第2話 売れるものはだいたい俺の顔
ガレスに案内された執務室の机には、うっすらと埃が積もっていた。主の長期不在を、机が正直に白状している。
ロウェンは袖で天板を拭い、ガレスが運んできた帳簿を並べた。蔵の出入り、配給の記録、去年の収穫、秋に買った穀物の支払い。字はガレスのものだが、途中から丸っこい別の筆跡に変わっている。
「この後半は誰が書いた」
「フィオナ様でございます。旦那様がお怪我をなさってから、ご婚約のお取り決めに従って、領政の補佐としてこちらにご滞在で」
婚約者。
記憶の中に、少女の横顔がぼんやり浮かんだ。笑っている顔ではなかった。
扉が開いたのは、ちょうどその時だった。
「ガレス、南の町の古物商から返事が来たんだけど――」
入ってきた少女は、机に向かっているロウェンを見て、言葉を途中で置き去りにした。
年はロウェンと同じくらい。袖をまくった簡素な服で、紙の束を抱えている。貴族の娘というより、忙しい商家の帳場を切り盛りする若女将といった雰囲気だった。
「……珍しいね。ロウェンが執務室にいるなんて」
声は明るい。だが、それはロウェンに向けた明るさではなかった。部屋の空気に向かって放り投げたような、どこにも当たらない明るさだ。
「フィオナ」
「なに? 何か欲しい物でもできた? 先に言っておくけど、今月はもう何も買えないよ」
棘はない。棘を立てる手間すら惜しい、という調子だった。
……前のロウェンがこの部屋に来るのは、金を使いたい時だけだったらしい。あまりにも分かりやすく、悲しくなってくる。
「蔵が二十七日分だと聞いた。数字の出どころを確かめたい」
フィオナは、しばらく不思議そうにロウェンの顔を見ていた。それから机の反対側に回って、椅子を引いた。
「いいよ。ガレス、去年の収穫も出してくれる?」
◇ ◇ ◇
二十七日という数字は、残念ながら正しかった。
帳簿を追っていくと、冬の間に一度だけ、蔵の減り方が急になっている箇所がある。晩秋に屋根が傷み、雪解け水が染みて、奥の俵がまとめてカビたのだ。
修繕の嘆願書は三枚出ていた。三枚とも、署名のないまま机の引き出しの奥で眠っていた。
引き出しから出して並べると、フィオナは何も言わずにそれを見た。三枚目の日付の横に、丸い字で小さく「再提出」と書き添えてある。
「……俺の署名がなかったせいで、ひと月分が腐った」
「ひと月と少しね」
訂正は正確だった。責める声でもなかった。それが、かえってきつい。
ロウェンは立ち上がった。
「蔵を見たい」
◇ ◇ ◇
倉の中は、外より寒かった。高い天井の下に麻袋の列が並んでいるが、並んでいると言うには隙間が多すぎる。奥の半分はがらんとして、床の石が剥き出しだった。湿った藁の匂いと、酸っぱく鼻を刺す匂いが、冷たい空気の底に溜まっている。奥の壁には雨漏りの黒い筋が走り、その下に、中身を捨てた空の袋が積んであった。袋の表には、緑がかった黒い斑点がびっしり浮いている。
入口の脇に、蔵番の老人が帽子を握りしめて立っていた。ロウェンが近づくと、老人はびくっとして一歩下がった。叱られると思ったらしい。
「あの……若様。配給の量は、また減らすことになりますんで……?」
ロウェンが答えるより先に、フィオナが空の袋の山を見下ろしたまま言った。
「冬の間に、西の村から三家族、南の町へ出ていったの。食べる分がないなら、食べられるところへ行くしかないから。これ以上減らしたら、春のうちにもっと出ていく」
食べ物が尽きて、人が逃げる。
原作の破滅の筋書きは、もう二行目まで進んでいた。
「減らさない」
ロウェンが言うと、蔵番の老人が顔を上げた。フィオナも振り向いた。その目には、はっきりと「何を根拠に?」と書いてある。
根拠はまだない。ただ、減らさないと決めてから足りない分を探すのと、足りないから減らすのとでは、この先で打てる手が全然違ってくる――ロウェンは、そう考えていた。
◇ ◇ ◇
執務室に戻ると、問題はひとつに絞られた。次の収穫までの期間だ。
秋に蒔いた麦が穫れるのは初夏で、今日から数えておよそ百十日後。蔵にあるのは二十七日分。差し引き八十日余りを、どこかから持ってくるしかない。
「畑を広げて蒔いても、穫れるのは早くて夏の終わりだよ」とフィオナが言った。「その前に、こっちが干上がる」
「なら、当面は買う。金は」
「既定の予算の残りで、四十日分くらい。旦那様のお許しがない借金はできない。だから古物商に話を持っていってたの」
「何を売るつもりだった」
フィオナはすぐには答えなかった。一度ガレスのほうをちらりと見てから、紙の束の一番上をロウェンの前に置く。館の目録だった。家具、食器、絵画、衣装、装飾品。いくつかの行に、鉛筆で印がついている。
