第8話 岩場を抜く
三本目の柄が折れたのは、五日目の昼前だった。
振り下ろした大槌が楔を打った瞬間、手の中でバキッと乾いた音がして、握っていた柄がふっと軽くなった。鉄の頭は楔の上で跳ね、岩の上を転がって、亀裂の奥へ落ちていった。
「……また折れたぞ」
少し離れた岩陰から、バルガスが言った。
「柄が悪いわけじゃありません」
石工の親方の弟子が、新しい柄を抱えて駆けてきた。二十歳前後の、腕の太い若者だ。
「若様の振り方だと、打った衝撃が逃げる前に次が来るんです。木が休む暇がない」
「木にも休みが要るのか」
「要ります。俺たちにも要ります」
弟子は真顔で言って、新しい柄を差し出した。削り出したばかりの白い樫の柄で、握りの部分に麻紐がきつく巻いてある。
「親方が、四本目からは紐を巻けって。滑り止めです。若様の手、もう皮が剥けてるでしょう」
掌を見ると、指の付け根の豆が二つ潰れていた。魔力が巡っている間は痛みが遠くなるが、消えてくれるわけではない。
◇ ◇ ◇
岩場の作業は、毎朝、親方の白墨から始まった。
親方が岩を撫でて目を読み、割る線を引く。弟子がその線に沿って鑿で浅い穴を彫り、鉄の楔を差し込む。ここまでは、石工のいつものやり方だ。
違うのは、その先だった。
普通なら、石工は楔の頭を槌で少しずつ叩いて、何百回も叩いた頃にやっと岩が割れる。ロウェンは、それを一回か二回で済ませた。
大槌は腕で振らない。足を肩幅より広く開いて、槌を右肩の後ろへ担ぐ。振り下ろしは腰から始まる。尻と腿の裏が地面を踏みつけ、骨盤が前へ回り、それに引っぱられて胴のねじれが戻る。背中の広い筋肉が、担いだ槌を肩の上から前へ引き下ろし、腕の出番は最後の一瞬だけ。肘を伸ばし、前腕で柄を握り込んで、槌の頭を楔の真上に揃える。
当たった瞬間、衝撃が柄を逆流してくる。それを受けるのは前腕と手首だ。握りが緩めば槌が暴れ、握りすぎれば衝撃が肘まで突き抜ける。柄が折れるのは、握りすぎた時だった。五日目にして、ようやくその加減が分かりかけていた。
割れた岩の塊は、一つが大人三人分くらいの重さになる。ロウェンはそれを抱え上げて掘り割りの外へ運び出し、親方がその中から使えるものを選り分けて脇に積ませていた。
「何に使う」
「水路の岸に並べます。土の岸は水が漏れますが、石を組めば漏れにくい。古い水路が水を半分なくしとったのは、若様も測られたでしょう」
削った岩が、そのまま新しい水路の岸になる。ロウェンの計算表には、その行がなかった。
「……助かる」
「石工の仕事ですから」
バルガスは、毎朝岩場に来た。来るとまず作業場の周りをぐるりと一周し、割れた破片が飛ぶ範囲に縄を張る。縄の内側には、ロウェンと親方と弟子以外、誰も入れない。見物に来た村の子供が縄をくぐろうとした時は、首根っこを掴んでひょいと外へ戻した。
三日目、ロウェンの割った破片が縄の外まで飛んだ。バルガスは黙って、縄を一メートル外に張り直した。
五日目の午後には、掘り割りの底に立つと両側の岩壁が肩の高さを越えるようになった。バルガスは縄をやめて、掘り割りの縁に騎士を一人ずつ立たせた。岩壁の上から石が落ちてこないか、見張らせるためだ。
「おい。上ばっかり削るな。壁がせり出してる」
「分かっている」
「分かってる奴は、そこで槌を担がねえんだよ」
言われて見上げると、確かに左の壁が上のほうでわずかに手前へせり出していた。このまま下を削れば、上の岩が支えを失う。親方がすぐに、張り出しに新しい白墨の線を引いた。
その日の夕方、縄の外に見慣れた顔があった。
下流の古い畑の、あの年配の男だった。畑の帰りなのか、鍬を肩に担いでいる。口をつぐんだまま掘り割りの底を見下ろしていたが、ロウェンが岩の塊を抱えて縁まで上がってくると、足元に置いていた素焼きの水差しを、無言で縄の内側へ押しやった。
「……うちの畑にも、水は回るんだろうな」
