第4話 土が硬い
鉄の棒は、指三本分しか刺さらなかった。
ロウェンは西畑に膝をついて、地面に突き立てた棒を見下ろしていた。鍛冶屋に打たせた、長さ一メートルほどの細い鉄の棒だ。体重を乗せずに片手で押し込めば、普通の畑なら半分近くまで沈む。
指三本分。およそ五センチ。
場所を変えてもう一度刺しても、やっぱり同じところで止まった。石に当たった手応えではない。土そのものが、カチカチに締まった粘土の塊みたいに押し返してくるのだ。
大荷車での運搬は、この三週間で七往復になっていた。道はようやく乾き始め、昨日はハロルドの荷馬車が二台、初めて峠を越えてきた。蔵の数字は減るのをやめ、少しずつ増え始めている。ロウェンが峠に張りついている理由は、もうなくなった。
だから今日は、西畑に来た。
「若様が、何のご用で」
畑の縁の石垣に、男が四人並んでいた。先頭は日に焼けた四十前後の男で、肩が厚く、指が太い。この近くに住む農夫のトーマだ。ガレスに頼んで呼んでもらったのだが、後ろの三人は呼んだ覚えがない。心配してついてきたのだろう。
彼らはロウェンから、石垣一つ分の距離を空けていた。怖い若様に近寄りすぎないための、村の知恵みたいな距離だった。
「この畑を、もう一度使えるようにしたい」
トーマの後ろの若い男が、小さく鼻で笑った。トーマがすかさずその男の足を踏んだのが、ロウェンの位置からもよく見えた。
「……使えるなら、とっくに使ってますよ」
トーマの声は丁寧だった。その丁寧さがロウェンに、領民との距離を思い知らせていた。
すると、さっき笑った若い男が、もう我慢できないという顔で口を開いた。
「だいたい、若様に畑のことなんか分かるのかよ。去年の秋、若様の狩りの馬が、うちの冬麦の畑を真ん中から踏み荒らしていったんだぞ。芽が出たばっかりだったのに、笑いながら!」
「おい」
トーマが低い声で止めた。ほかの二人の顔から、さっと血の気が引く。領主の息子に向かって言っていい言葉ではない。前のロウェンがこういう時に何を言い、何をさせてきたか――記憶を探るまでもなく、四人の顔に全部書いてあった。
ロウェンは、その踏み荒らした畑のことを思い出そうとした。
何も出てこなかった。覚えてすらいないほど、どうでもいいことだったのだろう。そのことが、何を言われるより重かった。
「……それは、すまなかった」
若い男が、口を開けたまま固まった。トーマも、残りの二人も、動かなかった。石垣の上を風が渡って、枯れ草がさらさらと鳴る。
やがて若い男は、ぷいと顔を背けた。
「……謝ったって、あの麦は戻らねえよ」
吐き捨てるように言うと、石垣から飛び降りて、村のほうへ歩いていってしまった。トーマが呼び止めかけて、やめた。
まあ、そうなる。謝って済むなら、村の人たちは最初から石垣一つ分も離れて立っていない。
「埋め合わせになるかは分からないが、この畑で返したい。だから教えてくれ。なぜ使えない」
トーマはロウェンの顔を見つめたまま、ひと呼吸置いてから答えた。
「……硬いからです」
「その硬さを、実際にやってみせてくれないか」
◇ ◇ ◇
残った男の一人が村へ走り、牛を二頭と、ありふれた木の犂を引いて戻ってきた。刃は薄い鉄板を打ちつけただけの、どこの村でも使っている型だ。
トーマが柄を握り、連れてきた男が牛の鼻綱を引く。牛が歩き出すと、犂の刃は枯れ草の上に斜めに乗り、そのまま地面の表面をするすると滑っていった。時々根の層に引っかかっては跳ね、そのたびに柄が暴れてトーマの腕が振り回される。十メートルほど進んだところで、牛が首を振って足を止めた。
牛のほうが先に、この勝負は無駄だと悟ったらしい。
後に残ったのは、草の表面をこすった白っぽい筋が一本だけだった。
「これが、この畑です」
トーマは痺れた指を何度も握り直した。ロウェンがしゃがんで筋の跡をなぞってみると、根の層は削れてさえいない。押しつぶされた草が、ちょっと寝ているだけだった。
トーマの話は、途中からだんだん長くなった。
十年前に日照りが二年続き、西畑の麦が立ち枯れた。人手が足りなくなり、その間に村の牛が半分に減った。耕せなくなった畑には羊飼いが羊を放すようになり、羊は草を食べ、蹄で地面を踏み固めた。草は根を張り、根は年ごとに厚くなり――そうして、踏み固められた土の上に、根の絡まった草の層ができあがったのだという。
「鍬じゃ跳ね返されます。普通の犂でも、今ご覧になったとおりで」
