第33話 技師と召喚
技師が来たのは、それから四半刻ほどあとだった。
岸のほうから小柄な年配の女が、若い職人を十人ほど引き連れて走ってきた。白髪を後ろでひっつめ、腰に大工道具の袋を下げている。女は手すりから身を乗り出してロウェンを見下ろし、次に桁の端を見て、最後に橋脚の根元の渦を見た。
「……あんた、何者だい」
「グレイヴ伯爵の代行だ」
「ああ、噂の。山を素手で割ったっていう」
「割っていない。削っただけだ」
「聞いてたより、ずいぶん小さいね」
女はそれだけ言うと、もうロウェンのほうは見ずに、職人たちに指示を飛ばし始めた。王都の橋と水門を三十年見てきた技師長で、名前はヘルガというのだと、あとで若い騎士が教えてくれた。
「鎖を持ってきな。桁の端を、上流側の石の輪に三本ずつ縛る。それから角材を二本。桁と石の間に噛ませて、楔で締める。橋脚のほうは、三本目と五本目から綱を張って引っぱる。巻き車を両方に据えな。傾きが止まりさえすれば、根元の石は水が引いてから入れ直せる」
職人たちが散った。
ヘルガは、手すりの上からもう一度だけロウェンを見下ろした。
「あんたが止めてる間に、全部やる。一刻半はかかるよ。もつかい」
「もたせる」
「もたせる、ね」
ヘルガは鼻を鳴らした。
「もたないなら、先に言いな。うちの若いのを、桁の下敷きにはできないからね」
◇ ◇ ◇
一刻半は長かった。
職人たちは、ロウェンのすぐ頭の上で働いた。鎖が桁に巻きつけられ、じゃらじゃらと鳴る。角材が桁と石の間に押し込まれ、楔が槌で打ち込まれる。一本打ち込まれるたびにほんのわずかずつ、肩にかかる重さが減っていく気がした。気がしただけかもしれない。
両脚の腿が、先に震え始めた。
魔力はまだ残っている。足りないのは、脚のほうだった。同じ姿勢で、同じ筋肉を、同じ強さで締め続けている。魔力をいくら流し込んでも、疲れていく筋肉そのものは新しくはならない。訓練場で砂時計をひっくり返しながら、騎士たちに言ってきたことだ。自分の体で確かめる羽目になるとは思わなかった。
手すりの上には、フィオナがいた。
職人たちの邪魔にならない場所に座り込んで、ずっとロウェンを見下ろしていた。何も言わない。言わないが、ロウェンが顔を上げるたびに、目が合った。
一度だけ、フィオナが口を開いた。
「ロウェン。今、何考えてるの」
「楔の数を数えている。あと四本だ」
「……そっか」
フィオナは、なぜか小さく笑った。
両岸の巻き車が回り、綱がぴんと張った。傾いていた橋脚の天辺が、ぎしりと鳴って、止まった。
最後の楔が打ち込まれた。
「いいよ。離しな」
ヘルガの声がした。
ロウェンは、ゆっくりと肩を桁から離した。桁は動かなかった。鎖も、角材も、楔も、何一つ動かなかった。
ロウェンは、橋脚の出っ張りに座り込んだ。脚が、自分のものではないみたいに震えていた。
手すりの上から、フィオナの手が伸びてきた。ロウェンがその手をつかむと、フィオナは両足を踏ん張って、全力で引っぱった。ロウェンの体は、一センチも上がらなかった。
「……重い!」
「自分で上がる」
「知ってる! でも引っぱりたかったの!」
結局、ロウェンは自分で手すりを乗り越えた。乗り越えたところで、フィオナに外套の襟をつかまれて、額を胸にごつんとぶつけられた。何のつもりなのか、フィオナは言わなかったし、ロウェンも訊かなかった。
岸では、見物人がびっしりと並んでいた。噂は、ロウェンが岸に着くより先に着いていた。
「橋を、一人で持ち上げてたって」
「持ち上げていない。止めていただけだ」
訂正は、例によって誰にも届かなかった。