「回る。西畑で取りすぎないように、分ける口を二つ作る」
男は返事をしなかった。水差しを置いたまま、鍬を担ぎ直して帰っていった。
水差しの水は、汲んだばかりの井戸水みたいに冷たかった。
◇ ◇ ◇
十二日目の夕方、最後の楔が打ち込まれた。
掘り割りは長さ百二十メートル、いちばん深いところで四メートル。底は親方が水平器で確かめながら、西畑へ向かってわずかに下るように均してある。その先の土の区間は、フィオナが集めた村の男たち二十人が並行して掘り進め、岸には割った岩がずらりと並んでいた。
残るは、取水口のすぐ脇、古い水路と新しい掘り割りを隔てている土の堰だけだ。
堰の上には、人が集まっていた。トーマがいた。西畑の若い農夫がいた。下流の年配の男もいた。最後の一掻きを誰がやるかで少し揉めて、結局三人で同時に鍬を入れることになった。
ついこの間、一枚の堰板を奪い合っていた手が、今は一つの堰を揃って崩している。
土が、崩れた。
川の水が、新しい水路へどっと流れ込んだ。
最初は泥を巻き込んだ茶色い舌みたいだった水が、岩の区間に入った途端、すうっと澄んで速くなった。岩の岸は水を吸わない。一滴も減らないまま、水は真っすぐ西へ駆けていく。
村の子供たちが、水の先頭を追いかけて土手を走り出した。つられて何人かの大人も走り出す。
ロウェンは掘り割りの縁に立ったまま、流れの速さを目で測っていた。振り子で数えるまでもない。古い水路の倍近く速い。西畑の上端まで三キロちょっとだから、二時間はかからないだろう。
「……予定より二日早いな」
独り言のつもりだった。隣にフィオナがいることには気づいていた。
「柄の予備を、多めに頼んでおいたのが効いた」
一拍おいて、隣から、ぶふっ、と堪えきれなかったような音がした。
振り向くと、フィオナが口元を手で押さえていた。指の隙間から笑い声が漏れ、肩が震え、抱えた帳面が揺れている。
「そこ……そこなの?」
「何がだ」
「岩を百二十メートル割って、川を一本通して、最初に言うのが……柄の予備……っ」
最後まで言えずに、フィオナはまた笑った。明るくて、少し掠れた声だった。部屋の空気に向かって放り投げた声ではなかった。
ロウェンには、何がそんなに可笑しいのか分からなかった。柄の予備がなかったら、七日目と九日目に作業が半日ずつ止まっていたはずなのだ。それを説明しようとして――やめた。フィオナが笑い終わるまで、待つことにした。
水の先頭は、もう丘の向こうに見えなくなっていた。
その晩、大人たちの賭けの一番人気が「秋まで」に動いたと、フィオナが教えてくれた。ロウェンはそれを、季節ひとつ分の昇格だと受け取ることにした。
◇ ◇ ◇
夕方、ロウェンは水路に沿って下流まで歩いた。
西畑の脇を過ぎると、水路の土手には村の人たちが点々と立っていた。乾いた畝に水を引き込む者、桶に汲んで家へ運ぶ者。畑の端では、トーマの女房らしい女が両手で水をすくって顔を洗い、そのまましばらく顔を上げなかった。
水路のいちばん下流、あの孫娘のいる畑にも、水は届いていた。
縮れかけていた麦の畝の間を、細い水の筋が這っていく。石の家の戸口にいた女の子が、裸足で畦に座り込み、流れてくる水に両手を浸けていた。冷たいのか、手を入れては引っ込め、また入れては引っ込めて、そのたびにきゃっきゃっと声を上げて笑っている。
年配の男は、畑の真ん中に立っていた。ロウェンに気づくと、何も言わずに深く頭を下げ、そのまま長いこと上げなかった。
ロウェンは会釈を返して、来た道を戻った。何か言葉をかけるべきなのかもしれない。でも何を言っても、あの笑い声より上等なものにはならない気がした。
その夜、古い水路の上流側は、取水口の脇で板を差して閉じられた。丘の裾を七キロ回っていた区間は、もう用がない。
◇ ◇ ◇
三日後の朝、トーマが館まで知らせに来た。
新しい水路の岸の泥に、見慣れない足跡が並んでいるという。




