第9話 引っ越しは岩ごと
足跡は、猫よりひと回り大きかった。
前足に四本、後ろ足に五本の指があり、指先には鉤爪の跡が深く残っている。足跡の両脇には、何かを引きずったような細い線が何本も並んでいた。背中に何か硬いものを背負った生き物が、腹を擦りながら歩いた跡だ。
足跡は新しい水路の土の岸から、西畑へと続いていた。
畑の端の三列ほどで、大麦の株が根こそぎ掘り返されている。豆の苗も何本か倒れていた。掘った穴の底には、切れた根と、食べ残しの根切り虫の殻が転がっている。
「棘鼠ですね」
トーマがしゃがみ込んで、足跡を指でなぞった。
「背中に針が生えた、鼠の化け物みたいなやつです。一応魔物ですが、人には寄ってきません。ただ追い詰めると針を立てて、刺されると腫れて三日は熱が出ます」
「前から畑に出ていたのか」
「いえ。丘の裾の、古い水路の土手に巣があって、そっちの湿ったところで蚯蚓や虫を掘ってました。畑にはまず来なかった。……むしろ、あいつらがいる年は、根切り虫が少なかったくらいで」
ロウェンは丘のほうを見た。
丘の裾を回っていた古い水路の上流側は、三日前に閉じた。今朝見た時には、底の泥がもう白くひび割れ始めていた。湿った土手が消えて、棘鼠たちは水を追ってきたのだ。新しい水路の岸へ。そしてそのすぐ隣の、柔らかく起こされたばかりの畑へ。
「……俺が、餌場を動かしたのか」
呟いた声に、答える者はいなかった。
◇ ◇ ◇
最初の夜は、バルガスが騎士を連れて畑を見張った。翌朝の報告は短かった。
「三十はいた。月が昇ってから出てきて、夜明け前に丘のほうへ戻っていった。追いかけたら、でかい岩の下に潜り込んだ」
バルガスが籠手を外すと、手の甲に赤く腫れた点が三つ並んでいた。
「一匹捕まえようとしたらこれだ。……燻り出して、まとめて始末するのがいちばん早い」
「巣はどこだ」
「新しい掘り割りの手前、丘の裾だ。岩場を割ってた時、脇にでかい岩があったろ。あれの下が穴だらけになってる」
その晩は、ロウェンも見張りに加わった。
月の明るい夜だった。起こしたばかりの西畑で、麦の若い穂が銀色の波のように揺れている。新しい水路の岸では、蛙が低く鳴き交わしていた。ロウェンとバルガスは、畑の端の石垣の陰に並んでしゃがんだ。
月が高く昇った頃、水路の岸の草が、ざわりと動いた。
出てきたのは、黒い毬栗みたいな塊だった。猫くらいの大きさで、背中一面に指ほどの長さの針が逆立っている。鼻先だけが妙に長く、湿った土に突っ込んではふんふんと忙しなく鳴らしていた。一匹、二匹、五匹。月明かりの下で、針の先がちらちら光る。
最後の一匹の後ろに、手のひらくらいの小さな塊が三つ、ころころ転がるようについてきた。針はまだ柔らかいのか、背中の毛がふわふわと寝ている。子供だ。
小さな一匹が、畝の間から根切り虫を掘り出してくわえ、得意げに親のところへ持っていった。
「……あれを、燻り出すのか」
ロウェンが小声で言うと、バルガスは盛大に舌打ちをした。
「言うな。俺だって、ああいうのは見たくなかった」
◇ ◇ ◇
翌朝、ロウェンはバルガスについて丘の裾へ行った。
岩は、掘り割りの入口から五十メートルほど南にあった。高さはロウェンの胸くらい、差し渡しは二メートル余り。丘の上から転がり落ちてきたらしい丸っこい岩で、半分ほど土に埋まっている。岩と土の境目に、拳が入るくらいの穴がいくつも口を開けていた。
耳を澄ませると、岩の下から、かすかにキイキイと甲高い声が聞こえる。昼間は巣で寝ているらしい。寝言にしては、ずいぶん賑やかだった。
「燻り出したら、どうなる」
「穴から出てきたところを叩く。……まあ、全部は無理だな。穴の数だけ出口がある。取り逃がした分は、畑にも村にも散る」
「散ったものは戻ってくるか」
「来るだろうな。ここが巣なら」
「では、巣ごと遠ざけたほうが早い」
バルガスは少し考える顔をした。考え終わる前に、眉が寄った。
「……巣ごとってのは、どういう意味だ」
ロウェンは岩の表面に手を当てた。この大きさなら、十トンは超える。担いで運ぶのは無理だ。持ち上げた重さが全部足の裏にかかって、足が土にめり込み、一歩も進めないまま膝を傷めるのがオチだろう。峠の泥で車軸を持ち上げた時に、それは学んだ。
