第7話 高低差の話
「騎士の仕事じゃねえ」
バルガスは、目盛りを刻んだ長い棒を肩に担いだまま言った。
棒の長さは三メートル。大工が一晩で削り出し、一センチごとに墨の線、十センチごとに刻み目を入れてある。バルガスの後ろには、同じ棒を担いだ騎士が二人。三人とも、剣の代わりに、線を引くための墨壺と麻紐を腰にぶら下げていた。騎士の誇りと目盛り棒とが、朝からひとつの体の上で折り合いをつけられずにいる。
「村の男たちは畑の水の番で手が離せない。騎士隊は今、手が空いている」
「空いてねえよ。見回りがある」
「見回りの道順は、この測量の線に沿って組み直した。ガレスに頼んである」
バルガスは何か言い返そうとして、ガレスを見た。ガレスは穏やかに頭を下げただけだった。逃げ道は、老執事の手ですでに丁寧に塞がれていた。
「……で、この棒をどこに立てりゃいい」
「俺が手を上げた場所だ」
◇ ◇ ◇
川の取水口から西畑の上端まで、ロウェンは地図の上に一本の直線を引いていた。
古い水路は丘の裾を回って七キロ。真っすぐ引けば三キロと少し。ただし水は、線を引いた通りに流れてくれるわけではない。取水口から西畑まで、どこも少しずつ下っていなければならず、途中に一か所でも高いところがあれば、水はそこで止まってしまう。
だから、線の上の高さを測る。
大工に作らせたのは、長さ三メートルの細長い台だった。天板の真ん中に溝を彫って水を張り、溝の縁と水面が揃うように脚を調整すれば、天板は水平になる。両端に錘を吊るした糸も下げて、傾きを二重に確かめる。前世の教科書の、「古代の技術」のページに載っていた道具だ。覚えていたのは絵と仕組みだけで、寸法は大工と相談して決めた。
水平にした天板の先に目盛りの棒を立て、天板の高さと、視線が当たった目盛りとの差を読めば、二点の高低差が分かる。五十メートル進むごとに台を据え直して、それを繰り返す。
「若様、それを六十回以上なさるおつもりで」とガレスが言った。
「六十四回だ」
「承知いたしました。お昼は、この先の木陰にご用意いたします」
測量は二日がかりになった。
バルガスは最初の半日、棒の立て方にいちいち文句を言われては「傾いてねえ」と言い返していた。錘の糸を横に並べて見せると、黙った。午後になる頃には、ロウェンが手を上げる前に次の地点へ歩き出すようになっていた。文句の多さと仕事を覚える早さは、この男の中では別の勘定らしい。
夕方、三十二回目の地点で、バルガスは棒にもたれて汗を拭った。
「去年の秋、騎士隊を丸二日、狩りで鹿を追い立てる役に使われたことがある。若様の友達だっていう王都の坊ちゃんたちが、鹿を撃ちたいってな。鹿は一頭も獲れなかった」
ロウェンは台の水面を見たまま、答えなかった。その秋のことは、ぼんやりと記憶に残っていた。
「今日のも、騎士の仕事じゃねえのは同じだ」
バルガスは棒を担ぎ直した。
「……まあ、鹿を追い回すよりは、ましだ」
それだけ言って、次の地点へ歩いていった。
◇ ◇ ◇
二日目の昼は、丘の上の栗の木陰で食べた。ガレスが用意させた籠には、黒パンと固ゆで卵と塩漬け豚の薄切り。卵は一人一個で、騎士の一人が殻をものすごく名残惜しそうにゆっくり剥いていた。
丘の上からは、グレイヴ領がほとんど一望できた。北から南へ蛇行する川。その西に、起こしたばかりの西畑が黒い四角になって見える。周りの畑は、ところどころ緑が抜けて黄ばんでいた。東には領都の灰色の屋根と館の塔。その向こうには春に越えた峠の山並みが続き、北の空の果てに、頂に雪を残した山々が壁のように連なっていた。
「あの山の向こうが、魔境だ」
バルガスが、パンを持った手で北を指した。
「人の住む土地じゃねえ。魔物の数が桁違いでな。たまに迷い出てきたのを、俺たちが追い返す。去年の冬に旦那様が怪我をなさったのも、あっちから下りてきた群れだった」
