第11話 道を通す
「目が、こっちへ向かって寝てる」
バルガスは岩の背の北側の壁に掌を当て、斜めに走る筋に沿って腕を下ろしてみせた。
「春の岩はひと塊だった。こいつは薄い板を何枚も斜めに重ねたみたいになってる。しかも板が、道を通すほうへ傾いてやがる。下を削れば、上の板が支えをなくして、筋に沿って滑ってくる」
「崩れる前に、見て分かるか」
「分かる時もある。分からねえ時もある。巡回で、この尾根の崖が落ちたのを何度か見た。音がしてからじゃ遅い」
筋は、およそ三十度の角度で道のほうへ傾いている。斜面に本を何冊も積み重ねたのと同じだ。下の一冊を抜けば、上は全部滑り落ちてくる。
春の岩場のようにはいかない。
「どうすればいい」
バルガスは、ちょっと意外そうな顔をした。何か言い返されると身構えていたらしい。
「上から削れ。下から掘るな。それと、壁を真っすぐ立てるな。板の傾きに合わせて、斜めに寝かせて削れ。そうすりゃ、上に載ってる板がなくなる」
「削る量が増える」
「増やせ。それが嫌なら、この道は諦めろ」
ロウェンは計算を書き直した。壁を斜めに削る分、岩の量はおよそ四割増し。ひと月と少しの見込みが、ひと月半になる。
「増やす」
◇ ◇ ◇
石工の親方は、老いた脚で峠を登ってきた。岩の背を半日かけて撫で回し、最後に「わしなら、ここには道を通さん」と言い切った。それから「それでも通すなら」と、割る線を引き始めた。
作業の段取りは、バルガスが決めた。
岩の背の上から順に、一段ずつ削り下げる。一段の高さは一メートル。一段を削り終えるまで、次の段には手をつけない。削っている間は、壁の両端と尾根の上に見張りを一人ずつ立たせる。見張りは笛を持ち、岩が動く音を聞いたり、筋の隙間から砂がこぼれるのを見たりしたら、即座に吹く。笛が鳴ったら、全員が決められた方向へ走る。その方向は、毎朝バルガスが指で示した。
ロウェンの足場も、バルガスが決めた。槌を振る場所には必ず、太い丸太を「井」の字に組んだ台を据えさせる。削った岩の上は、割れた破片で足元が定まらないからだ。
「俺は、岩の上でも立てる」
「立てるのは知ってる。峠の泥で、板を敷いたのを忘れたか」
ロウェンは黙った。返す言葉は、あの日の泥の中に置いてきていた。
村の男たちは、岩の背の前後で土を削って道を均す区間を受け持った。フィオナが既定の予算で雇った三十人だ。削った土は谷側に盛って道幅を広げ、親方の弟子が削った岩の中から形のいいものを選り分けて、谷側に石垣を積んでいった。
日暮れの茶屋の前は、毎晩ちょっとした市のようになった。
フィオナが樽の上に銭箱を置き、名前を呼んで一人ずつ日当を渡していく。受け取った男たちは、茶屋の老婆が大鍋で煮る豆と玉葱の汁をすすり、火を囲んで座り込む。誰かが家から持ってきた薄い麦酒の壺が回り、誰かが古い歌を歌い、誰かがそれを下手だと笑った。
日当で娘に靴を買うんだ、という男がいた。冬に売った鍬を買い戻すんだ、という男もいた。去年の冬は南の町へ出稼ぎに行くしかなかったが、今年は家から通える――と、同じ話を何度も繰り返す男もいた。
ロウェンは少し離れたところで、豆の汁の椀を抱えてそれを聞いていた。岩を割る速さや残りの日数のことを考えるつもりだったのに、気づけば男たちの話ばかり耳に入っていた。
「若様も一杯どうだ!」
赤ら顔の男が壺を突き出してきて、周りが一斉に静まり返った。男は、自分が誰に何を差し出したのかに遅れて気づいたらしく、壺を持ったまま石のように固まった。
ロウェンは壺を受け取って、一口飲んだ。
酸っぱくて、薄かった。
「……うまい」
火の周りで、どっと笑い声が上がった。
◇ ◇ ◇
十九日目。岩の背は、半分の高さまで下がっていた。
その日の午後、ロウェンは北側の壁の下で、楔の列を打っていた。上の段はもう削り終え、壁は板の傾きに合わせて斜めに寝かせてある。バルガスが確かめ、親方も確かめた壁だった。
三本目の楔を打ち込んだ時、足の下で、低い音がした。
ごり、ごり、と。
岩が割れる音ではない。もっと鈍くて長い、石と石が擦れ合う音。
ピイイイッ!