担ぐのではなく、滑らせる。岩の下に丸太を何本か敷いて、その上に太い木の橇を据えれば、あとは引くだけでいい。
「川沿いの林の縁まで、岩を運ぶ。一キロと少しだ。あそこなら地面がいつも湿っていて、蚯蚓も虫も多い。畑からは遠い」
「おい」
バルガスが、ロウェンの手が乗った岩を指さした。
「巣ごと持つな」
◇ ◇ ◇
とはいえ、準備は二日で整った。
反対していた割に、バルガスは燻り出しの代わりに運び出しの段取りをきっちり組んだ。騎士たちに盾を持たせて岩の周りに並べ、驚いた棘鼠が飛び出してきたら盾で受けて穴へ押し戻す。刺される前提で、厚い革の手袋も全員分そろえてあった。
村の男たちは、川沿いの林まで丸太を並べて道を作った。畑の脇を通らない道筋は、トーマが選んだ。
作業は、棘鼠が巣の奥で寝ている昼に始めた。
まず岩の周りの土を掘って、埋まっている下半分を出す。巣は岩の真下にあるから、岩と一緒に、巣の入った土の塊ごと持ち上げなければならない。
ロウェンは岩の片側にしゃがみ込み、下の土へ両手を差し込んだ。足を広げ、踵に体重を乗せ、背中を真っすぐにしたまま腰を落とす。腕は伸ばしたまま、鉤のように岩の縁に引っかけるだけ。持ち上げるのは脚と背中で、腕は重さを伝える綱にすぎない。
脚と背中に、魔力を込める。
腿の前が張り、尻がぎゅっと締まり、腰の後ろで背骨の両脇の筋が太い縄のように浮き上がる。足の下の土が沈み込みかけて――止まった。昨日のうちに、足を置く場所に平らな石を埋めておいたのだ。
岩の片側が、土ごと、ゆっくりと浮き上がった。
キイイイイッ!
岩の下から、甲高い悲鳴が一斉に上がった。家ごと宙に浮いたのだから、住人の抗議も無理はない。騎士たちが盾を構える。穴の一つから黒い針の塊が転がり出て、盾にぽこんとぶつかって跳ね返り、慌てて穴の中へ逃げ戻っていった。
「今だ、入れろ!」
バルガスの声で、村の男たちが橇の先を岩の下へ押し込む。ロウェンが岩を下ろすと、橇がぎしりと鳴った。反対側でも同じことを繰り返し、岩は巣の土を抱えたまま、すっぽり橇の上に収まった。
あとは、引くだけだった。
丸太の上を、岩を載せた橇が滑っていく。先頭で綱を引く領主の息子、盾を構えて両脇を固める騎士の列、そしてその真ん中で、キイキイと抗議を続ける岩。遠目には、何かの奇祭の行列にしか見えなかっただろう。
丸太の道の両脇には、いつの間にか村の人たちが集まっていた。子供たちは岩の後ろにぞろぞろついて歩き、中から鳴き声がするたびに歓声を上げる。年寄りの一人は、岩が目の前を通り過ぎる時、なぜか帽子を取った。
林の縁に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。岩を下ろして周りの土を寄せ、隙間を埋める。棘鼠が出入りする穴だけは、塞がずに残しておいた。
それから四晩、騎士たちが畑を見張った。棘鼠は一匹も来なかった。林の縁の湿った地面を掘り返し、夜明け前には岩の下へ帰っていったという。
◇ ◇ ◇
五日目、トーマが館に来て、ちょっと言いにくそうに切り出した。
「若様。村で、妙な噂になってます」
「噂」
「若様は魔物の家まで引っ越しさせてやった、って。……それが隣の村まで行くと、『魔物まで救ったお方』になってました」
ロウェンは書きかけの紙から顔を上げた。
「救ったわけじゃない。畑から離しただけだ」
「ええ。俺は分かってます」
トーマは帽子を手の中でくるくる回した。
「……村の年寄りたちは、そうは言ってませんけどね」
噂というのは、話す人の都合のいい形に育っていくものらしい。いちいち訂正して回る暇は、ロウェンにはなかった。
トーマと入れ違いに、フィオナが執務室へ入ってきた。手には、ハロルドの店の印が押された手紙がある。
「ハロルドさんから。穀物の最後の荷は来週届くって。それとね」
フィオナは手紙の二枚目の一行を、指で示した。
「塩と鉄の値段が、この春からまた上がってる。理由は、峠だって」




