第六章:12歳の渉くんへ
登場人物
渉(12歳)
放課後の静かなリビング、知花は宿題を広げたまま、隠すようにスマホを握りしめていた。
リビングのソファでは、真人がアニメを見ている。
キッチンからは、京華が夕食の支度をする包丁の音がリズムよく響いていた。
知花が起動したのは、あの河川敷で三人で遊んだスマホアプリだった。
ゲームのオンライン対戦機能。
見知らぬ相手とマッチングし、対戦が終わればすぐに別れるはずの場所。
しかし、数日前、偶然対戦した相手から、ゲーム内のチャットでメッセージが届いたのが始まりだった。
『さっきのプレー、上手いね。連携最高だったよ』
送られてきたのは「渉」と名乗る、12歳の少年からのメッセージだった。
最初は警戒していた知花だったが、言葉を交わすうちに、彼はとても物分かりがよく、優しい兄のような存在に思えてきた。
『学校、最近どう? 嫌なこととかあった?』
画面に表示されたその問いかけに、知花は心臓が跳ねるような高揚感を覚えた。
学校では「大野知花」として、動画のイメージを守らなければならない。
友達はみんな自分を「憧れのちかちゃん」として見るか、あるいは「有名人」というフィルター越しに接してくる。
杏でさえ、動画の視聴者という立場を捨てきれない瞬間がある。
けれど、チャットの中の渉は、知花という「インフルエンサー」のことなんて何も知らないようだった。
『今日ね、クラスで……』
知花は、今まで誰にも言えなかった小さな愚痴を打ち明けた。
ダンスの練習が辛いこと、本当はもっと普通の服を着て遊びたいこと。
チャンネルの撮影で笑いすぎて、顔の筋肉が痛いこと。
『そっか、それは大変だったね。知花ちゃんは頑張りすぎだよ。たまには休んでもいいんだよ』
渉の返信は、いつも温かくて、知花が心の底でずっと求めていた「ただの女の子としての自分」を肯定してくれるものだった。
「お姉ちゃん、何してるのー?」
真人が顔を覗き込もうとする。
知花は咄嗟に画面を伏せ、少し冷たい口調で返した。
「宿題中だから見ないで。あっち行っててよ」
真人が面白くなさそうにリビングの隅へ行くのを確認し、知花は再びスマホの画面をそっと開く。
父にも、母にも、杏にも、そして真人にさえも秘密。
このスマホの中にあるのは、知花にとっての唯一の聖域だった。
(渉くんだけは、私の本当の気持ちを知ってくれている)
学校のこと、友達のこと、そして少しだけ家での息苦しさ。
誰にも言えない秘密を共有するたびに、渉との距離は急速に縮まっていく。




