第10話 峠の値段
塩が、一袋あたり去年の秋より二割五分ほど高くなっていた。
鉄の鍬の刃は三割増し。鍋や釘も同じくらい上がっている。フィオナがハロルドの手紙と村の雑貨屋の帳面を突き合わせて出した数字だった。
「西畑が起きて、みんな鍬を新しくしたがってる。水路の工事で釘も要る。なのに鉄は高いまま。塩は冬の漬物に使うから、秋にはもっと上がると思う」
「なぜ高い」
「運ぶのにお金がかかるから。塩と鉄の商人は、うちの峠を嫌がって、東のハルト領を回ってくるんだって。平らな道だけど七十キロあって三日かかるし、途中で通行料と宿代を払う。それが全部、値段に乗っかってる」
グレイヴ領から南の町へ抜ける峠道は、およそ四十キロ。その倍近い東回りを、商人たちはわざわざ選んでいるのだ。
峠道がどんな道かは、ロウェンも身をもって知っていた。三か月前、五トンの麦を載せた大荷車を引いて越えた道だ。
「ハルト領回りの荷が減ったら、ハルト領は困るか」
ガレスが少し考えてから答えた。
「街道沿いの宿場は、困るやもしれません。荷馬車が泊まって落とすお金は、あちらの宿場の暮らしを支えておりますので」
「峠を直すのは、代行の権限の内か」
「領内の街道の整備でございますから、内でございます。領境も、あちらの通行料も変えるわけではございません。ただ……」
ガレスは言葉を選ぶように、一度口を閉じた。
「隣の領地にも、隣の領地の勘定がございます。いずれ、あちらから何か申してくることはございましょう」
フィオナが帳面の端に「ハルト領」とだけ書いて、ぐるりと丸で囲んだ。
「その時は、私が話す。先に、こっちの塩の値段を下げてからね」
◇ ◇ ◇
南町の商人ハロルドとは、峠の頂上で落ち合った。
最後の穀物の荷を運んできたハロルドは、空になった荷馬車を峠の茶屋の前に止めて、馬に水を飲ませているところだった。茶屋といっても、峠越えの旅人がひと息つくための掘っ立て小屋で、坂道で荷馬車を引く「助け馬」を貸している。
茶屋を切り盛りしているのは、腰の曲がった小柄な老婆だった。ロウェンとバルガスが軒をくぐると、何も訊かずに欠けた木の椀へ熱い湯を注いでくれた。干した草の葉が浮いていて、口に含むと、苦みの奥にほんのり甘い香りがする。
「峠の上は、夏でも風が冷えますでな」
老婆は炉の火を掻き立てながら言った。
「わたしが嫁に来た頃は、この茶屋の前に朝から晩まで荷馬車が列を作っとったもんです。助け馬も十頭おった。今は三頭。それも半分は年寄りでね。わたしと同じで」
からからと笑う。軒の外では、年寄りの助け馬が一頭、退屈そうに尻尾で蝿を払っていた。
「若様が自分で峠を見に来るとは思わなかった」
ハロルドはロウェンを見て、それから後ろのバルガスを見た。
「牛は」
「今日はいない」とバルガスが先に答えた。「荷車もねえ」
ハロルドは口の端を上げて、馬の首を叩いた。
「峠のどこが悪いか、訊きに来たんだろう。全部悪い」
顎で示された先に、峠道が見えた。谷底から頂上まで、山腹を縫うように右へ左へと折り返している。大きな折り返しだけで十一。そのうちいくつかは、荷馬車一台がやっと向きを変えられるくらいの狭さだった。
「登りが長すぎる。急な上り坂が四か所あって、そこじゃ荷を満載した馬車は二頭じゃ上がらない。ここで助け馬を借りて、四頭で引くんだ。借り賃は荷一台につき銀貨一枚。雨が降れば切り通しがぬかるんで、半日は止まる。下りは下りで、歯止めの効かなくなった荷馬車が谷に落ちたことが、俺が知ってるだけで二回はある」
