第六十四話 図られた帰還
ヴァーブゲンの森の高地は黒逸軍のものとなった。
指揮官は死亡、他の兵士は撤退という名の敗走をし事実上高地の北ナ連守備隊は壊滅した。
「紅旗軍の塹壕が残っていますね、再利用できませんか?シュヴァルツ大尉」
「少尉、見ろ、この塹壕は黒逸側を向いている、北ナ連から攻めてくる方角には向いていないから新しく反対に掘る必要があるんだ。しかし凍った土じゃスコップも入らないだろうに…北ナ連の連中はよくもまぁこんなに塹壕を築けたもんだ」
兵士たちは携帯スコップで硬い高地の凍土を開拓して新たな塹壕を築き始めていた。
「きっとまた北ナ連がやってくるだろうな、それまでにきちんと再構築し直さなきゃなぁ」
勝ってもやることは多い、シュヴァルツは困り顔で頬を数回搔いた。
「なに?敗走?」
重戦車KV-1を指揮していたコチェグラの耳に将校よりその噂が入る。
彼女はココーシナ総書記の側近であり紅旗軍の総司令官だ。銀の丸メガネを黒い手袋をはめた手で掛け直すと将校に詰め寄った。
「彼らはどこに逃げおおせたのでしょうか?」
「はい、基地まで…」
「ここから近いのですか?」
「そうですね。申し訳ございません、わざわざご足労かけた上にこんな報告を…」
「構いませんよ、憎き黒逸の捕虜を直接轢き殺したいと思ってここまで赴いてきたのは僕の意志ですから。
さぁ重戦車よ、まだ敵兵が残っていますよ。その履帯と車体で踏み潰して骨の砕ける音と肉と内臓が潰れて体液が吹き出る音を聞かせてください」
総司令官が戦車を指揮していたのは進軍の為ではない。捕虜収容所の黒逸の兵士を縛り上げて並べそれを戦車で轢き殺す為だった。
布の猿轡が唾液で染みるまで噛み締めて気が狂いそうな恐怖を前に耐えることしかできない。そんな彼らに無力感を押し付けてブチブチと虫けらのように押しつぶされる様子を張り付いたような無表情で見続けていた。
「男はそろそろ飽きました、次は小さな女の子が抵抗虚しく砕かれるところがみたいですね…」
「はい、すぐに非戦闘地帯から捕らえて…」
「いや、その前に…車を用意できますか?敗走した部隊を訪ねてみます。彼らへの責任追及がまだでしたから」
将校は総司令官の命令を実行するために敬礼をして返事をした。
一方クチンスカヤたちは高地から逃げ麓で待機していた部隊と合流し一旦基地まで撤退していた。
基地では戦いから帰ってきた兵士たちを暖かく出迎える兵士たちが多かった。しかし反対に逃げてきたとみなして陰口を叩くものがいるのも事実だ。
クチンスカヤは堂々とすることもできず基地の端っこで座っていた。
「(…この敗走は私が引き起こしたことだ…『あのまま高地にとどまり続けていれば死者は数えきれない程出ていた。だから撤退できて良かった』、なんて言ってもみんな納得してくれないだろう、それに私は今、敵兵と結託している…もしバレたら…)」
そんな雑念を振り払うように彼女は首を左右に振った。
「ううん大丈夫、私は売国奴でいい。この戦争が終わらせられるなら怪物とでも手を組もう」
すると何やら基地が騒がしくなってきた。クチンスカヤは何事かと思って立ち上がる。
そこにチェルニチェンコ兵長がやってきた。
「お疲れ様です、兵長」
「あーあ、クチンスカヤ来ちゃったぜ」
「来たって…何が…?」
「尋問の時間だ」
兵長に連れられてやってきたのは基地の本部だ。むき出しのコンクリートで造られた本部に案内され部屋に誘導される。
部屋には電球の照明と格子の窓が一つ、そしてテーブルと椅子に座る総司令官があった。
「そ、総司令ッ!?なぜここに…!?」
「こうして対面するのは初めてですね、チェルニチェンコ、そしてクチンスカヤ。どうぞお座りください」
丁寧な口調で案内されクチンスカヤはテーブルの対面に、チェルニチェンコは部屋の端っこの椅子に腰掛けた。
「さてと…兵長。僕は紅旗軍総司令官のコチェグラです。今回の防衛作戦、見事に失敗しましたね」
「総司令官さんよぉ、申し訳ねぇけどやっぱり防衛って言うには力不足だったんじゃねぇかな?武器も人も足りなかった、兵站も『明日送る明日送る』で結局迎撃できるほどの戦力を用意してくれなかったじゃないか。いや最大限努力はしたぜ。でも…もうちょっと兵器をくれても良かったんじゃないかな…」
「…それは僕への抵抗ですか?」
厳しい視線に思わず兵長は椅子に座り直して態度を改める。
「…まぁ良いでしょう。それより問題はこの責任の行き先がないことです。指揮官は戦地に残りおそらく死亡、この失敗の犯人が不在だと兵士たちも国民もやり場のない怒りを持ち出します、そしてそれは軍を総括する我が党と総書記へ向く。それは避けたい。言いたいことがわかりますか?」
テーブルの上で指を組んで彼女は下から見上げるようにクチンスカヤを見る。
「…つまり私が犯人になれと…?」
「なれじゃない、そうだろう?」
兵長と一等兵の二人はしばし固まる。
「兵長を連れ出してください。彼女にも個別にお話を伺ってみましょう」
見張りの一人がチェルニチェンコの腕を引っ張って部屋から出ていった。出る直前彼女は落ち着かない様子の彼女に対して頑張れ、とでも言うようにウインクしたのをクチンスカヤは見逃さなかった。
