第5話 犂を引く
重い犂は、納屋の奥で埃をかぶって眠っていた。
樫の太い梁に、指二本分もの厚さの鉄の刃。刃の後ろには、切った土を横へ返すための湾曲した板が据えられ、梁の先には牛の引き綱を掛ける鉄の輪がついている。大人二人がかりでやっと持ち上がる重さで、十年ぶりに引っぱり出された姿には、引退した老兵のような貫禄があった。
鍛冶屋が二日かけて刃を研ぎ直し、錆びた留め金を打ち替えた。その間にロウェンは、大荷車の時と同じ要領で、牛の軛の代わりを作らせた。厚い樫の横木に毛布を巻き、両端から太い綱を犂の輪まで伸ばす。横木を胸に当てて綱を脇の下に通せば、引く力を胸から背中全体で受けられる。
犂を畑へ運び出した朝、西畑には薄く霧が這っていた。枯れ草の穂先に露が溜まり、差し始めた朝日がそれを一粒ずつ光らせていく。どこか高いところで雲雀が鳴いていた。姿は見えないのに、声だけが空の一点から降ってくる。
石垣には、ずらりと人が並んでいた。
トーマたちだけではない。村の女や年寄り、子供までいる。少し離れたところにはガレスとバルガスの姿もあり、フィオナは石垣の端に腰掛けて帳面を膝に置いていた。「怖い若様が牛の代わりをするらしい」という噂が、一晩で村を一周したようだった。見物の顔ぶれは、励ましに来たというより、珍しい見世物を見に来たという顔をしている。いちばん後ろには、あの時言葉を吐き捨てた若い男が腕を組んで立っていた。
「犂の柄は、俺が持ちます」
トーマが言った。
「深さと向きは、柄を握る者が決めるんです。刃が浅けりゃ根の上を滑るし、深けりゃ梁が折れる。牛八頭の組なら、前で牛を追う者があと二人要りますが……」
トーマは、横木を胸に当てているロウェンを見た。
「……今日は、要らないんでしょうね」
「要らない」
石垣のほうで、誰かがぶふっと吹き出した。
◇ ◇ ◇
最初の一歩は失敗だった。
ロウェンが踏み込んだ瞬間、犂が前へすっ飛んだ。刃が土に噛む前に梁ごと引きずられ、柄を握っていたトーマが前のめりにつんのめる。慌てて止まると、犂は地面を二メートルほど滑って、ごろんと横倒しになった。枯れ草の表面に、浅い傷が一本ついただけだった。
トーマは膝の土を払いながら言った。
「若様。牛は、もっとゆっくり歩きます」
「……すまない。どのくらいだ」
「人が普通に歩くくらいで。刃が土に噛むまで、最初は待ってください。噛んだと思ったら、こっちから声を掛けます」
速さの問題だった。牛八頭の代わりをするなら、牛八頭と同じ速さで歩かなければ意味がない。
もう一度、横木を胸に当てる。トーマが柄を押し下げて、刃先を地面に立てる。ロウェンは魔力を込めず、ただ体重を前に預けて、綱が張るのを待った。
「……今です」
背中の後ろで、トーマが言った。
魔力を、流し込んだ。
刃が根の層に食い込んだ瞬間、横木から伝わってくる重さが一変した。さっきまでの、ただ物を引きずる重さとは違う。何千本もの細い根が絡み合って刃を押し返し、その下の締まった土が刃の腹にへばりついて離れない。十年かけて編まれた大地の敷物が、剥がされてたまるかと総出で抵抗してくる――そんな手応えが、綱を伝い、横木を伝って、胸骨にまともにのしかかってきた。
上体を前へ倒す。胸で受けた重さを、そのまま背中に流す。肩甲骨の内側から腰へ走る広背筋が、綱に引かれる力に逆らって胴を後ろへ引き戻し、体全体を一本の太い梁に変える。腕は使わない。腕で引けば、肘と肩が先に根を上げる。
力は、脚から出す。
右足を前に置き、足裏の前半分で地面を捉える。まだ耕していない硬い地面が、今はありがたかった。踏んでも崩れない。尻の筋肉がぎゅっと締まって右脚を後ろへ押し出し、腿の裏がそれを引き継ぎ、最後にふくらはぎが足首を蹴って、残った力の最後の一滴までを前へ送り出す。
左足が前へ出る。同じことを、もう一度。
背後で、音がした。
ざりざりざり、と布を裂くような音だった。刃が根の層を断ち切り、その下の土を持ち上げる。湾曲した板が土をひねって横へ倒し、濃い茶色の断面が朝日にさらされていく。一歩ごとに、その音が続いた。
二歩で吸い、二歩で吐く。額の汗が目に入りかけ、瞬きで払う。胸の横木の下で、毛布がじっとり湿っていくのが分かった。
魔力はまだ半分も使っていない。それに対して、腿は昼までもたない気がした。関節より先に筋肉が悲鳴を上げる。今朝の粥の量では足りなかったかもしれない――と、頭の片隅で真剣に反省した。
「若様、右に寄ってます」
「分かった」
向きを少し直すと、刃の音が一瞬だけ高くなって、また元に戻った。
畑の端に着いて振り返ると、一本の黒い筋が、枯れ草の海を真っすぐに割っていた。
石垣の上は、しんと静まり返っていた。
