第1話 計算が合わない
目を開けると、天井がやけに遠かった。白い漆喰に蔓草の浮き彫りが這い、四隅の飾り縁には剥げかけた金箔がしがみついている。
……どこだ、ここ。
少なくとも自分の部屋ではない。自分の部屋の天井には雨漏りの染みはあっても、金箔なんて一枚も貼っていなかった。
起き上がろうとして寝台に手をつき、そこで止まった。
手が、でかい。
指は長くて節が太く、甲には見覚えのない古傷まである。袖から覗く前腕は記憶の自分より二回りは太いのに、持ち上げてみると不思議なほど重さを感じなかった。首を回し、肩を回し、脚を曲げ伸ばししてみても、どこも痛くない。痛くないのが、逆に怖い。
前の晩のことを思い出そうとしても、そこだけ紙を破り取ったように何も出てこなかった。そのくせ九九と、物が一秒でだいたい五メートル落ちることだけは、しっかり頭に残っている。どうでもいいことほど忘れないのが、人間の頭というものらしい。
寝台を降りると、石の床がひやりと冷たかった。部屋の隅にある姿見を覗き込んで――固まった。
映っていたのは、十七、八の青年だった。背が高く、肩幅が広く、顔立ちもそれなりに整っている。
ただし、目つきが悪い。ものすごく悪い。本人は普通にしているつもりでも、相手からは処刑を宣告されているように見える、そういう損な顔だった。
知らない顔なのに、眺めているうちに頭の奥で何かがほどけていく。長い廊下。冷たい手すり。老いた執事の低い声。その声が、何度も呼んできた名前。
ロウェン――ロウェン・グレイヴ。
「……は?」
出てきた声は低くてよく通る、やっぱり知らない声だった。
その名前なら知っている。寝る前にスマホで読んでいた、長いファンタジー小説の序盤に出てくる、北の貧乏領地のどら息子だ。傲慢で浪費家で、領民のことなど気にもかけず、物語が始まって三年後には領地ごと崩れて失脚する。
細かい経緯は覚えていない。食べ物が尽きて、人が逃げて、治安が荒れて、気づいたら終わっていた――確か、そんな流れだった。読んでいた時は「まあ、そうなるよな」くらいにしか思わなかった。主人公たちの旅の途中でちょっと出てきて退場する、道端の小石みたいな小悪役だったのだ。
ちなみに、そのさらに数年後には魔王が復活する。そっちが物語の本筋で、潰れた領地のことなんて誰も覚えていない。
「……なるほど」
なるほどではない。受け入れがたい事態ではあるのだが、ここで頭を抱えて床を転げ回っても、分かることは一つも増えない。彼は寝台に腰を下ろして、確かめられることから順番に確かめていくことにした。
◇ ◇ ◇
ぼんやりした記憶によれば、この世界の人間は体の中の魔力を使うらしい。掌にそれを集めて外へ押し出せば、火が出る。
右手を上に向けて集中すると、魔力は来た。肘から先がじんわり温かくなって――
掌の手前で、ぴたりと止まった。
押し出すことだけを考えて、もう一度。腕の中で魔力がぐるぐる渦を巻き、指先が痺れるほど膨らむ。
しかし火花ひとつ出なかった。三回やって、諦めた。
諦めたところで、記憶の底から、苦いものがせり上がってきた。
十の年に、最初の家庭教師がついた。貴族の家に生まれた子は、その年に魔法の手ほどきを受ける。蝋燭に火を灯す、ただそれだけの最初の課題で、ロウェンの指先からは煙ひとつ上がらなかった。一年で家庭教師が替わり、二年でまた替わり、三人目は、困り果てた顔のまま館を去った。
十二の春には、王都の貴族の子弟が集まる席で、同い年の子供たちが順番に、掌の上に火を灯してみせた。ロウェンの番で、何も起きなかった。誰かが笑った。その日から、ロウェンには呼び名がついた。
――火も灯せないグレイヴ。
記憶の中の少年は、それきり魔法の稽古をやめていた。やめて、代わりに、金を使うことを覚えた。高い服を着て、高い酒を頼み、賭けの卓に座る。笑われる前に、人を笑う。そういう順番で、少しずつ性根が曲がっていったらしい。
他人の昔話のはずなのに、胸の奥がちくりとした。
仕方なく、行き場のない魔力をそのまま体の中で回してみる。こっちは驚くほど素直だった。肩へ、背中へ、脚へと、流したい場所を思い浮かべるだけで魔力が移り、そこの筋肉がきゅっと締まる。身体強化という、騎士や兵士が使う技術だ。お坊ちゃんが熱心に覚えるものではない――と、記憶の端っこが付け加えた。魔法の出ない貴族の子が身体強化に精を出せば、それこそ「やっぱり騎士の真似しかできない」と笑われる。前のロウェンは、一度も真面目に試したことがなかったらしい。
どのくらい効いているのか、測ってみたい。物差しになりそうな物を探して部屋を見回すと、窓際にちょうどいいのがあった。
胸像が鎮座していた。
大理石の台座に、青銅の胸像。誰の像かは見るまでもない。さっき鏡に映っていた目つきの悪い青年が、三割増しで凛々しく遠くを見つめている。台座の正面には、ご丁寧に金文字まで彫ってあった。
ロウェン・グレイヴ。
「…………」