ロウェンは小刀で、足元の草の塊を四角く切り出してみた。表面から深さ十センチほどが、細い根で編んだ敷物のようになっている。その下の土は色が濃くて、指でつまむとほろりと崩れた。
根の層の下は、ちゃんと生きている土だった。
つまりこの畑に足りないのは、広さでも肥えた土でもない。上に被さった十センチの蓋を、剥がす手段だ。
「下は柔らかいな」
「二十センチも掘ればね。そこまで届く犂がないんです」
「どこに行けばある」
トーマは少し黙った。
「……じいさんの代に荒れ地を起こすのに使った、重い犂なら村の納屋に。刃が厚くて、深く入る。ただ、あれは牛を八頭並べて引く代物です。今の村には、牛が三頭しかいない」
ロウェンは立ち上がり、歩数を数えながら畑を端から端まで歩いた。縦がおよそ八百歩、横が六百歩と少し。一歩を七十センチとすれば、二十三ヘクタールあまり。石垣の外にも同じような土地が続いていて、全部合わせれば四十ヘクタール近い。
「牛八頭で重い犂を引いて、一日にどれだけ起こせる」
「土がこれだと、朝から晩までやって……あの杭のあたりまでですかね」
トーマが指さした杭まで歩数で測ると、およそ三千平方メートル。一日〇・三ヘクタール。四十ヘクタールなら百三十日を超える。春蒔きの大麦と豆に間に合わせるには、あと二十日ほどで起こし終えなければならない。
二十日で終わらせるには、牛八頭の組が七つ要る。五十六頭。
村には、三頭。
普通のやり方では、どこをどう削っても届かない計算だった。
◇ ◇ ◇
「種は足りるのか」
畑の縁に戻って、ロウェンは石垣に腰掛けていたフィオナに声をかけた。彼女は膝に帳面を広げ、さっきからずっと何かを書いている。トーマたちの話が始まってから、一度も口を挟んでいなかった。
「足りるよ。ハロルドさんから麦を買う時に、大麦と豆の種も上乗せしておいたの。この辺りの畑を起こすって話になるかもしれないと思って」
「いつから」
「最初の手紙の時から」
帳面から顔も上げずに言う。
「牛は無理。村の三頭を集めても一組にもならないし、隣の村から借りるお金もない。人を雇って鍬で起こすなら、四十ヘクタールで……」
鉛筆の尻で、帳面の数字をひとつずつ叩いていく。
「村じゅうの男を集めても、蒔きどきには半分も終わらない」
「そうだろうな」
「で、ロウェンは今、何を考えてるの」
ロウェンは答えず、トーマのほうに向き直った。
「その重い犂を見せてくれ。刃の厚さと、牛の引き綱をどこに掛けるのかを知りたい」
トーマは少し黙ってから、ロウェンの目を見て言った。
「……畑を起こすって話なら、手は貸します。ただ、若様のためじゃありません。麦のためです。そこだけは、はき違えないでください」
「それでいい」
トーマは肩透かしを食ったような顔をして、それでも「こちらです」と村のほうを示した。後ろの二人もついてくる。石垣一つ分の距離は、そのまま一緒についてきた。
村は、西畑から歩いてすぐだった。藁屋根の家が二十軒ほど、井戸を囲むように寄り集まっている。鶏が道の真ん中をのんびり横切り、軒先の玉葱の束が風に揺れていた。戸口から子供の顔がひょいひょい覗いては、引っ込む。領主の息子が村の中を歩くのは、よほどの珍事らしい。
村の入口に、膝くらいの高さの小さな石の祠があった。その前に、麦藁で編んだ人形が一体供えてある。腰に、色の褪せた赤い布切れが巻かれていた。
「去年の刈り入れで、最後の束を編んだやつです」とトーマが言った。「春の種蒔きの朝に、畑で燃やすんですよ。灰を撒いて、今年もよろしく頼むって。……この何年かは燃やす畑が少なくて、ずいぶん小さい人形ばかりでしたが」
藁の人形は、両手を広げたような形に編まれていた。
納屋へ向かう村の道で、フィオナが歩きながら言った。
「そういえば、胸像。古物商にちゃんと届いたか、昨日確かめてきたよ。溶かす前に、台座の金文字の写しも取ってもらった」
「……なぜ写しを」
「あとで『売った覚えはない』って言われた時のため」
「俺は、まだ信用がないな」
「うん、まだない」
即答だった。二度目である。
それからフィオナは、横目でロウェンを見上げた。
「……ねえ。まさかとは思うけど」
「何だ」
「犂も、引くつもりでしょ」
ロウェンは少し驚いた。まだ何も言っていない。
「聡いな。流石だ」
「やっぱり……」
フィオナは前を向いたまま、帳面を胸に抱え直した。呆れているのか面白がっているのか、横顔からはよく分からなかった。
少し前を歩いていたトーマが振り返り、今のやり取りが何の話なのか測りかねる顔で、二人を見比べていた。