最初に口を開いたのはガレスだった。隣のバルガスに、いつもの穏やかな調子で言う。
「念のため申し上げますが、通常、犂は牛が引くものでございます」
「今さらだろ、ガレスさん。峠の荷車も見たんだ。……しかし、荷車の時より深く入ってやがる」
ガレスは返事をせず、懐から手帳を出して何かを書きつけた。何を書いたのかは、ロウェンの位置からは見えなかった。
子供が一人、石垣から飛び降りて、掘り返されたばかりの土に駆け寄った。しゃがみ込んで両手で土をすくい、母親らしい女のほうへ差し上げる。黒く湿った土が、小さな指の間からぽろぽろ零れていた。
トーマは柄を握ったまま、ぜえぜえと肩で息をしていた。
「……若様」
「何だ」
「すみません、代わりの者を呼んでもいいですか。俺の腕のほうが、先にもちません」
◇ ◇ ◇
全部で、十四日かかった。
犂の柄を握る役は、トーマと村の男たちが半日ごとに交代した。
交代の順番には、あの若い男の名前だけが入っていなかった。本人が断ったのだという。それでも若い男は毎日、少し離れた畦に座って、犂が進むのを腕組みしたまま見ていた。
三日目あたりから、村の子供たちの間で賭けが始まった。若様がいつ「もうやめた」と言い出すか、だ。賭け札は干し杏で、一番人気は「五日目」。大穴は「今日の昼飯のあと」。
フィオナがどこからかそれを聞きつけてきて、真顔でロウェンに教えた。
「私は七日目に三つ賭けたから。よろしくね」
「……負けさせる」
「うん。そうして」
五日目が過ぎ、七日目が過ぎた。フィオナは干し杏を三つ失ったが、なぜか少し機嫌がよかった。
子供たちの賭けはそれで終わったが、今度は大人たちが、新しい賭けを始めたらしい。若様の気まぐれが、いつまで続くか。一番人気は「夏まで」だった。
鍛冶屋は畑の脇に炉を据えて刃を研ぎ続け、昼には村の女たちが粥と黒パンを運んできた。ロウェンは朝昼晩、三度しっかり食べた。二日目からは、粥の椀がひと回り大きくなっていた。
三日目に、梁に細い割れが入った。牛八頭でもかからないような力が、何度も繰り返しかかったせいだと鍛冶屋は言う。ロウェンは一日に進む距離を落とし、鍛冶屋は梁に鉄の帯を二本巻いた。力を出せる者がいても、道具のほうに限界があった。
五日目の晩には、フィオナが帳面を開いて言った。
「ロウェンの食費、今日で牛一頭の飼い葉代を越えたよ」
「牛八頭分の仕事をしている」
「うん。だから文句は言ってない。記録してるだけ」
そう言って、帳面の端に小さく「若様 食費」と書き足す。その行は以後、一日も欠かさず増えていった。
十四日目の夕方、最後の一本の筋が石垣の外の端まで届いた。枯れ草色だった四十ヘクタールの土地が、黒い土の縞で埋め尽くされている。起こした土の塊は村の人手で砕かれ、畝が立ち、大麦と豆の種が落とされていった。蒔きどきには、ぎりぎり間に合った。
◇ ◇ ◇
種蒔きの朝、トーマたちは祠の人形を畑へ運んできた。
去年の人形に、村の女たちがこの二晩で藁を編み足したのだという。「四十ヘクタールに見合う大きさにしよう」と誰かが言い出して、継ぎ足し継ぎ足しした結果、人形は子供の背丈ほどになっていた。腰の赤い布切れも、三本に増えている。
起こしたばかりの畑の真ん中で、村の年寄りが人形に火を点けた。乾いた藁が一気に燃え上がり、白い煙が朝の空へまっすぐ昇っていく。子供たちが煙の周りを駆け回り、女たちが灰を籠で受けては畝に撒いて歩く。誰かが歌い出した。ロウェンの知らない、短い節を繰り返す歌だ。刈り入れと、雨と、腹いっぱいのパンの歌だと、フィオナが隣で教えてくれた。
歌は、途中から村じゅうの声になった。
ロウェンは畑の端で、胸の横木に擦れた跡をさすりながら、それを聞いていた。歌の輪は、ロウェンのいる端の手前で、きれいに途切れていた。誰も若様を呼ばなかったし、若様も入っていかなかった。当然だと思った。畑を起こしたのは十四日だが、前のロウェンが村に積み上げてきたものは、十四日では崩れない。
それでも、十四日の間、背中で聞いていたのは刃が土を裂く音と、自分の呼吸と、柄を握る男たちの掛け声だけだった。この畑にこういう音があることを、ロウェンは知らなかった。
その夜、トーマの家の前を通りかかると、戸口に座っていたトーマが立ち上がって頭を下げた。石垣一つ分の距離は、半分くらいにはなっていた。おそらく。
「若様。村の連中が若様のことを何て呼んでるか、ご存じですか」
「知らない」
「……『頭を打った若様』です」
「…………」
「いや、まあ。悪い意味じゃないです。たぶん」
トーマはそれ以上言わず、畑の脇を流れる古い用水路に目をやった。先々代が引いたという、川から西畑まで続く水路だ。しばらく流れを眺めてから、トーマは眉間に皺を寄せた。
「水が、去年より低いな」




