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理論上、肉体で解決します ~悪役貴族に転生した頭脳派、計算するとだいたい自分が重機になる~  作者: にじいろウニ


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第6話 水が足りない

 初夏の畑で、二人の男が一枚の板を奪い合っていた。


 一人は西畑の若い農夫で、もう一人は用水路の下流、東寄りの古い畑を持つ年配の男だ。二人が奪い合っているのは堰板《せきいた》で、水路の途中に差し込んで脇の畑へ水を引き込むための板だった。若い男が差し込めば下流の水が減り、年配の男が抜けば西畑の水が減る。


 ロウェンが着いた時には、その板はもう真っ二つに割れていた。争いの果てに勝者は出ず、堰板だけが討ち死にした格好だった。


「西畑が水を取りすぎなんだ! 去年までは、うちの畑まで十分に来てた」


「こっちは若様が起こした畑だぞ。芽が出たばっかりなのに、干上がらせろってのか!」


 若い男は言ってから、ロウェンの顔を見て口を閉じた。ロウェンの顔は、黙っているだけで怒っているように見えるのだ。


「どちらの言い分も分かった。割れた板は、あとで新しいのを作らせる」


 どちらの肩も持たなかったことに、二人とも、振り上げた拳の下ろし場所に困ったような顔をしていた。


 ロウェンは年配の男について、下流の畑まで歩いた。水路の終わり近く、東の低い土地にその畑はあった。畑の端に小さな石の家が建っていて、戸口の前で五つか六つの女の子がしゃがみ込み、小石を並べて遊んでいる。男の孫だという。息子夫婦は二年前の冬に南の町へ出稼ぎに行ったきり、戻ってこないらしい。


「この畑の麦が、あの子とわしの一年分なんです」


 男が茶色く縮れた麦の葉を一枚つまむと、葉は指の間でかさりと乾いた音を立てた。


「西畑が起きたのは、めでたいことです。本当に。村の連中が、何年ぶりかで笑ってる。……だから余計に、言いにくかった」


 女の子が顔を上げて、ロウェンをじっと見た。目つきの悪い大男を怖がるでもなく、ただ珍しそうに。ロウェンはその純粋な瞳を前に、どういう顔を返せばいいのか迷った。



                ◇ ◇ ◇



 西畑の大麦は、膝の下まで伸びていた。豆も本葉を広げている。けれど畝の間の土は白く乾いて、指で押すとぱらぱら崩れた。


 春の終わりから、雨がほとんど降っていないのだ。空は毎日、畑に向かって日差しを当てていた。昼を過ぎると畑の上に陽炎が揺れ、畦道は踏むたびに白い土埃が舞った。村の井戸も、ひと月前より深くまで釣瓶を下ろさないと水が汲めなくなっていると、女たちがこぼしていた。


 話を聞いたフィオナは、すぐに水路沿いの畑の持ち主を全員集めた。


「当面は、日を決めて交代で引こう。西畑が二日、下の畑が二日。夜の間は下流に回す。板を差す人は、日が昇る前に差して、村の掲示板に名前を書くこと。守らなかった人の畑は、次の番を一回飛ばす」


 誰かが「それじゃ足りない」と言った。フィオナは頷いた。


「足りないよ。だから当面なの。その間に、ロウェンが何とかする」


 そう言ってロウェンを見る。集まった農夫たちの視線も、一斉についてきた。その目には「若様が?」と書いてあった。半信半疑というより、八割くらい疑っている目だった。


 何とかする、とは一言も言っていない。


 言っていないが、否定する理由もなかった。


「水の量を測る。川から取り込む口と、西畑の手前と、いちばん下流の三か所で」



                ◇ ◇ ◇



 測り方は単純だ。水路の真っすぐな区間に、十メートル間隔で杭を二本打つ。上流の杭のところで乾いた葉っぱを流し、下流の杭を通り過ぎるまでの時間を数える。


 問題は、時間を数える道具がないことだった。館には大きな振り子時計がひとつあるが、まさか畑まで担いでくるわけにもいかない。


 そこでロウェンは、麻紐の先に小石を結び、紐の長さを一メートルに切りそろえた。長さ一メートルの振り子は、片道がほぼ一秒。前世の教科書に載っていた数字だ。世界が変わっても、振り子の律儀さは変わらないらしい。


