第12話 若様がいない日の道
ハロルドは、荷馬車を連れずに来た。
鞍に小さな荷袋をひとつ括りつけただけの馬で、新しい道を越えてきたのだという。執務室に通されると、出された茶に手をつける前に、窓の外の南の空――峠のある方角を眺めた。
「いい道だ。馬で越えてみたが、切り通しの壁も石垣も、石工の仕事としちゃ上等だ。一日で越えられるってのも本当だった」
「なら、なぜ荷馬車が来ない」
ハロルドは茶碗を持ち上げて、ようやく一口すすった。
「若様。春に、うちの倉の前で言ったことを覚えてるか」
「覚えている」
――それは、あんたがいなきゃ成り立たない運び方だ。
「南の町の商人仲間は、みんなあの話を知ってる。俺が話したからな。で、今度はその若様が、一人で岩の尾根を切り通して道を作ったって噂が来た」
ハロルドは茶碗を置いた。
「商人ってのは臆病なもんでね。道を選ぶ時に考えるのは、その道がいちばん悪い日にどうなるかだ。大雨で切り通しの壁が崩れて道が塞がったら、誰がどける。峠の上で車軸が折れたら、どこで直す。坂の途中で馬が上がれなくなったら、誰が押す」
「俺が」
「そう。若様が、だ」
ハロルドは、茶碗の縁を指でなぞった。
「前に、峠で荷馬車が谷に落ちたのを二回知ってるって言ったろう。一回目のは、俺の兄貴の荷馬車だった。兄貴は助かったが、脚を折って、二度と御者台には座れなかった。荷も馬も谷の底だ。その年、うちの店は潰れかけた」
声は平らだった。何度も人に話して、角がすっかり取れてしまった話し方だった。
「だから俺は、道の悪い日のことしか考えない。……臆病だろう」
ロウェンは首を横に振った。ハロルドは短く笑って、また真顔に戻った。
「若様がいる日はそれでいい。だが若様は一人しかいない。王都に呼ばれる日も、風邪を引く日も、いずれは来る。その時、道の真ん中で塩を積んだ荷馬車が立ち往生したら、損をするのは俺たちだ。ハルト領回りの道は遠いが、若様がいなくても、誰がいなくても、毎日同じように通れる」
ロウェンは反論しなかった。
反論できる材料がなかったのだ。道を通ったのは村の荷馬車一台だけで、それも荷は半分しか積んでいなかった。満載の商人の荷馬車が、ロウェンの手を借りずに越えられるかどうかは、まだ誰も確かめていない。
道はできた。次は、使える道かということを示さなければならなかった。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、確かめよう」
口を開いたのは、隣で黙って聞いていたフィオナだった。
「ハロルドさんの荷馬車を一台、南の町からこっちまで、新しい道で走らせてほしいの。荷はいつもどおり満載で、馬もいつもの二頭で、御者もハロルドさんのところの人で」
「試しに走らせて立ち往生したら、損をするのはこっちだぞ」
「その損は、グレイヴ家が持つ。荷が一日遅れた分の値引きも、馬が脚を痛めた時の手当ても、荷が駄目になった時の代金も。既定の予算の範囲で、先に取り決めの紙を書く」
フィオナは帳面を開いて、ハロルドのほうへ向けた。下書きは、もうできあがっていた。
「それと、試しがうまくいったら、新しい道の通行料は最初の一年、取らない。ハルト領回りの通行料の分、ハロルドさんの塩は他の商人より安く売れるよ」
ハロルドは帳面を引き寄せて、黙って一行ずつ読んだ。読み終えると、紙の端をとんと指で叩いた。
「一つ、文を足させてくれ」
「どうぞ」
「試しの間、若様は荷馬車に指一本触れないこと」
ハロルドは、ロウェンを見た。
「押しても、引いても、持ち上げてもいけない。若様が手を出した時点で、試しは失敗だ。……若様がいない日の道を、確かめるんだからな」
