第3話 荷車一台、若様一人
夜明け前の中庭に、大荷車が引き出されていた。
荷台は大人が六人寝転べるほど広く、樫の厚板を鉄の帯でがっちり締めてある。車輪は腰の高さまであり、幅は手のひら二つ分。前に突き出た長い轅には、牛の軛を掛けるための横木が四段、主の帰りを待つ犬みたいに行儀よく並んでいた。
その横に、騎士が三人立っていた。
先頭の男はロウェンより頭半分ほど背が高く、胸板が分厚い。使い込んだ革鎧に外套を羽織り、腕を組んでいる。騎士隊長のバルガスだ。前のロウェンはこの男を「口の利き方を知らない田舎者」と呼び、バルガスのほうはロウェンの前でだけ極端に口数を減らすことで応じていた――と、記憶が気まずそうに教えてくれた。
「護衛を頼んだ覚えはないが」
「ガレスさんに頼まれた。峠の向こうまで穀物を買いに行くってな」
バルガスは大荷車をちらりと見て、それから中庭をぐるりと見回した。
「で、牛はどこだ」
「いない」
「馬は」
「いない」
バルガスは組んでいた腕をほどいた。後ろの騎士二人が、「どういうこと?」と言いたげに目配せしている。
「若様。こいつはどうやって引くんだ?」
ロウェンは答える代わりに、轅の先へ歩いていった。
一番前の横木には、夜のうちに毛布を三重に巻かせてある。牛の軛を人間の胸の高さに合わせるため、ガレスが夜中に大工を叩き起こして横木を一段ずらさせたのだ。大工がどんな顔でそれを聞いたのかは、ガレスは語らなかった。
横木に胸を当て、両手で轅を握る。肩から背中、腰から脚へと魔力を行き渡らせ、まだ半分には届かないところで止めて――踏み込んだ。
ごろり。
空の荷車は、拍子抜けするほどあっさり動き出した。車輪が石畳の継ぎ目をひとつ、ふたつと乗り越え、中庭をひと回りして元の位置に戻ってくる。息も上がらなかった。
振り返ると、バルガスが口を半分開けたまま立っていた。
「……待て待て待て。なんでそうなる」
「身体強化だ。攻撃魔法は出ないが、こっちはよく効く」
「よく効くったって、こんなの……」
後ろの騎士の一人が、自分の腕を見下ろして、指を握ったり開いたりしていた。同じ技術を使えるはずの自分の腕に、何か重大な欠陥がないか確かめているような顔だった。
◇ ◇ ◇
ロウェンは騎士三人を連れて、南の町へ向かった。
雪解けの峠道は、想像以上にひどかった。轍の底に水が溜まって泥を練り、場所によっては足首まで沈む。それでも幅広の車輪は泥の上をすべるように転がり、ロウェンは道の端に残った硬い地面を選んで踏めばよかった。むしろ騎士たちの馬のほうが、よほど苦労していた。
空の荷車を引いて峠を越えるのに、半日とかからなかった。
南の町に入った途端、音と匂いがどっと押し寄せてきた。石畳の通りに露店が並び、干し魚の塩気と、焼いた脂と、どこかの鍛冶場の炭の匂いが混ざり合っている。樽を転がす男の掛け声、値切る女の甲高い声、荷を積んだロバの鈴。店先には赤い毛糸の束や蜂蜜の壺や、土のついた冬越しのカブが山になっていた。
今朝出てきた、灰色の屋根と細い煙の町と同じ国だとは、とても思えない。峠ひとつ越えただけで、すれ違う人の顔色まで違って見えた。
そして通りの人々は、牛のいない大荷車を引いて入ってきた大柄な若者を、一人残らず二度見した。何人かは、そのまま荷車の後ろについてきた。
穀物を売ってくれるのは、ハロルドという商人だった。四十歳くらいの痩せた男で、塩や鉄器や布を商うかたわら、北の領地には穀物も運んでいる。値段と量はフィオナが手紙で詰めてあり、古物商に売った品の代金もハロルドの店を通す段取りになっていた。
ハロルドは倉の前で、フィオナの手紙とロウェンの顔を交互に見比べた。それから、倉の前に止まった大荷車を見た。
「……牛は」
「いない」
「今朝も同じことを訊かれたな」と、バルガスが後ろでぼそりと言った。
ハロルドは何か言いかけて、やめた。代わりに人足を呼んで、麦の袋を積ませ始める。一袋五十キロの麻袋を、荷台に百袋。積み終わる頃には、日が傾いていた。
五トン。
轅を握ると、荷台の軋む音が昼間とはまるで違っていた。胸の横木から、荷の重さが肋骨へ、肋骨から背骨へと沈み込んでくる。魔力を込める。今度は半分を越えるところまで。
一歩目は、動かなかった。車輪が倉の前の窪みに嵌まっている。
二歩目で、力を横木へ通す角度を変えた。上体を前へ倒し、足の親指の付け根で地面を掴むようにして、腿の前から尻にかけての筋肉で地面を後ろへ押しやる。膝が深く曲がり、太ももの筋肉が布地の下でぎちりと張りつめた。
荷車が、ゆっくりと窪みを乗り越えた。
一度動いてしまえば、あとは重さを前へ送り続けるだけだった。一歩ごとに尻と腿の裏が交互に縮み、引き上げた足をまた地面に突き立てる。背中は丸めない。丸めた瞬間、力が横木に届く前に抜けてしまう。
通りを抜けたところで振り返ると、ハロルドがまだ同じ場所に立っていた。
「北の若様」
