第七章:忘れ物を拾った男
登場人物
藤田恭平(47歳)
非正規雇用の会社員
地方都市のコンビニや配送センターなどで深夜帯を中心に勤務。
給与は低く、将来への展望も持てない「底辺の生活」を送っています。
住環境: 大野家が住む近隣の、少し古びたアパートの1階に住んでいます。カーテンは常に閉まりがちで、昼間に洗濯物を干す姿をあまり見かけません。近隣住民からは「挨拶はするが、何を考えているか分からない人」と認識されています。
地方都市。
深夜の配送センターで、藤田恭平(47歳)は黙々と荷物を仕分けていた。
蛍光灯の薄暗い光と、ベルトコンベアが流れる規則的な音だけが彼の世界だ。
非正規雇用の身分、安アパートの薄い壁、そして月々の支払いに追われるだけの灰色の日常。
彼は社会という大きな組織の「境界線」に立ち、誰からも認識されず、誰にも干渉されずに生きてきた。
その日の夕暮れ時、恭平は仕事へ向かうために駅前の通りを歩いていた。
前方から、楽しげに笑い合う二人の少女が歩いてくる。
杏が持っていた小さな布製の巾着袋が、歩みの拍子にポロリと落ちた。
杏はそれに気づかず、そのまま知花とお喋りに夢中で先へ進んでいく。
恭平は反射的に足を止め、落ちた巾着を拾い上げた。
中身がこぼれていないか確認し、恭平は二人を追いかけた。
「おい、忘れ物だぞ」
恭平が声をかけながら近づくと、知花が振り返った。
その瞬間、知花の顔が凍りついた。
動画の中の「完璧なアイドル」としての仮面が剥がれ落ち、そこには得体の知れない大人に向けられる、純粋な「恐怖」があった。
「きゃっ……!」
知花は悲鳴に近い声を上げ、数歩後ずさった。
その叫び声に、通りがかった近所の主婦たちが足を止め、冷ややかな視線を向け始める。
「あら、あの人……まさか、何か変なことを?」
「警察に通報したほうがいいんじゃない?」
周囲の囁き声が、恭平の鼓膜を刺す。
彼はただ、親切心で拾っただけなのに。
この街では、彼はいつでも「警戒されるべき存在」なのだ。
「ちかちゃん、どうしたの?」
遅れて気づいた杏が戻ってきて、恭平の手の中にある巾着を見て微笑んだ。
「あ、ありがとうございます! 私の忘れ物です。わざわざ拾ってくださったんですね!」
杏の無邪気な感謝の言葉が、周囲の凍りついた空気を一瞬で変えた。
主婦たちは「あら、ただの忘れ物だったの」と肩透かしを食らったように去っていく。
恭平は「ああ……」と短く応え、巾着を杏に手渡した。
その場は収まった。
だが、恭平の胸には、拭いようのない感情が沸き上がった。
帰り道、彼は地域のコミュニティセンターの前を通りかかった。
掲示板には、防犯啓発のポスターとともに、地元のイベントを告知する色鮮やかな一枚が貼られていた。
『親子で楽しもう! 地域活性化フェスタ』。
そこには、笑顔の知花が写っている。
「……あの時の小娘か」
自分を虫けらのように怯えて見下ろした顔と、ポスターの中で輝く無機質な笑顔が重なる。
自分を「人間」としてではなく、「汚物」でも見るようなあの視線。
恭平の中で、何かが音を立てて冷えていった。
帰宅した恭平は、PCの前に座っていた。
深夜の静寂の中、検索窓に「大野知花」と打ち込む。
SNSのトップには、煌びやかに笑う知花の姿があった。
何万もの「いいね」、絶え間ない称賛のコメント。
彼女はこの社会の光を独占する側なのだ。
「家族で動画チャンネル……なるほどな」
住所、学校、よく行く公園、撮影の頻度。
情報はネットの海に溢れていた。
恭平は、大野家の詳細な情報を一つずつ自分のメモ帳に書き写していく。
彼は社会の境界線にいる。
だが、境界線はどこからでも越えられる。
画面の中では、今日も知花が楽しそうにダンスを踊り、無邪気な笑みを浮かべていた。
何万回と再生されたその動画は、この薄暗い部屋の唯一の光源だった。
恭平はPCのモニターを食い入るように見つめながら、人差し指の爪を噛みしめた。
カチ、カチという音が、静まり返った部屋に響く。
彼の喉の奥から獣のような、しかしどこか満足げな呼吸が漏れた。
(可愛いな……あの時の怯えた顔も、今こうして見ているこの完璧な笑顔も。全部、俺だけのものだ)
知花の個人情報が羅列されたメモ帳の横で、彼はPCの画面上の知花の顔を、指先でなぞった。
彼女の生活圏、学校の予定、家族の行動パターン。
すべてがこの手の中にあるという全能感が、彼の底辺の生活をじわじわと満たしていく。
ふと、恭平の口元が歪んだ。
それは、獲物を追い詰める前の、あるいは自分を認めない世界への復讐を誓うかのような、不敵で、どこか恍惚とした笑みだった。
知花が踊るたび、その動きに合わせるように、恭平の指先が机をリズムよく叩く。
興奮で瞳孔が開いた彼の瞳には、光り輝く知花が歪んで映っていた。
彼女が画面の中で笑えば笑うほど、恭平の心臓は高鳴り、全身を熱い血流が駆け巡る。
もう、誰にも止められない。
彼は、窓の外に広がる闇に背を向け、モニターの光を全身に浴びながら、さらに深く、知花の影を追い続けていた。
その背中は、社会の境界線から完全に逸脱し、暗闇の中にひっそりと、しかし確かな狂気を宿して揺れていた。