人垣の中から、若い騎士が抱えて逃がした男の子が、父親に肩車されて手を振っていた。父親は、荷馬車と馬を失いかけた御者だった。馬は岸に上がったところで無事につかまったという。父親は何度も頭を下げ、男の子は父親の頭の上から、ロウェンに向かって大声で訊いた。
「おにいちゃん、橋より強いの?」
「橋のほうが強い。俺は、止めていただけだ」
男の子は、少し考えてから、「じゃあ、二番目に強い」と決めた。どうやらこの町でも、子どもの物差しはだいたい同じらしかった。
ヘルガは職人たちに後片づけを指示しながら、ロウェンのそばを通りかかった。
「根元の石は、水が引いたら入れ直す。ひと月かかるね。……あんたが止めてなきゃ、半年だった」
それだけ言って、ヘルガはもう次の職人を怒鳴りつけていた。
◇ ◇ ◇
召喚の場は、その三日後だった。
王宮の広間は、グレイヴの館の倉が丸ごと入りそうなほど天井が高かった。正面の壇には宰相が座り、両側には貴族たちが並んでいる。王は、まだ姿を見せない。まずは宰相と貴族たちの前で、説明をしろということらしかった。
ロウェンが広間の真ん中に進み出ると、両側からひそひそ声が聞こえた。
「あれが、グレイヴの……」
「火も灯せなかった、あの落ちこぼれか」
「宴で杯を投げた」
「一晩で金貨を三十枚、賭けで溶かしたとか」
最後のは初耳だったが、記憶によると本当だった。
ロウェンの半歩後ろには、フィオナが帳簿の木箱を抱えて立っていた。
広間の床は磨かれた白い石で、靴の音がよく響いた。壁には歴代の王の肖像画がずらりと並んでいて、どの王も、ロウェンを見下ろして不機嫌そうな顔をしていた。館の大広間に並んでいた、あの胸像と肖像画の睨み合いを思い出した。あれは売って、麦になった。
説明は、フィオナの帳簿で進んだ。売った品、買った麦、掘った水路、通した道。数字を読み上げるたびに、壇の上の宰相が少しずつ身を乗り出した。壁際には、ユリウスが控えていて、宰相に訊かれると、自分の報告書と別紙三枚の中身を淡々と繰り返した。
途中で、貴族の列から声が上がった。
「帳簿など、いくらでも整えられる」
恰幅のいい年配の男だった。
「放蕩で名高い若君が、一年でまるで別人になったと。そんな話を信じろと言うのか。……婚約者殿も、お気の毒なことだ。家同士の取り決めとはいえ、こんな男の尻拭いのために、帳簿係の真似までさせられて」
広間に、小さな笑いが広がった。
ロウェンは、男のほうへ向き直った。
「帳簿係の真似ではない」
笑いが止まり、静寂に包まれた。
「この一年、グレイヴ領の金の出入りを全部決めたのは、彼女だ。商人と値を決めたのも、隣の領地と水の取り決めを結んだのも、彼女だ。俺がやったのは、石を運んで、土を掘っただけだ。……俺の悪口はいくらでも言っていい。だが、彼女の仕事を『真似』と呼ぶのは、慎んでいただきたい」
男が口を開きかけた。その前に、フィオナが一歩前に出た。
「それと、もう一つ」
フィオナは木箱を抱えたまま、にっこり笑った。
「この人が別人みたいになったかどうかは、私が毎日、いちばん近くで見てました。この一年、毎朝、執務室の椅子に座ってたのは本当です。……帳簿には書いてませんけど、それは私が証明します」
広間が、改めて静まり返った。
壇の上で、宰相が咳払いをした。咳払いのわりに、口元が少し緩んでいた。
◇ ◇ ◇
その日の説明は、それで終わった。広間を出たところで、見慣れない騎士が二人、ロウェンを待っていた。王家の紋章を胸につけた、近衛の騎士団の者だった。
「グレイヴ殿。騎士団の副団長より、申し入れがございます」
騎士は、きっちりと頭を下げた。
「噂の腕前を、ぜひ一度、模擬戦で拝見したいと」