 いつの間にか、村の子供が三人、すぐそばまで寄ってきていた。


「若様、なんで石ぶら下げてるの?」


「時間を数えるためだ」


「石が数えるの?」


「石は揺れるだけだ。数えるのはお前たちだ」


 ロウェンは子供たちに役を振った。一人が上流で葉っぱを落とし、一人が振り子の揺れを声に出して数え、一人が下流で葉っぱが通った瞬間に手を上げる。子供たちは最初の二回を笑いすぎて数え損ね、三回目からは妙に真剣な顔になった。振り子係の女の子が「いーち」「にーい」と声を張り上げ、その声が水路沿いの畑じゅうに響き渡る。


 葉っぱは十メートルを、十四回の揺れで流れた。


 同じことを五回やって平均を取り、水路の幅と深さを何か所かで測って、断面の広さを出す。流れる速さに断面の広さを掛ければ、一秒あたりの水の量が出る。細かい誤差は気にしない。知りたいのは場所ごとの比率だ。


 川の取水口の量を十とすると、西畑の手前では六を切っていた。いちばん下流では、四に届かない。


 途中で、半分近くが消えている。


「……水が、どこかに逃げている」


 古い用水路は、川から西畑まで、丘の裾をぐるりと回り込むように弧を描いていた。全長はおよそ七キロ。土を掘って岸を盛っただけの水路で、あちこちで岸が崩れ、水が脇の草地へ染み出している。底には泥が溜まり、水草が茂り、流れの遅い淀みでは水面が日差しにぬるく温められていた。


 崩れた岸にしゃがみ込むと、湿った土の下から、細い流れがちょろちょろと草の間を抜けていくのが見えた。こういう場所が、七キロの間に何十か所もあるのだろう。一つ一つは小さくても、距離が長い分、足し合わせれば馬鹿にならない。


「岸を直して泥を浚《さら》えば、少しは戻るか」


 独り言のつもりだったのに、背後から返事があった。


「毎年、秋の収穫が終わりましたら、村総出で浚っておりました。この数年は、人手が足りずにおりましたが」


 ガレスだった。いつの間にか、土手の上に立っている。この老人は、足音というものを屋敷に置いてくる習慣でもあるらしい。


「浚っても、翌年の夏にはまた同じだけ減るということか」


「さようでございます。……先々代がこの水路をお引きになった折の記録によりますと、当初は川から西畑まで、もっと真っすぐに引くおつもりだったとか」


「なぜやめた」


「途中に岩場がございまして。掘れば鑿《のみ》が欠けるほど硬いと。仕方なく丘の裾を回ることにして、およそ倍の長さになったと記されております」


 ガレスが手を差し伸べた先、水路が大きく回り込んでいる丘の中腹に、灰色の岩肌が帯のように露出していた。



                ◇ ◇ ◇



 帰り道、フィオナが水路沿いの畦を歩きながら言った。


「さっきは勝手に、ロウェンが何とかするって言っちゃった。ごめん」


「構わない。何とかするつもりではいた」


「別に、信じたから言ったわけじゃないよ。ああでも言わないと、あの人たち板を割り合うのやめないから。……できなかったら、ロウェンが一軒ずつ謝りに回ってね」


「分かった」


「……そこは、ちょっとは嫌がってよ」


 フィオナは、割れた堰板の片方を拾い上げた。


「水が足りない時って、人は自分の畑の分しか見えなくなるの。どっちも悪くないのに、隣の畑が敵に見えてくる。そうなる前に、誰かが上から決まりを置かないと」


 ロウェンは、水の量のことしか考えていなかった。割れた板の向こうにいる人間のことは、フィオナのほうがずっとよく見えている。


「交代の決まりは、何日もつ」


「決まりのほうは、いくらでももつよ。もたないのは水のほう」


 その日の夕方、ロウェンは取水口の土手から川を見下ろしていた。


 雨の少ない初夏でも、川は黙々と流れている。取水口から水路へ入る量なんて、この川にとっては脇腹のかすり傷みたいなものだ。取り込む量を増やしたところで、七キロの道のりで同じ割合が消えていくだけだった。


 いつの間にか隣に来ていたフィオナが、帳面を閉じた。


「半月。水路の畑を全部数え直したけど、交代でもたせられるのは、やっぱりそのくらい」


「分かっている」


 ロウェンは、川面から目を離さなかった。


「川には水がある。届いていないだけだ」

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