自分の胸像を、自分の寝室に飾る。その神経については考えないことにした。考えていたら朝が終わる。重さの見積もりにはむしろ都合がいい、そう思い直すことにした。
青銅の胸像は、中が空洞でも六、七十キロ。台座は腰くらいの高さの大理石で、一辺四十センチ前後だから、それだけで二百キロは超える。合わせて三百キロ近い物が、厚い絨毯の上に載っているわけだ。
強化なしなら、全力で押してちょっと傾くくらい。強化が人並みに効いて、数センチずれるくらい。妥当な予想は、そんなところだろう。おぼろげな記憶もそれを裏付けた。
台座に両手を当てて足を開き、肩と背中に魔力を流し込む。入れすぎないよう半分くらいで止めて――
軽く、押した。
ずるっ。
台座が、絨毯ごと床を滑った。
胸像を載せたまま二メートルほど突き進み、壁際の机に激突してインク壺をひっくり返す。青銅の顔が、壁に掛かった肖像画の額縁にごつんと額を押しつけて、ようやく止まった。
その肖像画に描かれていたのも、ロウェンだった。
ロウェンとロウェンが、至近距離で睨み合っている。
両手を前に出したまま、彼は動けなかった。力が強すぎる、というのは、実は二番目に気になったことだった。一番気になったのは別のことだ。
見積もりが、外れた。
重さを読み違えたのか。床が思ったより滑るのか。それとも、半分で止めたつもりの魔力が全然止まっていなかったのか。
計算が合わない。
魔力をもっと絞って押し戻してみると、台座はすいっと素直に戻ってきた。手応えは、空っぽの木箱と大差なかった。
◇ ◇ ◇
答えが出ないまま、窓辺に寄った。
館は丘の上に建っているらしく、坂の下に灰色の屋根の町が広がっていた。屋根には溶け残りの雪がまだらに貼りついている。朝ご飯の時間のはずなのに、煙を上げている煙突は数えるほどしかない。
坂の途中の大きな倉の前に、人が並んでいた。
三十人か、四十人か。痩せた女が、もっと痩せた子供の手を引いている。杖をついた老人もいる。誰も喋らず、寒さに肩を縮めてただ待っていた。倉の脇では男が一人ずつ何かを手渡している。拳くらいの、黒いパンだ。受け取った子供がその場でかじりつこうとして、母親にそっと手を押さえられた。家族の分なのだろう。
小説には、こんな場面はなかった。「北の貧しい領地」――その一行があっただけだ。
窓枠に置いた自分の手を見る。知らない男の、大きな手。この手が指揮をして、この口が命令をしてきた結果が、あの列なのだとしたら。
ページを閉じれば終わる話ではない。あの列は、閉じても消えてくれない。
「若様。お目覚めでございますか」
扉の向こうから、低く丁寧な声がした。執事のガレスだ、と記憶が勝手に教えてくれる。子供の頃からロウェンの面倒を見てきた老人らしい。
「……入っていい」
入ってきたのは、白髪をぴしっと撫でつけた痩せた老人だった。黒い上着には皺ひとつない。部屋に一歩入ったところで、その視線が止まった。
床に広がるインクの海。額を突き合わせて睨み合う、青銅のロウェンと絵のロウェン。
「模様替えでございますか」
「……そんなところだ」
「承知いたしました。のちほど人を呼んで、元に戻させます」
それだけだった。眉ひとつ動かさない。
たぶん前のロウェンにとって、この程度のわがままは日常茶飯事だったのだろう。この老人は慣れている、完全に。
「お加減はいかがでございますか。昨夜はずいぶんとお疲れのご様子でしたので。……朝食は、いつもの蜂蜜の焼き菓子を五つと、甘い葡萄酒でよろしゅうございますね」
朝から菓子五つと酒。前のロウェンの胃袋は、どういう作りになっていたのだろう。
「いや。粥でいい」
ガレスの動きが、止まった。
インクの海を見ても、睨み合う二人のロウェンを見ても動かなかった老執事の眉が、ほんの一ミリ――確かに、上がった。
「……粥、でございますか」
「粥だ」
「かしこまりました」
ガレスは何事もなかったように頭を下げた。下げたまま、ほんの少しだけ長く、ロウェンの顔を見ていた。
「ガレス。父上の容態は」
「王都の治療院から、先週お便りがございました。お命に別状はございませんが、腰と脚の回復にはまだ時がかかると。旦那様がお戻りになるまでは、引き続き若様に領内のことをお任せする、との仰せです」
去年の冬、父は魔物の討伐で怪我をした。それから領地の仕事を任されたのが、息子のロウェンだ。そして記憶によれば、その息子はこの数か月、ほとんど執務室に顔を出していない。その前から、父の補佐という名目で書類に目を通したことすら数えるほどしかなかった。
……状況は最悪といったところか。
「領内の報告を聞きたい。今ある分、全部だ」
ガレスの手が、ほんの一瞬止まった。
「全部、でございますか」
「全部だ」
老執事は革の綴じ込みを開いた。確かめるように一度だけロウェンの顔を見てから、紙に目を落とす。最初の一行を読むまでに、短い間があった。
「まず、蔵の穀物でございますが」
ガレスは、紙から目を上げなかった。
「今の配給を続けた場合――およそ、二十七日分でございます」
窓の外で、倉の扉が閉まる重い音がした。




