第25話:きゅうせいのきびょう
大きな旅の荷物を背負い、私たちはついに目的地へと向けて出発した。
隣を歩くアレクシアは、これから初めて経験するであろう魔法陣の移動が楽しみで仕方がないらしく、まるで遠足前の子供のように随分と浮き足立っている。
「うぅ……頭が……」
そんな賑やかなアレクシアとは対照的に、私の少し前を歩いていたティアが、どこか辛そうに額を押さえて呻いていた。顔色も少し青白い。体調でも悪いのだろうか。
「ユ、ユカワ。悪いけれど、そこの薬局に行って頭痛の薬を……」
「先生、私の名前はユカワではなく、ユウカワです」
私は歩みを止め、わざとらしくへそを曲げてそう言い返した。
そうなのだ。たまに、本当にたまにだが、ティアは私のことを『ユカワ』と縮めて呼ぶ癖がある。別に悪気がないのは分かっているが、なんとなく釈然としないので、この機会にきっちりと直しておきたかったのだ。
「っ……ユウカワ、お願いですから頭痛の薬を……買ってきてくださいぃ……」
涙目で訴えかけてくるティア。あぁ、本当に頭痛が酷いらしい。
それにしても異世界にも腹痛や頭痛といった、前世の人間と同じような生々しい体調不良の概念は普通にあるのだな。というか、少し冷静になって考えてみれば、
「『治癒』の魔法を使えば一発で治るんじゃないですか?」
「……あ、そうですね」
私の指摘に、ティアはハッとしたように目を見開いた。
あぁ、なるほど、合点がいった。この異世界には『治癒』の魔法をハズレ特性などで使えない一般の人々が五万といて、そういう人たちのために薬師という職業が成り立っている。だが、ティアは自分がその貴重な『治癒』の使い手であるという事実を、頭痛の痛みのせいで完全に失念していたのだ。実にお茶目で、ちょっとばかり抜けた先生である。
「『治癒』」
ティアが自分の頭に手を当てて呟く。
この異世界の魔法というものは、基本的に詠唱のフレーズがひどく短い。熟練すれば時には無詠唱で発動することもできるらしいが、あれはかなりの高等技術で感覚を掴むのが難しい。だからこそ、私は最近になって必死に無詠창の練習を重ねているのだ。
「ふはぁ……ありがとうございましたぁ……!」
魔法の光が弾けると同時に痛みが消え去ったのか、ティアは大きく両手を上に突き上げて、ぐっと気持ちよさそうに背筋を伸ばして伸びをした。
普段の毅然とした態度からは想像もつかないその無防備な姿、そして服の隙間からチラリと覗く健康的な肌が、なんだか少しばかり艶めかしくて目のやり場に困る。男のサガとして、どうしても視線が吸い寄せられてしまうのは不可抗力だろう。
「コホン……。あそこに見えるのが、私たちが利用する魔法陣の乗降場です」
ティアは赤くなった顔を誤魔化すように咳払いをすると、前方の巨大な建物を指差した。
案内されたその施設へと一歩足を踏み入れる。その入口は、私たちの身長の何倍もあるほど巨大で、まるで古代の神殿かと思うほど圧倒的に雄大だった。これには流石のじゃじゃ馬アレクシアも、呆気に取られたように感嘆の声を漏らした。
「うわぁ……すごい……」
さすがに大陸規模の移動手段というだけあって、利用者の数も尋常ではない。
私たちは受付を済ませてから、薄暗い待合室で丸3時間も待たされた末に、ようやく指定された魔法陣の起動区画へと乗り込んだ。床一面に描かれた複雑な紋様を前にして、正直なところ私の心臓は少しばかり緊張で跳ねていた。これ、現代の乗り物みたいな最低限の安全性くらいは魔導省かどこかによって保障されているんだろうな?
「ユウカワ、アレクシア。魔法陣の移動速度は、皆さんが想像している遥かに上を超えて速いです。三半規管がやられますから、内部では絶対にふざけたり、悪ふざけをしたりしないでくださいね。いいですね?」
ティアが真剣な表情で釘を刺した、まさにその直後だった。
シュシュシュシュシュシュシュッ——!
空間そのものが激しく振動したかと思うと、周囲の景色がブレて、まともに視認できないほどの超高速で私たちは前方に引き絞られた。凄まじい風圧と魔力の奔流。最初は強烈な目眩を覚えて吐きそうになったが、時間が経つにつれて徐々に身体がこの異常な環境に適응していく。これが人間の恐るべき適応能力というやつか。慣れてしまえば、まるで新幹線に乗っているかのような感覚だ。
その恐ろしい超高速状態のまま、丸一日が経過した。
だが、目的地である西の地方に到着するまでには、まだあと6日も残っている。
正直に言って、適応したとはいっても長時間の移動による乗り物酔いは最悪に近かった。頭が重く、胃の奥からは不快感がせり上がってくる。だが、故郷の自宅で死のタイムリミットに怯えているであろうプラェルを必ず救い出すんだという、兄としての強い意志だけで、私はどうにかその嘔吐感を堪え忍んでいた。
そして、ようやく巡ってきた今日の貴重な食事は、配給された薄い牛乳と、少しばかりのパサついたパンだけだ。
実は、私たちは昨日は丸一日、水以外は何も口にしていない。ティアが旅費を削るために持ってきた食糧はちょうど6日分しかなく、これから先の不測の事態を考えて、最初から厳しく節約しなければならないと告げられたからだ。だから昨日、私は飢えに耐えながら、何も食べることができなかったのである。
静まり返った魔法陣の空間の中で、私のお腹が情けなく鳴り響いた。
「……お腹、空いたな……」