原作で魔王が復活するのも、確かその方角だったはずだ。いつかはあの山の向こうのことも、計算に入れなければならなくなるのだろう。
雪を載せた山々は、昼の光の中で、ひどく遠く、静かに見えた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、目盛りの棒は丘の中腹に立った。
夏草の斜面を登りきったところに、灰色の岩が地面から突き出している。幅はおよそ百二十メートル。丘の尾根が南へ張り出した、その付け根を横切るように岩の帯が走っていた。
バルガスが、棒を岩の上に立てる。ロウェンは天板から目を離して、手元の紙に数字を書き込んだ。
「……高いな」
その夜、執務室の机に紙を並べた。
取水口から西畑の上端まで、直線で三・二キロ。高さの差は五・四メートル。水を流すには十分な勾配だ。ただし、あの岩場だけが盛り上がっている。直線を通すなら、岩の帯を百二十メートルにわたって削り、いちばん高いところで四メートル近く掘り下げなければならない。幅を二メートルとすれば、削る岩はおよそ四百八十立方メートル。
「石工に頼むと、どうなる」
「鑿と楔で割るなら、腕のいい石工が一人で一日に、せいぜい一抱えほどだそうでございます」とガレスが言った。領都に一人だけいる石工の親方に、話を聞いてきたのだという。「あの硬さですと、十人集めても半年では終わらぬと」
「十人は集まるのか」
「領内には、親方と弟子が一人おりますだけで」
二人である。
フィオナが、机の反対側で別の紙を広げた。
「じゃあ、こっちも見て。岩場を避けて南側を回る新しい水路の案。トーマさんたちと歩いてみたの。長さは四・五キロで、ずっと土だから掘るのは楽。でも土の水路は、人手の数がそのまま日数になる」
鉛筆で数字を指す。
「一人が一日に掘れる土が、三立方メートルくらい。全部で四千五百立方メートルだから、延べ千五百人。村の男を五十人集めて三十日。でも今は畑がいちばん忙しい時期だから五十人は集まらないし、集めたら今度は畑が回らない。お給金も、既定の予算で出せるのは二十人を二十日まで」
「足りないな」
「全然足りない。ついでに言うと、土の水路は今のと同じで、岸から漏れる」
ロウェンは二枚の紙を並べた。土を四千五百立方メートル掘るか、岩を四百八十立方メートル削るか。量だけなら岩のほうが十分の一で済む。難しいのは、硬さだ。
石工が一日に割れる量は、楔を打つ槌を振るう回数と、一回の打撃の強さで決まる。
その回数と強さを、何倍にできるか。
ロウェンは右手を開いて、閉じた。犂を引いた十四日間で、腿と背中がどれくらいもつかは分かった。でも、槌を振るう腕と肩がどれくらいもつかは、まだ試していない。
それなら測ればいい。
◇ ◇ ◇
翌朝、ロウェンは石工の親方を連れて例の岩場の前に立った。
親方は白い髭の小柄な老人で、岩の表面を掌で撫でながら、亀裂を一本一本指でたどっていった。
「この岩は、目が走っとります」
「目?」
「割れやすい向きのことです。この筋に沿って楔を打てば素直に割れる。逆らって打てば、鑿がいくらあっても足りません」
親方は岩の上に、白墨で何本か線を引いた。
ロウェンは親方から大槌を借りた。柄の長さが一メートル近くあり、頭は鉄の塊で、片手で持つと腕がぐっと下に引っぱられる。親方が打ち込んだ楔の頭に狙いを定め、身体強化をごく弱くかけて――一度だけ、振り下ろした。
カァン、と乾いた音がした。
白墨の線に沿って、岩の表面に一本の亀裂が走った。端から、端まで。
親方は亀裂を見下ろしたまま、長いこと動かなかった。それからしゃがみ込んで亀裂に指を差し入れ、奥まで真っすぐ割れているのを確かめた。
「……わしが同じ線を割るのに、朝から昼までかかります」
後ろで弟子が、大槌とロウェンの顔を交互に見比べていた。
見守っていたガレスが、一歩進み出た。
「若様。一応うかがいますが、南回りの案は」
「必要ない」




