調子者がすぎて物語としての整合性が欠片もない。一体全体、これは何の予兆なのだろうか。
だが、その夢の中で完全に意識を失う直前、私は信じられない光景を目撃した。
真っ暗な虚空の彼方、遥か天上から、数人の人間がこちらへ向かって真っ逆さまに落ちてくるのが見えたのだ。その姿には、どういうわけか奇妙な見覚えがあった。
***
「ティア先生」
「はい?」
「急に身体が軽くなって、なんだかやたらと健康的になった感覚があるのですが、これって気のせいですかね?」
「はい? 唐突に一体何を言い出すのですか、ユウカワさん」
「……いえ、何でもありません」
ひとまず、この奇妙な肉体の変化と、あの不気味な悪夢の記憶は、誰にも言わず私だけの秘密として胸の奥底にそっと仕舞い込んでおくことにした。