声は張っていないのに、よく通った。
「道が乾いたら、うちの荷馬車で運んでやる。泥のうちは御免だ。それと――」
ハロルドは顎で大荷車を示した。
「それは、あんたがいなきゃ成り立たない運び方だ。覚えとくといい」
ロウェンは頷いた。言われた意味は分かっている。分かったうえで、今はこれしか手がなかった。
◇ ◇ ◇
峠の登りで、一度だけ荷車が止まった。
日の当たらない切り通しで、雪解け水が道を横切り、そこだけ泥が膝まであった。五トンを載せた荷台は、幅広の車輪でも沈む。左の後輪が車軸の近くまで埋まり、荷台がぐらりと傾いた。
「押すか」とバルガスが馬を降りた。
「押しても沈む。持ち上げる」
「……は?」
車軸の下に肩を入れようとして、足元がずるりと滑った。泥が深すぎる。このまま持ち上げても、その重さで自分の足が泥の底へ沈んでいくだけだ。
どうするか考えるより先に、バルガスが部下に怒鳴っていた。
「板だ! 予備の板、全部出せ。若様の足の下に敷け!」
騎士二人が泥の上に板を並べ、さらにその上に重ねる。沈まないのを確かめてから、ロウェンは改めて車軸の下に肩を入れた。
膝を曲げ、腰を落とし、背中を真っすぐに保つ。息を吸って腹に溜める。持ち上げるのは腕ではない。脚で地面を押し、その力を背骨に通して、肩から車軸へ渡す。
魔力を、さらに注ぎ込んだ。
腿の筋肉が膨れ、膝の上に太い筋が浮く。腰から背中が一枚の板のように固まり、肩の上の僧帽筋がぐっと首の付け根を押し上げた。足の下で板がきしみ、縁から泥水が噴き出す。
荷台が、持ち上がった。
ずぼっ、と長靴を引き抜く時そっくりの音がして、後輪が泥から抜けた。バルガスがすかさず車輪の下へ板を蹴り込み、ロウェンはその上にそっと車輪を下ろした。
泥だらけの顔を拭って立ち上がると、バルガスは板を見下ろしたまま言った。
「……板を敷いて正解だったな」
「助かった。足場を考えていなかった」
バルガスは何か言い返そうとして、口を閉じた。代わりに部下へ、板を拾えと手で示した。
たぶん前のロウェンの口から、「助かった」という言葉が出たことは一度もなかったのだろう。
◇ ◇ ◇
その夜は、峠の上の石積みの小屋で明かした。
騎士が枯れ枝で火を起こし、もう一人が固い干し肉と黒パンを配る。ロウェンの手に回ってきたパンは、倉の前で配られていたのと同じ大きさだった。
「若様には足りねえだろ」
「足りない」
正直に答えると、バルガスは少し意外そうな顔をして、自分の干し肉を半分ちぎって寄越した。礼を言って受け取る。
火の粉が、小屋の隙間から夜空へ昇っていく。外では雪解けの沢が、ずっと鳴っていた。
「そっちの若いのはな」
バルガスが、火の向こうで黙ってパンをかじっている騎士を顎で示した。ロウェンと同じくらいの年頃の若者だ。
「妹が三人いる。親父は去年の秋に死んだ。今朝、あの倉の前の列に、こいつの一番下の妹が並んでた」
若い騎士は顔を上げずに、パンを噛み続けていた。
「だからこいつは、今日、何も訊かずについてきた。牛のいねえ荷車を若様が引くなんて話を聞いてもな。……俺は、まだ信じちゃいねえ。明日、あの荷が本当に門をくぐるまではな」
ロウェンは、荷台の百の袋のことを考えた。その一つ一つが、あの列の誰かの何日分かの食事になる。
「くぐらせる」
それだけ言って、残りのパンを口に放り込んだ。噛めば噛むほど酸っぱくて、硬いパンだった。
◇ ◇ ◇
翌朝、峠を下りきったところで、ロウェンは一度だけ足を止めた。
道の西側に、広い土地があった。枯れ草が一面に倒れ伏し、あちこちに石が顔を出している。草の間に、畦の跡らしい低い盛り土が等間隔に走っていた。
「西畑だ」とバルガスが言った。「十年前までは、麦が穫れてた」
ロウェンはしばらく枯れ草の海を眺めてから、また轅を握った。
その日の昼過ぎ、大荷車は館の門をくぐった。
門の前には人が集まっていた。誰かが峠の上から荷車を見つけて、触れ回ったらしい。荷台に積み上げられた麦の袋と、轅を胸に当てて歩いてくる領主の息子とを、領民たちは黙って見ていた。何人かは、見ていることを隠すように顔を伏せた。
「……若様、どっかで頭でも打ったんじゃねえか」
「しっ、聞こえる」
聞こえている。
「お母さん、あれ、全部むぎ?」
人垣の前のほうで、小さな女の子が母親の袖を引いた。母親は答えずに、女の子をぎゅっと抱き寄せた。
あの若い騎士が馬を降りて、人垣の中の誰かに、小さく手を上げた。
蔵の前で荷車を止め、ロウェンは頭の中で数字を並べ直した。この大荷車で三日に一往復すれば、荷馬車二台と合わせて、ようやく蔵の減りが止まる。道が乾けばハロルドの荷馬車も来る。フィオナの計算どおり金が足りれば、初夏の麦まではもつ。
ただし、もつだけだ。来年の同じ時期に、同じ品を売ることはできない。
胸像は、一つしかないのである。
蔵の扉が開く音を聞きながら、ロウェンは今朝見た枯れ草の色を思い返していた。