「二日かかると聞いた」
「晴れてりゃ二日。ハルト領を回れば三日だが、平らで、宿があって、馬を潰さない。塩みたいに重くて安い物を運ぶなら、一日余計にかかっても平らな道のほうが結局は得なんだよ。急坂で馬に無理させたら、一年で脚が駄目になる。馬一頭を買い直せば、塩の儲けの半年分が吹っ飛ぶ」
ハロルドは水桶を馬から離した。
「あんたの領地の塩が高いのは、あんたの峠のせいだ」
炉の前で、老婆が小さく頷いていた。
容赦のない言い方だった。ただ、容赦がない分、数字に嘘がないことも分かった。
◇ ◇ ◇
ロウェンはバルガスと二人で、峠の頂上から尾根沿いに東へ歩いた。
ガレスが写してくれた館の古い地図によれば、頂上から東へ一キロほど行ったところで、尾根がいったん低く窪んでいる。二つの山の肩に挟まれた窪みで、峠の頂上より百五十メートルほど低い。ここを越えられれば、十一の折り返しを登らずに済む。南の谷へも北の谷へも、なだらかな尾根筋を下っていける。
なのに地図には、その窪みを越える道が描かれていなかった。
理由は、行ってみればすぐ分かった。
窪みのいちばん低いところを、岩の壁が塞いでいたのだ。尾根の背骨が地面から突き出したような、灰色の岩の背。長さはおよそ八十メートル、高さはいちばん高いところで八メートルほど。両側は切り立っていて、人間ならよじ登れても、荷馬車はまず越えられない。
「昔、ここに道を通そうとした領主がいたって話は聞いたことがある」とバルガスが言った。「石工を何人も入れて、二年やって、諦めたってな」
ロウェンは、岩の背の上に登った。
北を見れば、グレイヴ領の畑と、春に通した新しい水路の細い筋。南を見れば、南の町へ下っていく谷。どちらへも、尾根筋はなだらかに下っている。
歩測と地図の縮尺から、ざっと数字を拾った。荷馬車がすれ違える四・五メートルの幅で、平均四メートルの深さに切り通す。削る岩はおよそ千四、五百立方メートル。春の水路の三倍ほどだ。
切り通しを抜ければ、領都から南の町までは二十六キロほど。今の峠道より十四キロ短く、登る高さも百五十メートル少ない。急坂を避けて尾根筋に道を付ければ、荷を満載した荷馬車でも二頭の馬で一日で越えられる。助け馬の借り賃も、ぬかるむ切り通しもない。塩は、ハルト領回りより安く運べる。二割五分上がった値段が、去年の秋の値段まで戻るかもしれない。
普通なら、石工十人で何年もかかる工事だ。
でも、春の水路は十二日で百二十メートルの岩場を抜いた。その時の速さも、柄の折れる頻度も、自分の前腕が何日もったかも分かっている。三倍の量なら、休みを入れてもひと月と少し。前後の土の区間は、フィオナが村の男たちを雇えるはずだ。秋の刈り入れまでには終わる。
峠道を直すのではなく、別の道を通す。春の水路と同じ理屈だった。
「……切り通せば、成立する」
岩の背から降りて、振り返った。
バルガスは、ロウェンの話を聞いていなかった。
岩の北側の壁の前にしゃがみ込み、岩肌を指でなぞっている。指先が、斜めに走った細い筋をたどり、筋と筋の間に挟まった薄い層を爪で軽く引っかいた。
ぱらり、と層が剥がれて落ちた。
バルガスは立ち上がり、壁を見上げた。壁の上のほうまで、同じ斜めの筋が何本も平行に走っている。
「若様」
呼ぶ声は、いつもより低かった。
「こいつは、春の岩とは違う」
バルガスの眉間に、深い皺が刻まれていた。