笛が鳴った。尾根の上で見張りが腕を振り回している。壁の中ほど、斜めに寝かせたはずの面のさらに奥で、一枚の板が、下の板の上を滑り始めていた。楔の衝撃が、見えていなかった奥の筋にまで届いたのだ。
村の男たちは、笛と同時に走り出していた。誰一人、迷わなかった。
ロウェンの真上から、扉を二枚並べたほどの岩の板が、ずり落ちてくる。
逃げる時間はあった。けれど逃げれば、板は壁の下で砕けて谷側へ転がり落ちる。谷側の石垣の向こうには、昼の休みで弟子が座っていたはずだ。笛は聞こえたか。走れたか。
ロウェンは槌を捨て、落ちてくる板の下へ両手を差し上げた。
ずしん、と掌に岩の重さがのしかかった。
腕では止まらない。肘を曲げずに突っ張り、重さを肩へ、肩から背骨へ、背骨から腰と脚へ流す。膝をわずかに曲げて、腿で受ける。その力が最後に落ちていく先は、足の下の丸太の台だ。組み上げた太い丸太が、ぎしりと沈んで――止まった。
止まった。板は、ロウェンの掌の上で、滑るのをやめていた。
腕の内側で筋肉が震える。肩の三角筋が岩の縁に押し潰されるように張りつめ、首の両脇が硬く突っ張る。息を吸おうとして、吸えなかった。胸を膨らませる余地がない。浅く吸って、浅く吐く。魔力を、限界まで注ぎ込む。
足場が泥だったら、足首まで沈んで、そのままぺしゃんこだった。
「横へ流せ!」
すぐそばで、バルガスの声がした。いつの間にか壁の下まで駆けてきている。
「谷側じゃねえ、尾根側だ。そっちには誰もいねえ。俺が合図したら、左の手を抜け」
返事は、できなかった。余裕がなかった。
「――今だ!」
左手を抜き、右手で板の縁を押す。板は右手を支点にゆっくり回って、尾根側の斜面へ傾き、ずどんと重い音を立てて転がり落ちていった。土煙が上がり、小石の転がる音がしばらく続いて、やがて止んだ。
ロウェンは膝をついた。腕が、自分のものではないみたいに重かった。
◇ ◇ ◇
バルガスは、しばらく何も言わなかった。
尾根側に転がった板を見下ろし、ロウェンの足元の丸太の台を見て、最後にロウェンの顔を見た。
「……だから、下から削るなって言ったろ」
「下からは削っていない。楔の衝撃が、奥まで届いた」
「知ってる。見張りが見てた」
バルガスはロウェンの隣にどかっと腰を下ろした。
「逃げりゃよかっただろ。笛は鳴ってた」
「谷側に、弟子がいたはずだ」
「いなかった。笛で真っ先に走ってた」
谷側の石垣を見ると、弟子が陰からひょっこり顔を出して、こっちに大きく手を振っていた。
「……そうか」
「そうだ。あいつらは走る。毎朝、走る方向を決めてるからな」
バルガスは、丸太の台を拳でこんこんと叩いた。
「こいつがなかったら、止められたか」
「止められなかった。足が沈んで、その上に岩が来ていた。お前の段取りがなかったら、今日で終わっていた」
バルガスは口を開きかけて、閉じた。代わりに立ち上がって、尾根の上の見張りに大きく手を振る。見張りが笛を短く三回吹いた。作業再開の合図だ。
「明日から、壁の奥の筋も見る。親方と一緒にな」
それだけ言って、バルガスは持ち場へ戻っていった。その背中からは、春の中庭で腕を組んでいた頃の意地っ張りな感じが、少しだけ抜けて見えた。
◇ ◇ ◇
岩の背が抜けたのは、四十四日目だった。
幅四・五メートルの切り通しの両側に、斜めに寝かせた岩の壁が続いている。その先には村の男たちが均した道が延び、谷側には削った岩の石垣が並んでいた。昔の領主が二年かけて諦めた場所に、四十四日で通した道だ。
最初に通ったのは村の荷馬車で、領都から南の町まで、一日で着いた。フィオナはハロルドに手紙を出し、南の町の商人仲間にも道のことを伝えてほしいと頼んだ。
それから、十日が過ぎた。
新しい道を越えてきた商人の荷馬車は――一台も、なかった。