印がついているのは、古い実用品ばかりだった。伯爵家に代々伝わる銀の燭台。祖父の代の狩猟用の鞍。売れば「あの家も落ちぶれた」と陰口を叩かれそうな物を、それでも選んで印をつけてある。
逆に、この一年で買い込まれた品には、ひとつも印がない。
「こっちは売らないのか」
ロウェンは目録の後ろのほうを指で叩いた。南方産の絹の上着が十二着。金糸刺繍の外套。宝石付きの短剣が三振り。王都の画家に描かせた肖像画が四枚。そして青銅の胸像と、大理石の台座。
肖像画も胸像も、描かれているのは全部ロウェンだった。
「……それ、ロウェンの物でしょ」
「俺の物だから、俺が売ると決められる」
「だって、前に一度言った時――」
フィオナはそこで言葉を呑み込んだ。前のロウェンが何と答えたのかは、聞かなくても想像がついた。
改めて目録を見直す。売れそうな物の欄を上から指でなぞっていくと、どの行もだいたい、自分の顔か、自分が着る物だった。
「売れるものは、だいたい俺の顔だな」
「肖像画って、描かれてる人の値打ちで値段が決まるんだけどね」
言ってから、フィオナはさすがに言いすぎたと思ったのか口をつぐんだ。ロウェンは気にしなかった。値打ちが低いという見立てには、反論の材料がひとつもない。
「なら、額縁の金箔と、青銅の目方で売ればいい。胸像は溶かしても構わない」
ガレスが、ごく小さく咳払いをした。
フィオナは、ロウェンの顔をじっと見た。それから、椅子を机に引き寄せ、白い紙を一枚抜き出して、さらさらと何かを書き始めた。
売る品の一覧だと思ったら、違った。
「はい。ここに署名して」
差し出された紙には、丸い字で一行だけ書いてあった。――以上の品の売却に同意し、後日これを取り消さないものとする。ロウェン・グレイヴ。
「……俺は、信用がないのだな」
「うん、ない」
即答だった。
「前に一度、似たようなこと言って、次の日には王都から新しい外套を取り寄せてたでしょ。私、あれで手紙を三通書き直したんだから」
記憶の端っこが、気まずそうに目を逸らした。どうやら本当にやったらしい。
ロウェンは黙って署名した。三枚の嘆願書には書かれなかった名前が、今度はちゃんと紙の上に載った。フィオナはそれを光に透かすようにして確かめてから、ようやく目録に戻った。
「絹の上着は王都のほうが高く売れるけど、今は運ぶ手間が惜しい。短剣は宝石を外して別に売る。肖像画は……額縁だけにしよう。中身は、たぶん誰も買わないから」
最後の一言は、たぶん棘ではなく、ただの見積もりだった。たぶん。
「これで足りるか」
「計算してみないと。でも、八十日分に届く目はある」
◇ ◇ ◇
金のめどが立つと、次の問題が顔を出した。
「運ぶほうは」
答えたのはガレスだった。
「南の町までは、峠を越えておよそ四十キロでございます。ただ、今は雪解けで道がぬかるみ、荷馬車の往復に五日ほどかかります。荷を引ける馬が四頭、荷馬車が二台」
冬の間に、飼い葉の足りない馬を何頭か手放したのだという。その書類にも、たぶん署名はなかったのだろう。
ロウェンは頭の中で数字を並べた。荷馬車一台に積める穀物はおよそ一トン。領地全体が一日に食べる量は、荷馬車に換算して二台分ほど。二台で五日かけて一往復なら、一日あたりに運び込めるのは荷馬車半分にも届かない。蔵の減りが少し緩むだけで、止まりはしない。
馬を借りる金はないし、借りられたとしても、ぬかるんだ峠では馬が脚を痛める。道が乾くのは早くても三週間先だ。
「牛は」
「村にいくらか。ですが、荷馬車には向きません」
「大きな荷車はないか。石を運ぶような」
ガレスは少し考えた。
「裏の納屋に、先々代が外壁を直した時の、石材運搬用の大荷車がございます。牛八頭で、石を五トンほど運んだと聞いております。車輪が幅広で、ぬかるみには強いかと。……ただ、牛がおりません」
五トン。
ロウェンは今朝の胸像を思い出していた。三百キロ近い物が、半分の力で、空の木箱みたいに動いた。あの手応えを五トンまで引き延ばして丸ごと信じるほど楽観的ではないが、まるで見当外れというわけでもない気がする。
確かめる価値はある。牛八頭の代わりになる何かがあれば、この計算は成り立つのだ。
「その大荷車を、明日の朝までに出せるようにしてくれ」
「かしこまりました。牛は、村から借りてまいりますか」
「要らない」
フィオナの手が止まった。ガレスも、綴じ込みを持ったまま固まった。
ロウェンは、ごく当たり前のことを言う調子で続けた。
「荷車は、俺が引く」