「構わない。ただ、横について歩く」
「何のために」
「測るためだ。荷馬車がどこで遅くなって、どこで馬が息を切らすか。どこの坂が何度で、どこの曲がり角が何メートルあるか。全部書き留める」
ハロルドは少しの間ロウェンの顔を眺めてから、帳面を閉じてフィオナに返した。
「足した紙ができたら、署名する」
◇ ◇ ◇
試しの荷馬車は、三日後の朝に南の町を出た。
夜明けの町は、まだ半分眠っていた。パン屋の窯からだけ煙が上がり、焼けた小麦の匂いが通りに流れている。ハロルドの店の前には、店の者たちが見送りに出ていた。車軸に油を差し直した御者に、女房らしい女が包みをひとつ持たせる。店の奥の戸口には、脚を引きずった年配の男が寄りかかって、黙って荷馬車を見ていた。たぶん、ハロルドの兄なのだろう。
荷台には塩と鉄の鍬の刃を満載して、重さはおよそ一トン。引くのは二頭の栗毛。御者はハロルドの店で十年荷馬車を扱っている中年の男で、ハロルド本人も馬で並んで歩く。
出発の前に、御者がロウェンに馬の話をしてくれた。二頭とも八歳で、この商いを五年続けている。平らな道なら一トンを一日じゅう引けるが、急な坂が続くと、午後には脚が上がらなくなる。
「坂の途中で一度止まると、もう一回動き出すのは平らなところの何倍もきついんです。止まらせないのが、いちばん。止まったら、半分は負けです」
ロウェンは、その言葉を帳面のいちばん上に書いた。
そして荷馬車の二歩後ろを歩き始めた。手には帳面と、館から持ち出した十分計りの砂時計。砂が落ちきるたびに、荷馬車が進んだ距離を歩数で数えて書きつける。その後ろを、バルガスが騎士を一人連れてついてきた。
「若様が荷馬車の後ろを歩いてるのに、押しちゃいけねえってのは、見てるほうが落ち着かねえな」
「押さない」
「分かってる。若様の手が、さっきから二回、荷台の縁に伸びかけてた」
ロウェンは、自分の右手を見た。手のほうは、どうやら約束の文面を読んでいないらしい。
しばらく歩くと、ハロルドが馬の歩みを緩めて横に並んだ。
「春からずいぶん変わったって、南の町でも噂になってる。何があった」
「計算をし直した」
「計算」
「このままいくと、どこで何が足りなくなるか。足りなくなる前に、何を動かせばいいか」
ハロルドは口を結んだまま、坂を一つ越えるあいだ馬を歩かせた。そこで、ふっと鼻から息を抜いた。
「商人も、損が見えたら帳簿をつけ直す。つけ直さねえ奴は潰れる。……若様の家は、潰れかけてたからな」
褒め言葉なのかどうか、ロウェンは少し考えた。答えが出る前に、ハロルドはそれ以上何も言わずに、荷馬車の横へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
谷から尾根へ上がる道はなだらかだった。馬は汗をかきながらも足を止めず、砂時計一回分の歩数は、毎回ほとんど変わらない。尾根筋に出ると道は平らになり、荷馬車はむしろ速くなった。御者が振り返ってハロルドに何か言い、ハロルドが短く頷く。
昼前に、荷馬車は切り通しの南の入口に着いた。
尾根筋から切り通しの底までは、短い上り坂になっている。長さはおよそ六十メートル。岩を削った時に出た砕石を土に混ぜて突き固めた、硬い坂だ。村の荷馬車は、この坂を半分の荷で上った。
御者が手綱を握り直し、馬に声をかける。二頭の栗毛が首を下げて、坂に取りついた。
十メートル。上る。
二十メートル。馬の足取りが重くなる。蹄が砕石の表面を掻き、蹄鉄がカツ、カツと硬い音を立てる。
三十メートルを過ぎたところで、右の馬の後ろ脚が、ずるっと滑った。
荷馬車が止まった。
止まったまま――じわり、と後ろへ下がり始めた。