外の見張りを除いてはこの空間には総司令官と白い未亡人しかいない。
「お友達からもお話を伺いましたよ。たしかあのシュヴァルツを捕らえたと」
「ッ!?」
下に向けていた視線を思わず上げた。
「負傷しているシュヴァルツを見つけて捕らえたと、その後お友達は防衛に回るために離脱、残った君が捕虜となった彼女を連れて現れるかと思ったら『撤退しよう』との言葉を連れてきただけでそこにシュヴァルツの姿はなかった…お友達もあまり信じたくはないとおっしゃっていたが、事実は事実。
君、シュヴァルツをどうしたのでしょうか?まさか…逃がしたってことはないでしょう?」
クチンスカヤの目線が泳ぐ。コチェグラはその動揺を確認すると立ち上がって彼女に近づいてレザー製の手袋の手で頬を優しく触る。
「犯人に仕立て上げられるのはやはり君しかない、シュヴァルツとなにか結託して彼女を逃がした…。もしそうならば君は売国奴です、祖国を裏切った人間がどこに送られるかは散々前例があるのでおわかりでしょう、これからは君の行動を逐一監視させてもらいますね」
背中に湧き上がる汗が軍服を湿らせた。彼女は焦っっていた。
「(監視…!?そんな…一等兵だからわりかし自由に動けているのに…監視なんかされたらもうシュヴァルツと会える機会がなくなる!それだけは避けなきゃ…なにか言い訳は…)」
思考をめぐらすクチンスカヤの背後でコチェグラも舌なめずりをして考えていた。
「(なんでもいいのです、まさかシュヴァルツを意図的に逃がしただなんては思っていませんが疑わしい事柄を指摘してそこから敗因までの過程を適当に作ってそれを彼女が自白すれば完成です。自白がほしい、追及されても『私のせいです』と言える敗者の心を作り上げるための自白と自認が!)」
「さぁ吐きなさい。シュヴァルツを逃したのでしょう?」
「わ、私は…!」
「私は…?」
クチンスカヤは勇敢にも総司令官の手首を掴んで頬から引き離した。
「私は…逃がしてなんかいません!」
「…じゃあ何でしょう?捕らえたシュヴァルツを連れてこられなかった理由があるのでしょうか?納得のいく説明がほしいですね」
「しかし…」
「話しなさいッ!!クチンスカヤッ!!」
声量を上げ胸ぐらを掴んできた総司令官に対してクチンスカヤは震える口でゆっくりと落ち着いて話した。
「わっ…私はッ…!シュヴァルツを…おっ…お…犯したんです」
クチンスカヤの発言に見張りの兵士も総司令官も思わず『えっ』と当惑した。
「捕虜だから…何してもいいかなって思って…そ、それで…肉体的に好みだったからその…犯したんです…!で、でもそんな蛮行しちゃったら…連れ帰れないじゃないですか…ッ!もしそのことを話されたら自分の立場がァッ!!なくなるんですよぉッ!!だからぁ!その場に放って置くことしかッ!できませんでしたぁーッ!!
あ、あのときは混乱して判断力が落ちていて殺さずに逃げるように戻ってしまったんです!!ごっ…ごめんな゛さい゛ぃ゛ッ!!」
涙と鼻水を流しながら錯乱気味に弁明するクチンスカヤを見てコチェグラは少し距離をとった。
「あ、あぁそうですか…強姦は我が国ではギリギリ戦争犯罪ではないのであまり追及できませんね…しかしシュヴァルツはどうなったのでしょう?」
「わかりません…いっ…一応銃剣で大量の傷をつけたので満身創痍です…」
コチェグラは顎を抑えて考え込む。
「(この話が本当かどうかはシュヴァルツの身体を見ればわかるでしょう…。難しくなった。これではシュヴァルツを逃したという事柄にはなり得ない、どちらかと言うと心神耗弱者による捕虜虐待、しかもあのシュヴァルツに対して一矢報いている。そんな人物、しかも一等兵に敗走の責任を押し付けても誰も納得してくれないし少し無理があるか…)」
納得したのか、泣いているクチンスカヤに対して寄り寄り添って声をかける。
「わかりました、これ以上の尋問は行いません。ひとまずアンドレイ将軍に責任があるとして進めます。しかし…」
「しかし…?」
「君が不穏な人物であるとこには変わりありません、しばらくは君の動向を観察させてもらいます」
クチンスカヤは開放されてようやく外に出られた。プライドを捨てた必死の演技が功を奏したみたいだ。
出てきた彼女を待っていたのは不安そうな目つきで見つめてくるアバカロヴァだった。
気まずい空気が流れる。総司令官が言っていたお友達がアバカロヴァかもしれないというぎわぬから確信へと変わったのはこのときだった。
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【補足】
この物語は史実である第二次世界大戦時の独ソ戦(1941〜1945)辺りの時代背景を下敷きの異世界でドイツ国とソ連がモチーフの国との戦争を生き抜く物語です。
登場する兵器や軍服などは名前が出ているものは実際に大戦で使われた物であり、調べていただきながらお読みいただくとより一層楽しめるかと思います୧( ˵ ° ~ ° ˵ )୨




